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「……降るな」夏川は呟いた。


 まるで慌てん坊が墨をぶちまけたように黒く、陽の光を一切差し込ませない気概を感じさせる厚さの雲が空を覆っていた。それは、車のサイドウィンドウという小さな窓からでも瞬間的に思うほど。


 夏川は気分が晴れなかった。理由は勿論、空模様。まだ昼前だというのに薄暗い様相が、全身のやる気を削いで気だるくさせる。花粉症患者が花粉が飛んでる日になんとなく憂鬱なのと一緒である。だから夏川は、晴れて欲しい、と一心に願っていた。

 だが、願っても願っても空はそれに反応しようとはしてくれない。それどころか色はより黒く、厚さはより増している。空の上にいる神様がせっせと継ぎ足してるんじゃないかと疑いたくなるほどのスピードだ。


「晴れてくんないかな……」


 徐にドアが開く。乗り込んできたのは、秋元だ。勢いよくドアを閉めるやいなや、手に握っていたポリ袋の口を広げる。袋には、緑とオレンジと赤を使って数字を表現したロゴがプリントされていた。

 演劇部のリハーサルのため、今日も夏川は秋元を車に乗せていた。今回はついでではなく、秋元を送るだけ。突然電話で呼び出され、お願いという名の強制命令が発令されたのだ。その道中、トイレと飲料購入のために、秋元はコンビニへ寄るよう頼んだ。そうして最も近くにあったコンビニが、今目の前にあるコンビニであったというわけである。


 秋元から無言でコーラを差し出された夏川は「ゴチになります」と礼をしながら受け取った。待ってましたと言わんばかりの笑顔とともに。

 手元に寄せると、夏川はすぐキャップを捻った。鋭い音が耳に届く。わずかにできた隙間から抜ける炭酸の音だ。相当窮屈だったのか、音と同時に小さな泡が指に飛んできた。途端、液体が上にせり上がり、弾けている茶色い液体が甘い香りを鼻へ運んできた。

 飛んだ泡を指先で軽く拭いてから、キャップを取った。続けて、縁に口に付けてボトルを傾ける。コーラの刺激が口から喉を素通りし、胃の中へ。胃液と炭酸が反応を起こすのを感じながらしばらく飲み続け、ぷはっ、と口から離した。

 大きく息を吐いて、ボトルを眺める。もう4分の1ほど無くなっていた。夏川にその感覚はなかったのだが、実は喉がかなり渇いていたことを認識した。


 ふと横目に捉えた夏川は顔を向けた。


「……どうかしました?」


 せり上がるガスを抑えながら、秋元に声をかける。


 秋元が動かないのだ。後ろに曲げた首、どこか遠くを見つめている目、袋の持ち手を掴んだままの両手。瞬きもしているし、微かに開けた口から息を漏らしているため、死んではいない。だが、まるで冷凍庫に入れられたかのように姿勢は固まったままだった。加えて、表情は冷えきっており、体もどこか小さく感じる。

 そういえば、と渡される時のことを夏川は思い出す。いつもなら、味わって飲めよ、とか言うはずなのに、今日は何もなかった。無言だったのだ。


 夏川はもう一度、先輩、と声をかけようとした。だがその前に「すまん」と秋元が口にした。


「はい?」


 思わず聞き返す夏川。聞こえてはいたが、謝られるとはつゆほども思っていなかったのだ。

 秋元はドリンクホルダーに袋に入ったまま入れた。表情は妙に重い。


「嘘ついてた」


 それが何を指しているのか、どれくらいの程度なのか、夏川には分からなかった。心当たりがないわけではない。しかしそれらは全て、発した直後に「冗談」と本人が告げてきていたことばかり。夏川の中では、秋元の冗談が謝罪と同等の意味を持つ言葉に変化していた。

 もし仮に秋元の言う嘘が夏川が思っていることであるならば何故、それに今更謝られるのか不明だった。さらに、こんな神妙な重い表情で謝るほどだから相当大きな問題なのだろうけど、嘘による被害などは被っていない。

 つまり、心当たりはあるが、その心当たりがない、というなんともややこしい事態になっているのだ。


「嘘、ですか?」夏川は、興味と気になると不安の入り混じった微妙な声で恐る恐る尋ねた。


「今日さ、リハないんだ」


 気まずそうに口元を動かす秋元。「お前に話したいことあってさ、リハあるって嘘ついた」


 夏川は、別に話したいことがあるならそう言ってくれればいいじゃないですか、と最初は思ったしそう伝えようとしたが、見たことのない秋元の深刻そうな顔を見て、口を噤んだ。


「で、その話したいことって?」嘘までついて話したいことはなんなのか、夏川は続きを聞く。


 すると、秋元は背もたれに体を寄せ、天井を仰ぎ見た。


「お前の言ってた通り、会ってなかったんだ」


「誰と?」


「冬実と。てか


「……誰と?」


 秋元は目を閉じた。「だから、冬実と」


 夏川は言葉を失った。これぞまさに絶句という具合で、頭が真っ白になった。側から見れば気絶してると思われるほど口を縦に広げた状態。

 まさかであった。あんなに綺麗で、お似合いな人と別れるなど、夏川は予想だにしていなかった。下手したらそのまま突き進んじゃないか、いわゆる将来の伴侶的なのにもなるんじゃないか、と夏川は思っていたぐらいなのだから。


「な、なんで別れたんです?」


 夏川は何よりも先にこう尋ねた。もし一時の気の迷いや些細な喧嘩から発展したことが原因なら、早急に謝って関係修復を図るべきだと考えたためである。


「絵の勉強するためだ」


 予想を斜め上の回答が返ってきた。


「……絵?」


「ああ、海外で絵を学ぶために別れた」


 主語はなかったが、冬実が、というのは状況的に容易に想像できた。


「止めなかったんですか?」


 秋元は鋭い眼差しを夏川に向けた。「なんで止めんだよ」眉は中央に集まっている。


「冬美のこれまでの人生経験によって磨かれ研がれた結晶が夢なんだ。例え彼女だろうが、たったの2年ぽっちしか関わってねえ俺が口出ししていいことなわけねえだろうが」


 睨みつけられた夏川は耐えきれず目を逸らす。それで気づいたのか、秋元は表情を緩ませ、「すまん、怒ってるわけじゃないんだ」と謝る。


 訪れる沈黙。空気に重りが足されたみたいに体へ乗ってきて、妙に息苦しさを感じた。


「別れようっていうのは、彼女さんから?」


 夏川の問いに秋元は首を横に振った。「いや、俺からだ」


 またしても予想外な答えに驚きを隠せない夏川。てっきり、向こうからとばかり思っていた。


「なんでです? なんで先輩が別れようなんか……」


 近くで見てきたからこそ、夏川には意味が分からなかった。その想いが秋元に通じたのだろう。目を閉じ、深く息を吐いてから、「彼女の家で見つけたんだ。いや、見つけちまったのほうが正しいか」と話し始めた。


「彼女が買い物に出てる時、偶然机に積まれた山にぶつかってな、床にばら撒いた。慌てて片付けてたら偶然見ちまった。海外の物件案内資料とか、海外の学校パンフとかをな」


 眉はまた中央に寄り険しい表情になっている。しかし、先程までとは異なり睨まれるような鋭さはなかった。代わりに弱さと切なさが込められていた。


「でも……それは、ただ見てただけかもしれないじゃないですか」


 海外旅行に行きたいな、と旅行パンフレットを眺める人も世の中にはいる。そう思って、夏川は訊いた。いや、訂正しようとした。


「俺にバレないように、上にスイーツの本とかファッション雑誌とか載せて、丁寧に隠してたのにか?」


「隠したんじゃなくて、なんかこう、色々と読んで置いて読んで置いてをしてたら積み上がっちゃったのでは」


 夏川は何故自分がここまで頑なな態度を取っているのか、よく分からないまま、話を続けていた。


「冬実は綺麗好きで几帳面だ。本や雑誌は読んだら必ず本棚に戻す。だからこそ確信できた」


「だ、だとしても海外で絵を学びたいっていうのを決めつけるのは早計じゃないですか。決定的なことは……」


「あったよ」秋元は質問が来る前に答えた。


「英語あんま分かんねえから、調べてみたら分かった。そこに書いてあんのが、『おめでとう。来月から受講が可能なので所定の方法から編入手続きを済ませてくれ』って。送り主は、ユニバーシティ・オブ・ザ・アーツ。これは流石の俺も分かる。どっからどう読んでも間違いなく、美術学校だ」


 それ以上、夏川は何も言えなかった。言えなくなった。まさに決定的な証拠であった。


 秋元は、そんでさ、と続ける。


「冬実が、なんとかっていう世界的に有名な美術学校で絵を学びたかったって話してたことを、そん時思い出した」


 秋元は鼻先を人差し指と親指で摘み、離す。力が強かったのだろう、指の形をして赤くなっていた。周りの肌色との対比により、よく目立つ。


「だからさ、突然なんだよ感はなかった。あの時は諦めたとか言ってたけどやっぱ未練あったんだな、ってむしろ合点がいったよ」


 秋元は靴を脱いだ左足を席に置いて、膝を立てた。


「そしたら、色んなことの説明ができた。ボーッとしてたり、バイト入れまくってんのにめっちゃ節約してたり、冬実の家行くたびに家財道具が減ってたり」


 膝の上に腕を乗せ、「費用の足しにでもしてたのか、それとも断捨離か」と独り言のように、でもどこかに向かって秋元は呟いた。夏川は言葉が自分宛てではないと察し、返答はしないまま、黙っていた。


「で、俺は考えた。一度しかない短い人生をかけてでも叶えたい夢があんなら、『頑張ってこい』って背中押してやろうって。それが彼氏ってもんだなって……あれ? 質問なんだっけ??」


「先輩から別れを告げた理由です」


 秋元は「ああ、そうだそうだ。忘れてた。ったく歳は取りたくないよ、ハハハハ」と力なく笑う。


「さっき冬実が、ボーッとしてたって話したろ? 冬実は花粉症持ちじゃねえから、花粉によるもんじゃない。てことは単純に、なんか悩みがあんのかと思ってな、聞いてみたけど、なんとなーくはぐらかされた」


 噛み締めながら思い出している秋元の言葉を黙って聞く夏川。瞬きも忘れるほどにじっと。聞き逃さぬようじっと。


「で、見つけた時、ピンときた。言わなかったことはこれだったのかって。だから言い出せなかったんだなって」


 本当にそうだったのだろうか、ここまでの話を聞いて夏川は疑問に思った。だからといって尋ねると、それがカップルってもんだ、と返されて終わるため、夏川はしなかった。しかし、まるで喉につっかえた小骨のような違和感を心に残っていた。

 一方で、秋元は「だから俺から告げた」と続ける。


「そっちの方がさ、向こうが罪悪感なく行けるだろ。杞憂だろうけど、自分のせいでなんて思って絵描いても上手いのなんかかけねえからな」


 秋元は固まったパーツを動かし、崩した。こんな重い表情、性に合わないと言わんばかりにぐしゃっと。


「新しいことしようとしてんのに、今出来ることさえも出来なくなったら、本末転倒だ」


 秋元は後頭部で手を組んだ。


「……いつ別れたんです?」


 夏川は重い口を開く。コーラを飲んだというのに、唇から水分は消えていた。乾ききっており、開いた瞬間唇同士が離れようとせず、くっついたほど。


「半月前」膝を下ろしながら秋元は答えた。答えを知り、夏川ははっと目を見開く。「てことは」という呟きに、秋元は「そうだ、先週お前と会った時にはもう別れてた」と続けた。


「すいません……」


 頭を下げる夏川。


「なんでお前が謝んだよ?」


「だって、俺が前いじった時にはもう別れてたのに……」


 それに対して秋元は何も言わなかった。代わりに「いじってたんだな、やっぱ」と笑い、口を縦に開くことで伸ばした頰を掻いた。爪を立てて5回ほど。


「でも、古臭いです」


「ん?」


 夏川は秋元を見る。


「好きなら追いかければよかったじゃないですか。今の時代、海外なんて簡単に行けます。なのになんで……」


「馬鹿」秋元は一言そう放つ。表情から、その言葉が冗談ではないことは明白だった。


「夢なんてのは半端な気持ちじゃ叶えらんねえんだよ。周りの何かを犠牲にしてかねえと、叶わねえんだよ」


 秋元は表情を緩める。


「それに、好きってのは何も一緒にいることだけじゃねえし」秋元は窓の外を見た。ドアに肘を立て、上に顎を置いている。


「好き、なんですね」


 夏川は問う。返事はない。


「冬実さんのこと、まだ……好きでい続けてるんですね」


 夏川は繰り返す。それでもない。


「難しいって話してましたけど、先輩はできてるじゃないですか。だったら、やっぱり一緒にいた方がいいです。絶対に、いいです」


 遠くにいる冬実を動かすのは難しい。だが、目の前にいる秋元なら動かすことならできる。夏川は針の穴から微かに射す光を頼りに言葉を並べる。


「今ならまだ間に合う……」


「なーんて、ねっ!」


 勢いよく振り返った秋元。表情は異常なぐらい明るかった。お面でもつけていたのかと思うぐらい明るかった。


「へい?」


 素っ頓狂な顔を浮かべる夏川。目はハチドリの翼みたく、素早く動いていた。動きだけで何が起きたのか分かっていないというのが手に取るように分かった。


「今日はいつだ?」


「ええっと……あっ」


 夏川は動きを止めた。


「そうなんですよぉ~エイプリルフールなんですよぉ~」


「じゃあ、彼女さんと……冬実さんと別れたとかいうのは」


「嘘嘘、冗談。別れてない」


「……本当ですか?」


 どこか夏川の中で、信じきることのできない自分がいた。だが、秋元は「うん」と頷き、「あっ、リハがあるって嘘ついたのは本当ね。つまり、リハは今日はない。これまでの話を信じさせるための要素としてちょっとばかし利用させてもらっただけ」と続けた。


「なんで突然……」


「実はさ、今度の公演でやるのが、こういう話なんだよね。勿論冬実とか名前は多少脚色したけど、他の部分は大体一緒。エイプリルフールだしって、試しに演技してみたら……いや~即興劇なのにここまで上手く騙せるんなら、俳優にでもなっちゃおうかな~」


 窓の外の日に反射し、笑った目元がキラリが光った。


「先輩」夏川は声をかけた。


「なんだい、夏君?」目を大きく開いて強く閉じると繰り返す秋元。


「1つ言わせて下さい」


「おお、お叱りかい?」と言ってすぐ秋元は気づき、「改めて強調しとくけど、別れてないから。これ、ホントだから」と笑いながら返した。


「いいから、聞いてください」


 だが、いつもにはない強さを込めた言葉に、思わず秋元は黙る。先程までと逆転した。夏川は体を秋元の方へ向ける。


「先週言ってましたよね、恋はできるだけした方がいいって」


 互いに見合っている。運転中では決して出来ない目と目を合わせていた。


「例えば……あくまで、例えばですよ? 恋人と別れると、また別の新しい人と付き合うことができます。前に進むことができます。別にそれが悪いとは全く思ってません。ただ、たまには、後悔しないように少し戻るのも同じくらい大事なことじゃないかなって俺は思うんです。だって後悔は、無くせなくても0に近づけることはできるので。だから、先輩。もしよければ後悔、減らしてみて下さい。ということで……えぇ……はい、以上です」


 一瞬きょとんと、それこそ鳩が豆鉄砲を食ったような顔つきになり、顔を正面に戻す秋元。だが、あくまで一瞬。すぐに「そうだな。うん、確かにそうだ」と、何度も頷き始めた。


「そうだ、けどだ」


 秋元は再び首を右へ。「別れてないと言ってるのに、どこか慰めに聞こえるんだが……気のせいか?」


「ええ」夏川は笑った。


「気のせいですよ。だってこれ、ただのですから」


 秋元は「こりゃ一本取られたな」と軽く口元を綻ばせ、そっぽを向いた。そして、鼻をすすった。


「あ〜花粉イラつくな。飛び過ぎだってんだ、ちくしょう」


 秋元は人差し指で鼻下を擦った。それでも鼻水は止まらず、どうにか引っ込めようと何度もすする。親指で目尻をなぞってもいた。


 このまま、見ているのは野暮というもの。夏川は動く。ドリンクホルダーにコーラを置く。ふと目に光が入り、反射的に目が細くなる。

 まさか。夏川はサイドウィンドウ越しに外を眺めた。空から陽の光が車内に差し込んでいたのだ。煌々と輝いている。黒い雲はもうどこかへ行った。


 そうか晴れたのか。夏川は体を正面に戻すと、右手を伸ばして付けっ放しだったキーを回した。

 車は甲高い声を上げて、激しく揺れた。それはどこか震えのようにも感じた。それに呼応して秋元も、あぁあっ、と叫んで前を向く。何かを振り払おうと、振り落とそうとしてるかのような大きさだ。


「やっぱ、春は嫌いだ。大っ嫌いだ」


 夏川はふっと笑みをこぼした。


「ですね」

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SPRiNG 片宮 椋楽 @kmtk

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