第6話 小さな骨の囁き
「優羽ちゃん……なんだい、こんな時に体力づくりかい」
優羽の手にしている物を見て、梶山は目を丸くした。
「違うの、これをリストバンドに通して、これで画鋲を叩くの」
優羽はバットとダンベルを交互に動かして梶山に説明して見せた。
「そうか、そういうやり方があったか。わかった」
梶山は大きく頷くと、リストバンドを外して野球のバットを通した。バットが固定されると、リストバンドごと床の上に置き、片足で抑えた。
「優羽ちゃん、ちょっとここを抑えてて」
優羽は言われるままにリストバンドの付け根を抑えた。梶山はねじ止め穴に画鋲を通し、画鋲の頭をダンベルで勢いよく叩いた。
こん、こん、こん。
軽快な音とともに、画鋲が少しづつスティックに突き刺さっていった。梶山は画鋲の頭がうごかなくなったのを確かめると、バットをリストバンドから外した。
「よし、これでなんとかいけそうだ」
「本当?良かった」
梶山は満足そうにうなずくと、リストバンドを左腕に装着した。梶山が腕を振り回してみせても、スティックは微動だにしなかった。
「ようし、演奏再開だ」
梶山がそう告げると、継田がびっくりしたように振り返った。
「直ったのか。スティック。いつの間に……」
狐につままれたような表情の継田を尻目に、梶山はドラムセットの前に移動を始めた。
優羽はベースを手にすると、ストラップを肩にかけた。最後の曲はビートルズの『ア・ハード・デイズ・ナイト』だ。決して難しい曲ではないが、優羽はベースの演奏だけでなく、ボーカルも担当していた。ベースを演奏しながら人前で歌うのは、実はこれが初めてだった。優羽は目を閉じ、深く息を吸った。
よし。いける。
梶山のスティックがカウントを取り始めた。危なげのない響きに、優羽は固定がうまくいったことを確信した。
ギターとベースがコードを鳴らし、演奏が始まった。梶山のドラムも、スティックを画鋲で固定したとは思えないほどの迫力だった。
気が付くと、優羽は歌詞をワンコーラス完璧に歌いきっていた。間奏のギターが始まると、優羽の視線は観客席の一角に吸い寄せられた。
演奏だけで精一杯なのにも関らず、優羽は目が合った観客をそのまま凝視し続けた。演奏が終盤に入っても、優羽はまるで自動人形のように歌い奏でながら、その人物を見つめ続けていた。
優羽をじっと見ていた観客は、若い女性だった。女性は妊娠しているようだった。女性がほほ笑むと腹部が柔らかな輝きを帯び、同時に優羽の耳の奥であの小さな骨が震えた。
浮遊感に似た奇妙な感覚の中、継田の鋭いギターの響きとともに、無事演奏が終了した。
継田が拍手にこたえるようにメンバー紹介をし、優羽にも大きな拍手が注がれた。深々と頭を下げた瞬間、耳の奥で聞き覚えのある声が響いた。
よくやった、優羽。
えっ?……翔琉?
そうだ、僕だ。やっと話しかけられた。
どうして?どこにいるの?翔琉。
優羽もまた、頭の中で翔琉に呼びかけた。直感的にある種のテレパシーのような現象だと感じたからだった。
ここだ、ここ。彼女のお腹の中だ。
ひときわ強い輝きが、顔を上げた優羽の目を射た。妊娠している女性の腹部がまばゆい輝きに覆われているのを確かめた瞬間、優羽は翔琉の言葉の意味を理解した。
赤ちゃん……?
そうだ。僕は今、彼女の生まれてくる子供の中にいる。いつからいたのかは自分でもわからないが、気が付いたらこの子と一体になっていた。つまり……
生まれ変わろうとしている、そうなのね?
おそらく、そうだ。残念だけど僕は間もなくこの子と一つになり、生きていた時の記憶は消えてしまうだろう。そういう予感があるんだ。
でも、どうして今なの?もっと早く話したかった。
できなかったんだ。おそらく、この子の成長とも関係があると思う。この子のジショウコツがある程度形成されて初めて、優羽との交信が可能になるんだ。
耳小骨……。
耳の中にある、小さな骨の事だよ。なぜかはわからないけど、僕と優羽とはこの耳小骨を通して共鳴しあっているんだ。
優羽の目の前に、三つの不思議な形をした骨が組み合わさっている映像が現れた。
耳小骨は三つの骨からできているけど、今まで連絡できなかったのは、おそらく三つのうちの二つがそろっていなかったからだと思うんだ。
どういうこと?
耳小骨のうち、
なんとなく、聞いたことはあるけど。
この槌骨と砧骨という二つの骨は、もともとは爬虫類の上顎と下顎の骨だったものが変化してできたものらしい。僕もこの子の中で最初はたぶん、魚みたいな存在だった。次に両生類になり、やがて水かきが消えて爬虫類になった。優羽に声をかける少し前に、僕のたどってきた記憶の一部を見せたはずだ。
あっ。
優羽の中に一つの光景がよみがえった。演奏前のトラブルで慌てふためいていた時、目の前に現れたのは魚だった。次に、ギターの弦がなくなった時はワニが現れた。そういえばあのワニがヒントをくれた時、これ見よがしに口を開け、上下の歯を見せていたっけ。… …でも、アリクイは?哺乳類代表ってこと?
そうだろうね、たぶん。なんでアリクイなのかは僕にも分らないんだけど。
翔琉は楽し気な口調で言った。もうすぐ消えてしまう存在とは思えない朗らかさに、優羽は逆に胸を締め付けられるような切なさを覚えた。
この子の耳の中の骨が響くと、優羽の骨も響く。そうやって僕らは短い間だけど、会話を交わせるんだ。きっと誰も信じないだろうけどね。でも僕は消える前に優羽と話せて、優羽の演奏を聴けて幸せだよ。
お願い、そんな悲しいこと言わないで、翔琉。
優羽、悲しむ必要はないんだ、心残りはあっても、僕には新しい人生が待っているんだ。
でも、私の事は?その子が生まれてしまったら、きっと翔琉は私の事を二度と思い出せなくなるわ。
それは……仕方がないことなんだ。でも、こうして優羽と最後の交信ができたように、きっとまたいつか何らかの形で再会できるかもしれない。もし耳の中の骨が震えたら、僕からの合図だと思ってほしい。
優羽は話しているうちに、ある異変に気付いた。女性がそっと席を立ち、体育館の出入口へと移動し始めたのだ。
優羽。もしかしたら今夜あたり、赤ん坊が生まれるのかもしれない。いい演奏を聞かせてくれてありがとう。技術はまだまだだけど、きっと優羽はいいベーシストになると思う。
待って、いかないで、翔琉。
女性は体育館から出て行き、同時に翔琉の声も聞こえなくなった。
必ず、また呼びかけてね。待ってるから。
ステージの幕がゆっくりと閉まり、最後の拍手が鳴り響いた。優羽は耳の奥で、まるで小さな鐘を槌で叩いて鳴らしたような、澄んだ響きが鳴りわたるのを聞いた。それは何かの終わりを告げる音のようでもあり、同時に何かの始まりを告げる音のようでもあった。
『了』
BONY TALES 五速 梁 @run_doc
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