Love is blind.
らきむぼん
Love is blind.
大学生の男女が、食堂で向い合って座っていた。
この大学の昼休みは二限と三限の授業の間の一時間だった。しかし、この二人は四限からの授業しか履修しておらず、昼休みに混み合う食堂に入るのも憚られるので、昼休みでなく四限が始まる前の空いてきた食堂で昼食を摂ることにしたのだ。
時間を大幅に外したせいか、辺りには学生はいない。いるのは麺屋のおばちゃんくらいである。
三三〇円のかき揚げうどんを一口すすり、不意に男の学生が真剣な顔を上げ、口を開く。
「恋愛ってさ、お互い完全に好きじゃなきゃ駄目なのか?」
すると、女の学生は、めんどくさそうに顔を上げ不思議そうな表情で言う。
「そりゃあ、片方が嫌いだったら恋愛状態にならないんじゃない?」
「まて、君は馬鹿か。いいか、なんで好きじゃないと言ったら嫌いになる? 僕が言いたいのは、片方がその全てを好きでない場合を正しい恋愛と定義して問題がないか否か……だ」
男は若干食い気味に言葉を被せた。女は相変わらず不思議そうな目を向ける。
「どういうこと?」
「互いが完全に好き合うのが理想なのか?ってことだよ」
女は唐辛子のかかったかけ蕎麦を一口分食べ終えると、呆れた様子で言い返した。
「当たり前でしょ。嫌いなとこが一つもないほうが完璧な恋愛になるでしょ。何言ってんの?」
男は自分の言いたいことがいまいち伝わっていない状況に少し苛立ちながら、ゆっくりと説明する。
「いや、だから、完全とは一方方向に完全な傾きを生じさせることだろ。つまり多方向に精神的余裕がなくなる。それは人間活動の根本を外れてて、それはつまり恋愛なのか? ようするに、人間活動は恋愛を内包してるのか?」
「あんたさ、どうでもいいからその小難しい言い方やめろ。わけわからん」
女はそう吐き捨てて、コップの水を口に含む。彼女はいつも蕎麦に液面が見えなくなるほどの大量の唐辛子をかける。なので水を頻繁に飲むのだ。
男はどう説明をしようか悩んだ挙句、唐突に言う。
「Love is blind.」
女は思い切り水を吹き出した。
「ちょ、英語! 不意打ち、超面白い……!」
女は体を震わせて笑いを堪えている。男は何を笑っているのかよく解らず、冷静に解説を加えた。
「だから、ようは完全な恋愛って、完全な盲目だろ。それって人間として目指す方向間違ってないか? 人間は究極的に真理を得るために生き、それを達成できずに死ぬ生き物だ。なのに恋愛なんかにうつつを抜かせて真理に近づこうともしない人間が人類の九割だ。だからこの世界は既成概念と低能がのさばってる」
「……既成概念がなきゃ……常識知らず……ってことにならな……いの?」
女は笑いが収まらないのか、途切れ途切れになりながら笑い混じりに返した。どうやら先程の男の発言で話に興味を持ったらしかった。
「僕の言うのは厳密には違う、常識を知った上でそれを疑うって意味だ。いいか? 例えば、この世には物質しかないと思うか?」
「物質の他にも心があるんじゃない?」
「じゃあ聞くが、人間の精子と卵子は分解したらアミノ酸だろ。あれに心はあんのか?」
「いやないと思う」
「だろうな。で、それが複製・成長して人間になる。じゃあ人間はやっぱり心がないのか?」
女は少しわざとらしく首を傾げた。
「うーん、いや、あるでしょ」
「でも人間もアミノ酸だろ。原子で出来てる。お前が今座ってる椅子も原子だ。椅子には心はないのか?」
「馬鹿にしてんの? あるわけないじゃん」
女は混乱した様子だったが、そう言い切った。
「じゃあ、こりゃあどっちかが嘘になるよな。人間に心がないか、物にも心があるか。これで、まず既成概念がひとつわかったろ。人間の言う実在の定義ってのは、物質的広がりがあるものってわけだ。ところが、心的広がりを持つものは実在しちゃいけないか? だったら何で心は『ある』と思われてんだよ?」
「いやいや、あたしにそれを言うなよ」
そう突っ込むと、女は調味料入れから七味唐辛子の瓶を取り出して蕎麦の上へ更に大量にそれをふりかけた。男はそれを見て理解が出来ないといった様子で顔を歪ませる。
「……じゃあ、これはどうだ? この世界は五秒前に出来た」
男は気を取り直して、言わんばかりに、一度咳をして言った。
「はぁ? それはない。昨日、授業受けたでしょ、流石のあたしでもそれは覚えてる」
男は予想通りの答が返ってきたので小さく溜息を吐いた。
「いいか? これはある既成概念のせいでそう思うわけだ。記憶は絶対っていう既成概念。記憶は変わったり忘れたりするが、その記憶はもとを正せば経験によって会得されるとお前らは思ってる。あるいはこうだ。記憶は脳に蓄積される、脳のどの部分を刺激すれば記憶を喪失するかも科学的に解ってる。だから科学的に記憶は絶対存在する」
「正論じゃん」
女は考える素振りも見せず、男の解説を促す視線を送った。
「正論だ、科学の既成概念内ならな。言ったろ、常識を疑えと。脳は物質、つまり物質の確実性に依存してるんだ。物質は究極のところ原子だ。これはニュートリノとかの素粒子の説明は面倒だから最小単位を原子に例えてるだけだけどな。つまり原子に基づいて記憶があればそれは確かなこと、てなわけだ。お前らは」
「何がおかしいん?」
「原子が存在しない可能性も否定できないだろう? 五秒前に世界が出来たとして、六秒以上前の記憶の説明はどうするんだ? って考えるのが駄目なんだ。六秒以上前の記憶なんて世界と同時に作ってしまえば済む話だろ。つまり経験が記憶なら経験しなければ記憶じゃないわけだ、常識的には。ただ、経験なんかしなくても経験したと同じ状況を作ってしまえばそれは記憶だ。本当はこの世界が存在して、まもなくても、な」
男は言い終えて、かき揚げを齧る。
「その言い方だと、神がいるみたいな言い方だね?」
女は口に蕎麦を入れたまま行儀悪く質問した。
またも、表情を歪めながら、男は断言する。
「神がいない証拠はない」
「でも世の中には戦争が溢れてるじゃん。神なら何とかしろよ」
女は神に無茶振りをしながら、自分のかけた唐辛子の辛さに耐えかねて、コップの水を飲み干した。
「まず、君の間違いは二つ。一つは戦争は悪かという議論は不毛だ。そんなものは価値観の違いだ。戦争をして助かった命も、戦争で失った命もある。どちらかの立場でどちらかを悪としたらそちら側で死んだ人間は死ぬべくして死んだというのか? 二つ目、神は禍福を与えるとは限らない。神が誰かを救うかどうかは宗教や人ごとに違う。神は世界を作ってそのまま放置してるかもしれない。自分の行動を正当化する為に神の言葉なんて言ってるだけだ。そもそも善悪が不変じゃないのに神は何を基準に裁きを与えるんだ?」
「じゃあ、神はいるの?」
コップに二杯目の水がなみなみと注がれる。
「いる証拠もまた、等しく無い。そもそも君らの多くは神や幽霊を信じない。でもそれは誰かが証明したのか? いいか、人は観測するその瞬間まで、それがあるかないかなど判らない。なのに君達は神や幽霊を見たなどというと馬鹿にする。君達が盲信する幽霊いない説も、いる説と同じ確率の話でしか無い。結局、どっちもあるかないか、1:1の主張ができるのが論理的だ」
「じゃあ、誰かが観測して言ってるならいるんじゃないの?」
男は女が注ぎ過ぎた水の入ったコップを零さないように慎重に口元まで運ぶ様子を見て頭を抱えた。
「君は何も学んでいないな。君は主観的意見と客観的意見、どっちを信じるんだ?」
「客観でしょ。……あ、だからいるとは言い切れないのかぁ」
眠くなってきたのか、欠伸をしてボォーっと遠くを見た。
男は構うことなく続ける。
「まあ、それもあるが、厳密にはそれも違う。こないだニュートリノが光よりも早いなんていう数値が出ただろ。あれは誤数値かもしれないが、初めて相対性理論が崩れるかもしれない研究結果が出たわけだ。光が最も速いことを前提にして成り立つ話だからな。だから結局客観なんて真実かどうか判らないぜ? そもそも、観測したその人は本当に実在しているのか判らない。世界には君以外のだれもいないのかもしれんぞ?」
「いるでしょ、周りにいっぱい。馬鹿だなぁあんたは」
女はここぞとばかりに突っ込みを入れてくる。とにかく考えることはしないようだ。
「いると判断しているのは君の主観だ。君の主観でしか僕は君の目の前にいないし、君が感じるあらゆるものも君の主観でしかない」
「えぇー、客観的じゃん、みんなが同じものを観てるんだしぃ」
女は無駄に語尾を伸ばして不満を口にする。
男はそれでも至極冷静にそれに応える。
「客観的とは主観的な意見の総称だろう。みんなが観てる、そのみんなはそれぞれの主観でものを観てる。だから君が信用できるのは君自身だけだ。これを『Cogito, ergo sum (我思う故に我あり)』というだろう。聞いたことないか?」
「あー、ある」
男は絶対ないだろうな、と心の中でぼやいた。
「まあいいや。ともかく、君が見るから物がそこにあるって考え方は完全には否定できないってわけだ。存在するから見えるなんて因果関係は本当のところどうだか判らない。しかも君の肉体だってあるか判らんぞ。どっかの培養液で脳だけを保存して、適宜必要な刺激を与えて記憶と身体があるように『見せている』だけの存在かもしれん。これはどうやったって否定できない。肯定もできないけどな。とにかく、そういう固まった概念を解きほぐして生き、そして真理に近づきながら死ぬのが人だ」
男は半ば強引に話をまとめた。男が言いたいのはこんなことではないのだ。女は妙に不満そうな顔つきになった。
「そんなこと考えたって利益がないでしょ」
男は黙った。確かに現代では利益のないことは無意味であるという見方が根底にある。ただ、それはある意味別次元の話だ。
「利益ってなんだ? 金か? そりゃあ、そうだ。だが宇宙開発なんて産業があるのだって、その究極的な部分では金にならないぜ。人間は起源を知りたがる。宇宙に興味をもつのはそこに繋がってる。人間のあらゆる行動は因果関係をたどると巨大な一つのエネルギーに行き当たる。これはビッグバンだ。じゃあ、ビッグバンはどこから生じた? 無か? 無ってなんだ。何も無いって何だ? 真空だってそこには何かがある。さっきも言ったように物質なんて証拠にならんしな。そもそもビッグバン説も疑いがないわけじゃない。少し前に宇宙入れ子構造説の論文を見かけたしな。そうやって探求する力が人間にはあり、それは誰でも持ってる。だけど常識的にそんなものを求めるのは意味が無いという事になってる。これは利益がないからだ。つまり、金にならない=利益がない=意味が無いというのが一番の既成概念だ」
女は半ば納得したようで、うーん、と唸った。
「じゃあ、真理になんかたどり着けないじゃないの? なんでも証拠は出せないんじゃさ」
男はそれを聞いて、ようやく言いたいことの一つが伝わった気がして安心した。
「その条件下で思考を繰り返し、もっとも説得力のある答を出す。答とは一つに絞ることじゃない、あらゆる可能性を提示し尽くすことだ。こうかもしれない、しかしこういうパターンもある。これを完全にやり尽くせば、そのどれかは真理に近いところにあるはずだ。人生の価値は真理までの距離で決まる。そう僕は考えている」
「ふうん、で? それが恋愛の話と何が関係あるんだっっけ?」
やたらと遠回りをして、ようやく話は元の位置に戻り始めた。
「この探究活動は幸福感と密接に関係する。哲学者は不幸であるとよく言われる。これは真理の先にあるものが幸福なのかもしれないことを暗示している。恋愛や何も考えない馬鹿みたいな人間になることで得られる幸福と、哲学を突き詰めて得られる幸福は質は違くとも同じものだ。恋愛で盲目になれば、それは哲学への道を閉じることになる。逆に哲学を進めれば、恋愛はできない。これらは相容れない。恋愛哲学などと言ってるのは恋愛心理学の勘違いだ」
「つまり、恋は盲目ってのは、恋愛をしたら真理に近づくのをやめてしまうってわけ?」
女はどうやらようやく自分の誘導に乗ってきたようだった。つまるところ、男はその先の結論を女に伝えたかったのだ。
「そう。つまり、得られるものが同じ幸福なら、恋愛をして幸福を得たほうが楽で、楽しくて、善いように思える。でも、真理には一生近づけない。だからそれは果たして完璧な恋愛なのか?ってことだ。人間は根本に探究心を持ってるのに、恋愛でそれが見えなくなる。人間活動の中に恋愛を含めたらそれは不完全な恋愛だろう恋愛は人間的な活動であるはずなのに、人間活動の外にあるってことになるし。逆に、人間活動を脱却したものが恋愛ならば、それは完全な恋愛だ。僕は恋は盲目という理論を推しているから、これは、後者だと思うんだ。恋愛と哲学は別物……と」
男はここで初めて自分の意志を提示した。
「それがどうやって、お互いが好きじゃなきゃ駄目なのかって話に……?」
女は再び困惑の表情を見せている。しかしながら、男は意図的に極論ばかり話していたのだから、ここで困惑するのは理解できなくもない。
男は結論を出す。
「人を好きになることにおいて、その人を完全に好きになるから盲目になる、つまり哲学を捨てる。じゃあ、部分的に好きになればいいんじゃないか? 恋愛において、好きだけど盲目になるほど好きじゃない。これなら、幸福度と真理への距離値は下がるが、恋愛も哲学も同時に進行できる」
ここで男は女の目を見る。反応を伺っているのだ。
「なるほどね。でも、みんなそうやってバランス取って生きてるんじゃない? その、言い難いけど、そこまで考えて勝手に詰んでるのが自分だということに気がつかない? だって当たり前でしょ、理想は理想、現実は現実、解りきったことじゃん」
女はここで返答に窮するような全くの正論を口にする。男は予想外の展開に動揺した。
……確かに、としか言いようがない。
「……いや、でもだから、単に探究心がないだけだ。何も考えないで既成概念を鵜呑みにしていれば、幸福を得る手段は恋愛しかないように見える。だから人はそれに溺れるんだ」
男は吃りながらそう言った。自分の言ってることがよく解らない。
「……考え過ぎ乙。結局、何が言いたいわけ? そこまで言うなら哲学やってりゃあいいでしょうが、ばかだなぁ」
女はニヤニヤしながらコップを口にもっていく。
「だって……恋愛とかしてみたいじゃん」
男は消え入りそうな声でぼそりと呟いた。
それを聞いて女は再び水を吹き出した。
「結論までなげえ!! 何だよ、結局好きな子がいるのに自分の精進の道へのプライドが邪魔してるだけ? はははは、くだらない、超笑える!」
女は腹を抱えて笑った。どれだけ哲学を語っても結局、単に恋愛がしたいというだけとは、素直じゃない目の前の男が滑稽でしようがなかった。
男は慌てて弁明を試みる。
「わ、笑うなよ、だから、その、僕が言いたいのは……」
笑いを堪えながら女は顔を上げる。彼女は一度笑うと撃沈するタイプである。
「その……、要するに、好きじゃないと言ったら嫌いだと早計に考えたり、太ってもいないのにカロリー気にしてかけ蕎麦食べたり、液面が見えなくなるくらい唐辛子をかけて、しかもその辛さに耐えられなくて水をガバガバ飲んだり、零しそうになるの解っててコップ一杯に水を注いだり、平気で水を吹き出したり、一度笑うと止まらなかったり、人前で眠いのを隠そうともしなかったり、男まさりな話し方をしたり、ちょっと馬鹿だったり……そういうところが嫌いだし盲目になんかならないけど、それでもお前が好きってことだよ!」
男は立ち上がって叫んだ。
女は口を開けてポカンとしている。
「…………え、なにこれ? 告白?」
女はびっくりした様子で言った。男は気まずそうに「そうだよ」と吐き捨てた。
「……え、そのために今まで長々と真理がどうのとかって話してたの?」
そう言いながら、女は耐えられなくなってまた吹き出した。
「はははっはははははははっはは、ばかだあんた、超面白い!」
女はついにテーブルをバンバン叩き始めた。そして不意に立ち上がると笑い過ぎでよろめきながら席を立った。
「お、おいどこ行くんだよ! 返事は……!?」
男は慌てて女を追いかける。
「ちょ、話しかけないで、思い出し笑いで腹筋が肉離れするから」
女はそう言うと、肩を震わせながらふらふらと歩く。
「だから、どこ行くんだって!」
「四限始まるよ、次の授業、あんたの信奉する哲学でしょ」
女は男の腕を乱暴に掴んで、食堂を出た。
男は少しばかり時間をかけて、その言葉が答だと気づいた。
了
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