SPRiNG

片宮 椋楽

25/3

「ハックションッ!」


 助手席からのけたたましい声は、夏川なつかわの肩を激しく動かした。いつもよく喋るのに今日はまだ一言も口を開いていない。てっきり熟睡しているのだと思っていた。

 また腕の硬直のせいで、危うくハンドル操作を誤りそうになる。どうにか持ちこたえ、安定を取り戻してから、夏川は軽く顔を傾け、残りを目で調節して横を向いた。


 くしゃみの主である秋元あきもとは何事もなかったかのように、ドアに付いたアームレスト部分に左肘を立てて上に顎を乗せた。空いている右手で鼻の下を何度も擦りながら、しつこく出てくる水をすすっている。

 開いた助手席の窓から風が入ってくる。そのため、秋元の髪は激しくなびいていた。とはいえ、そもそもいつもボサボサであるため、そんなに変わらないか、と夏川は思っていた。


「ハ……ハックションッッ!!」


 外気と車内の空気を秋元の息がかき混ぜる。細かな粒子がフロントガラス越しの光に反射し、動いている洗濯機のように舞っているのを、夏川は見た。

 信号が赤に変わり、前方の車が止まる。夏川はアクセルペダルからブレーキペダルへ足を移し、少しずつ踏んだ。ゆっくりと速度が緩み、止まる。


「風邪ですか?」


 夏川がそう秋元に声をかけた直後、もしもし、と外から男の声が聞こえた。夏川の隣、つまり運転席の窓の方からだ。秋元には自分から声をかけたのに、反射神経的に顔を外へ向けてしまう。視覚にしろ聴覚にしろ、気になるとその方向へ顔を向けてしまうのが夏川の癖だった。

 窓のすぐそばでは、男が電話をしていた。黒のフォーマルスーツを着ている。最初サラリーマンだと思ったけれど、時期的なことを考えると、就活している学生かもしれない。あと少しで自分も、とふと思い、夏川は憂鬱になる。


「いや」鼻を人差し指でこする秋元。


「誰かが噂してないんだったら、花粉症」


 夏川はため息をつく。「なら、なんで窓開けたんですか」


「外の風に当たりたかったんだよ。そういう衝動にかられる時、あるだろ?」


 衝動、というには少し大袈裟な気が夏川はしていた。


「少なくとも花粉症患者が花粉の激しく舞ってる春の季節に開けるのは、無くないですか」


「無くなくないよ」


 そう言うと、秋元はふてくされながら、人差し指でドアに付いたボタンを引っ張って窓を閉めた。「ったく、春なんか嫌いだ」と吐き捨てながら。


 夏川は春が好きだった。苗字の一部なのだがチャラ・チャラ男やチャラ・チャラ子の溢れる夏より、食べたり読んだりするしかない秋より、寒さで人間の活動を阻害してくる冬より。勿論、日差しの暖かみと生命の息吹を感じれるから、という消去法ではない春視点での理由だってちゃんとある。

 なので、窓を閉め外の騒音が遮断されてから、夏川は「俺は好きですけどね」と正直に伝えた。


 信号が青に変わったのを見て、夏川はアクセルを踏み込んだ。エンジンが喜びに満ちた良い音を鳴らす。


「おいおい……」秋元はため息交じりの声を漏らした。「そこは相容れろよ」

 夏川は「いや、無理っすね」と譲らなかった。「強情だな」と一笑する秋元。


「次の信号を左でしたっけ」夏川は確認のために尋ねた。


「いや、右」


 確認して良かった、と夏川は心でホッと息を吐く。


「ちなみにだけど、俺、先輩だぞ?」


 風を吹かせられても夏川の反応は変わらず、「でもっすね」と頑なだ。生意気だとかなんとかは言われるかもしれないが、それが怒りではないことを夏川は経験から知っていた。


「生意気だなぁ〜」


 やっぱり。夏川は心で呟いた。


「季節外れな名前してんのに」変な責め方をする秋元。


「年に一回は必ず来ますからいつかは当たります。というか、それ言ったら先輩もじゃないですか」


「生意気か否かの話だから、俺はいいんだよ。歳上なんだからさ、夏君」


「……川です」


「ん?」


「夏です、名前」


 名前を間違えられるほど一緒にいる期間は短くない。夏川は少し傷つく、もし本当なら。


「分かってるって。冗談だよ、夏川君」


 秋元はにんまりと笑みを浮かべる。いつも“お前”で呼ばれているため、夏川は苗字呼びが妙になれない。


「しかし、まあ、お前も言うようになったねぇ~」


 しみじみと懐かしむ秋元。夏川にははぐらかしているようにも見えた。


「付き合い長いですしね」


 だからと言ってこれ以上問いただしても誰も得しないと思った夏川は、はぐらかしに乗ることにした。


「そういや」秋元はヘッドレストの後ろで手を組む。「お前と出会ってもう何年だ? 2年だっけか」

「1年どっか置き忘れましたか? それとも捨てちゃいました?」夏川は一番右の車線に車を寄せた。曲がる準備だ。


「冗談だよ、冗談。3年だろ、3年だよな。うん3年だ」


 赤信号で、また止まる車。赤が目に入り、夏川はまた運転席側を見る。正体は、歩道を挟んだ真向かいにある中華屋の寂れた雨よけだった。


「てか、もうそんなに経つんだな」今度は左肘をドアにつける秋元。「ったく……時の流れは早いな。いや、早くなったもんだ、が正解か。俺がお前の歳の時は、もっと遅かったんだからな」


 夏川は中華屋の前の歩道を歩く人を見ていた。ランドセルを背負った小学生からブレザーを着た高校生。子供を自転車の前と後ろに乗せた立ち漕ぎ主婦にパンプスだからか、走りづらそうに小走りしているキャリアウーマン。同じ場所でそれぞれの時間を過ごしている人々をぼーっと見ていた。


「そんなに違います?」


 だが、耳だけは車内に向けて、会話は途切れぬようにした。


「違う違う。うさぎと亀ぐらいに違う」


「途中抜かしちゃってるじゃないですか。結果、若い時の方が早くなってんじゃないですか」


「細かいことは気にすんなよ。そんな感じですよっていうふわっとした例えなんだから。もてねえぞ」


「別にいいですよ」


「おおおっ」秋元は面白そうに眉を上げた。「強がりますね~」


「そういうわけじゃないですよ。正直、あんま恋に興味ないというか、関心が向かないというか」


「俗に言う、ショウ食系って奴だな」


「先輩違います」訂正を入れる。「ショウ食系じゃないです。ソウ食系、草です。少ないじゃなくて草」


「そんなことぐらい知ってらぁ。わざとだよ、わざと」


「ほれ、信号変わったぞ」秋元の声かけで、夏川は正面に視線と意識を戻す。忘れていたウインカーを慌てて出し、少し前へ。かちかちと一定のリズムが車内全体に響くのを聞きながら、前方から後方へと流れていく対向車を見る。

 流れが途切れた。今だ、と夏川は足に力を入れた。走り出したところで、ハンドルを右に傾けた。そうして、大通りから路地に入ることに成功。


「まあさ」秋元は切り出す。「人生は長いけどな、加速度的に時は過ぎ去るから、体感的にはあっという間だ。できるだけ恋はしとけよ」


 夏川はハンドルを左に戻しながら「でも、恋をするって難易度高くないですか?」と意見する。あくまで反論ではない。


「バカ言え。好きになんのは簡単だよ。難しいのは好きでい続けることだ」


「なら先輩は冬実ふゆみさんのこと、好きでい続けてるってことですね」


「なんだよ、突然」秋元は少し身を引く。警戒心から眉にシワが寄っている。


 冬美というのは秋元の彼女である。黒髪清楚で、すらっと伸びた手足がすれ違いざまに振り返らせる人で、眉目秀麗という言葉がよく似合う女性だった。夏川は何度か会ったことがあるが、そのたびに髪はボサボサであまり服にこだわりのない秋元とは釣り合わないと思っていた。

 なのに、いつも仲が良さげだった。会話を聞いていても、なんというか、馬が合う。相性が良いのがよく伝わる。だから、不釣り合いではあるが、お似合いだった。これは、秋元にとって弱点ではない。むしろ誇るべき、自慢できる凄いことだと、夏川は思っていた。


「違うんですか?」だが少なからず、秋元の歯切れを悪くさせることはできるので、夏川はここぞという時に使う切り札的に要素として取っておいてある。


「何がだ?」


「白々しい。いいからどうなんですか?」


「愚問だな。答えるのが億劫なぐらい愚問だ」


 はぐらかして外を見る秋元。正確な正解は分からないものの、どうせ。


「なら、いいんですか」夏川は追求の手をやめない。いや、ここからが本番だ。「俺なんかと一緒にて」

「ん?」秋元はまた夏川を見る。眉にシワはない。ただ吊り上がっていた。「どういう意味だ?」


「だから、冬実さんのことですよ」


 秋元の眉が又しても素早く反応したのを、夏川は見逃さない。


「繰り返すぞ。どういう意味だ?」


 鈍いのかわざとなのか分からなかったが、とりあえず事細かく説明しながら、話を進めることにした。


「最近、俺とばっか一緒にいるじゃないですか」


「おいおい」呆れた声色の秋元。「自信過剰な奴は嫌われるぞ」


 構わず続ける夏川。「だから、冬実さんと会ってるのかなって」

 反応はない、数秒だけ。「あのね」突然にくるりと体を半回転し、運転中の夏川をじっと真っ直ぐ見る秋元。背もたれについた肘に右耳を押し付けていた。


「心配しなくてもちゃーんと会ってます」


 心配はしてないんですけどね、と言うのはどこか野暮に感じ、夏川は何も言わず、話に耳を傾けた。


「向こうがバイトで色々と忙しいから、冬実と会えない時間に、代わりにお前と会ってるんだ。それに、会ってる時はそれはそれはまた濃密な時間を過ごしてるぞ。料理作ったり、映画見たり、美術館行ったり、似顔絵描いてもらったり」


 秋元は思い出したように、「あっそうそう」と手を叩いて、話を続ける。


「冬実ってさ、絵描くの得意なんだよね。いや、得意っていうか特技って言った方がいいな。まるでそこにある風景を丸ごと切り取ったような感じでさ、めちゃくちゃ上手いんだよ、これが」


「てことは」


 居酒屋のおすすめメニューを進めるかのような発言をされたところで、夏川は無理矢理言葉を発して、遮った。絶えまなく続きかねない惚気話にメンタルが耐えきれそうにないと感じたからだ。


「要するに俺、時間潰し要員ということですか」


 いやいや、と秋元は指先が上に伸びた手を横に振った。


「そこまでは流石に言ってねえよ。間違ってもねぇけど」


 夏川は口をとんがらせる。「……心外です」


「おいおい。泣くなって、ただの冗談だよ」


 にんまりと笑う秋元。不敵、という言葉がよく似合う笑みだ。


「そんなんじゃ泣きませんよ、小学生じゃあるまいし。それに、先輩の冗談にはもう慣れっこです」


「おぉー、流石だね」感心の意が込められてない感心のセリフを口にする先輩。


「一緒の時間が長いだけある……あっそういや、お前と出会ってもう何年だ?」


「あの……」夏川は声をかける。視線は前に向けたままだが、首を軽く横にして。


「2年だっけか」


「先輩」口を少し秋元に向け、ボリュームを上げる。


「ん?」


 なんだ、と言いたげに眉が釣り上がっている秋元。


「話、ループしてます」


「へ?」


「さっきもその話、しました」


 口を閉じてる夏川と口を開けっ放しの秋元しかいない車内では、沈黙が広がる。


「わ、わざとだよ……」


 さっきほどまでとは異なり、妙に力がない。どこか苦し紛れな感じがした。


「あっここだここ」


 話題を逸らすかのように、秋元が斜め右前に指を向ける。夏川は指先を見た。6階までしかない、なんの変哲も無いねずみ色のビルを見た夏川の感想は、こんなところでうちの大学の演劇部は定期公演をしてるのか、だった。


「その辺でいい」


 夏川は歩道に寄せ、車を停めた。一時的なので、ハザードランプも付けて。

「ありがとな」秋元は足元に置いてある上着とバッグを手に取った。


「いえ、ついででしたし」


「んじゃ、また」秋元はドアを開けた。


「先輩」


 すんでのところで呼び止める夏川。呼ばれた秋元は体を反対の向きにした。


「本番っていつからです?」


「ええっと……」虚空を見る秋元。「15日、来月の」


「了解です。予定空けときますね」


「おう」


 秋元は「じゃ」と片手を上げて扉を閉めた。ビルの方へと歩いていく秋元。日差しが眩しいのか、手を額に付け、目元を隠す仕草をしていた。


 夏川はハザードランプを消そうと、腕を伸ばした。が、半ばで止まった。偶然見えた秋元の後ろ姿がどこか丸く、そして暗く見えたからだ。何故だろうか。夏川は少し疑問に思った。ビル影がそう見せてるだけなのだろうか。それとも疲れているのか。はたまた別件か。夏川には分からなかった。


 突如、クラクションが鳴り、肩がびくりと反応した。秋元のくしゃみの時と全く同じ動きである。なんだ、とバックミラーを使って音のした後方を見た。

 そこには、赤い軽自動車が。車の尻ににじり寄ってる。またクラクションが鳴る。無駄吠えばかりする野良犬のように、何度も何度も細かく短く鳴らしてくる。


 なんだよ、対向車は来ないんだから、抜こうと思えば抜けるじゃないか。そもそも、ハザードランプ出してるのが見えないのか。

 少し苛立ちを見せる夏川。だからといってこんなことで喧嘩するわけにもいかず、素直にこの場を去ることにした。


 クラクションのせいで夏川は何を思っていたのか忘れてしまっていた。だが、気にくわない後方車両のために退こうと、ハザードランプを消そうとした瞬間、思い出した。


 だが、怒りの方が大きかったのか、どうせ気のせいだと手軽に答えを出し、ランプのボタンを押す。意識はなかったが、手に感情が伝わったのだろう、少し強めに押していた。危うく突き指しかける夏川であった。

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