第5話 アリクイは告げる
「梶さん、腕をちょっと見せてくれ」
継田は少しの間、梶山の腕に固定されたリストバンドを見つめていた。そしてスティック固定用金具の状態を見てため息をついた。
「みなさん、たびたび申し訳ありません。また少しインターバルを下さい」
ぶるぶると震え、冷静さを失っている梶山の代わりに場を取り繕ったのは継田だった。口調こそ明朗だが、継田の表情も明らかに強張っていた。静まり返った客席を前に、猶予を申し出るのは相当な勇気がいるに違いない。
客席からまばらな拍手が起き「ゆっくりやれ」と言う声が飛んだ。梶山が申し訳なさそうに頭を下げ、ドラムセットから離れた。
飛んでいったスティックはステージの後方に転がっていた。スティックを拾い上げ、途方に暮れたような表情で見つめている梶山に優羽はベースをぶら下げたまま歩み寄った。
左手の指を欠いている継田は、ギブスを改造して作ったリストバンドに、スティックを差し込む樹脂のリングを点けている。スティックはネジで固定されているのだが、どうやらネジが折れてスティックがリングからすっぽ抜けたらしかった。
「うまく固定できそうですか?」
優羽が恐る恐る尋ねると、梶山は黙って無念そうに頭を振った。
重苦しい空気が広がる中、優羽の脳裏にはなぜかある予感が生まれていた。
また、何かがきっと来てくれる。私達を助けに。
優羽は緊迫した状況の中で幻に期待する自分を滑稽に感じつつ、今度はいったい何の動物が現れるのだろうと無邪気な期待を抱いてもいた。
梶山はリングにスティックを通し、そのまま右手で左の手首ごと握りしめた。恐らくネジの代わりになるものを探しているのだろう。床の上を注意深く見ながら、ドラムセットの方に戻ってゆく梶山を優羽は痛々しい気持ちで見つめた。
ドラムセットに陣取った梶山が大きくため息をついた、その時だった。優羽の前に、大きな生物の姿が現れた。
来た!
優羽は現れた生物の姿を確かめて目を見開いた。それは、大きなアリクイだった。
なんで、ワニの次がアリクイなの?
唖然としている優羽を尻目に、アリクイは悠然と体を動かし、長い首をまるで「見ろ」とでも言うかのように斜め後方に捻じ曲げた。
思わずアリクイの示した方向に視線をやった優羽は、そこで見たものに小首を傾げた。
優羽の視界に入ったのは、体育館の出入り口近くで壁に掲示物を貼っている職員だった。
あの人、さっきの煙草ケースの人だ。
脚立の上に乗って掲示物を画鋲で留めている職員は、先ほど継田が煙草ケースを交換した職員だった。
――そうか、画鋲か。
優羽はアリクイを見た。心なしかアリクイの小さな眼が笑っているように見えた。
よし、ちょっとお暇させてもらおう。
優羽は二人に頭を下げると、ベースのストラップを肩から外した。どうするんだという目で見ている継田に口の形で「大丈夫」と告げると、優羽は観客席にも頭を下げた。
優羽は客席から目立たないようにステージを降りると、職員のいる場所に向かって体育館の壁伝いに小走りに移動した。
ちょうど掲示物を留め終えた職員は、いきなり近づいてきた人影に気づき、手を止めた。脚立に乗ったままの職員は、優羽が先ほど職員室に現れた人物だと気付くと、相好を崩した。
「やあ、さっきはどうも」
優羽は「どうも」と短く返し、小声で「あの、画鋲一ついただけませんか?」と続けた。
「画鋲?ああ、構いませんよ」
職員はにこやかに言うと脚立から降りてきた。職員が足元に置いてあるケースから画鋲を取り出す間、優羽はステージから自分がどう見えているだろうと考えていた。
「はい、一応、二つあげておくよ」
優羽は職員から画鋲を受け取ると、礼を述べて踵を返した。ステージに戻ると前に出て観客に小話を披露している継田の背中が目に入った。梶山は、深刻な表情でリストバンドに目を落としていた。
「梶山さん」
声をかけると、梶山が憔悴しきった顔で優羽の方を見た。
「これ。画鋲でも固定できるんじゃないかと思って」
優羽が画鋲を手渡すと、梶山の表情が輝いた。
「やってみよう。できるかもしれない」
梶山はリストバンドの外側についているリングにスティックを通し、ねじ止め用の穴に画鋲を通そうとした。……が、一ミリたりとも画鋲は入っていかなかった。
「だめだ。……刺さらない」
渾身の力を込め、梶山が押し込んでも画鋲は全く動かなかった。どうやらスティックが予想以上に固いようだ。アリクイのアドバイスは無意味だったのだろうか。
「どうしたらいいかな……」
「金槌でもあればな」
そう言って梶山は周囲を見回した。……が、金槌など近くにあろうはずもなかった。
「お客さんに、聞いてみます?」
困り果てて優羽がそう持ち掛けた時だった。再び優羽の目の前に、アリクイが出現していた。アリクイは先程と同じように、首を曲げてステージの奥を示していた。
「なに?どこへ行けばいいの?」
優羽がそう問いかけると、アリクイは問いに答えるかのようにくるりと向きを変えた。
「そっちね。わかったわ」
優羽は怪訝そうな表情の梶山を尻目に、アリクイの後に続いた。アリクイはステージの奥にあるドアの一つに向かっていた。器具室へと続いているドアだった。
閉まっているドアをどうやって開けるのだろうと思っていると、アリクイの姿は吸い込まれるようにドアの向こうに消えていった。
「器具室か」
優羽はアリクイの後を追うようにドアを開け、器具室へと入っていった。埃臭い器具室の中を進んでゆくと、ボールが積まれている籠の傍らにアリクイがうずくまっているのが見えた。
アリクイは鼻先で、背後の棚の上にある黒っぽい物体をしきりに示そうとしていた。次の瞬間、優羽はアリクイの言わんとするところを理解した。
「そうか、そいつを金槌の代わりにするっていうわけね」
アリクイが示していたのは、小ぶりのダンベルだった。優羽は棚に歩み寄った。
アリクイの体がすっと透き通り、優羽はその体を通り抜けるようにしてダンベルを手にした。
「金槌はこれでいい、と……なに?まだなにかあるの?」
優羽がダンベルをしげしげと眺めているわずかな間に、アリクイは反対側の壁の前に移動していた。アリクイは優羽の視線に気づくと野球のバットを鼻でつついて見せた。
「そっかあ。腕を入れて叩いたんじゃ、危ないものね」
優羽は片手にダンベル、もう片方の手に野球のバットを携えてステージに戻った。
〈第六話に続く〉
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