第4話 ウエイト・ア・ミニッツ


 優羽と継田は、二階の職員室へと移動した。学校自体は休みなので、出勤している職員はごくわずかなはずだった。


 引き戸を開けると、数名の職員が黙々とデスクワークにいそしんでいた。優羽は思い切って、声を張り上げることにした。


「すみませんっ。この中に、煙草ケースが入れ替わっている方はいませんか?」


 優羽の言葉に、ほぼ全員が反応した。一様に首だけを曲げて、こちらを見ている。その中で、三十代くらいの丸顔の男性職員が、一呼吸遅れておずおずと手を上げた。


「あのう……どうも僕が、そうみたいです」


 男性職員はそういうと、ゆっくりと煙草ケースを顔の前にかざして見せた。継田も、自分の持っているケースを相手から見えるように取り出して見せた。


「あっ、それ、僕のです」


 男性職員が言うと継田が大きく息をつき「そちらのケースの中に、ギターの弦が入ってませんか?」と聞いた。男性職員は自分が手にしているケースの中をあらため始めた。やがて、「あっ」と小さく叫ぶと手を動かすのを止めた。


「あ、ありました。これですよね?」


 男性がケースから取り出して見せたのは、まぎれもなくギターの弦だった。


「継田さん、あったよ」


 優羽が言うと、継田は満足げに頷いた。よかった。観客の皆さんには迷惑をかけたが、これで演奏を再開できる。


 継田と職員はその場で煙草ケースを交換し、継田は職員室でギターの弦を張り替え始めた。継田の手元を見るともなしに見ていた優羽は、ふと視界の隅に動くものを捉えた気がして、顔を捻じ曲げた。


 視線の先に、入り口から鼻先を出しているワニの姿がちらりと見えた。ワニは優羽の視線に気づくと、のっそりと体の向きをかえ、どこへともなく去っていった。やはりCHANGEの意味はこれで正解だったのだ。


 ありがとう、ワニさん。


 優羽は自分をなぜか助けてくれる不思議な存在を、いつの間にか受け入れていた。


 それにしても、どうして魚とかワニなのだろう。不思議と言えば不思議だった。そんなことを考えていると、継田が「よし、あと少しで終わるぞ」と力強く言った。


 梶山は今頃、冷や汗をかきながら話芸で場を繋いでいるに違いない。早く戻らねば。


「よし、終わった。行こう」


 立ち上り、職員に礼を言って歩き出した継田の後を、優羽は安堵感を噛みしめながら歩き出した。体育館に近づくと、観客の笑い声が聞こえてきた。


 良かった。どうやら梶山の話芸はギリギリ持ちこたえたようだ。先ほどまで頭の中を占めていたコーラスパートの確認は、きれいさっぱりとふっとんでしまっていた。でもまあ、なんとかなるだろう。


 梶山さん、ごめんね。今、戻るからね。


 ステージ上に小さく見える梶山の姿に向かって、優羽はそっとつぶやいた。


『プリーズ・ミスター・ポストマン』は、予定時刻を大幅に遅れて演奏を開始した。


 継田の騒ぎで緊張感がどこかにいってしまった優羽は、イントロが始まるとごく自然に曲の世界に入り込んでいた。『プリーズ・ミスター・ポストマン』は、メインヴォーカルが歌っていない時でもずっとコーラスは歌いっぱなしになる。演奏より優羽にとってはコーラスパートを失敗なく歌いきることが第一だった。


 よし、ツーコーラス歌いきったぞ。あとはお楽しみのラストに向かって一直線だ。


 この歌の最大の楽しみは終わり近くの「ウエイト・ア・ミニッツ」というコーラスの繰り返しだった。そこまでたどり着ければもう、演奏は成功したようなものだった。


 ウエイト・ア・ミニッツ……え?


 歌い始めて間もなく、優羽はマイクスタンドの向こう側に現れた生物に気が付いた。


 優羽と向き合う形で唐突に出現したのは、ワニだった。先ほど見たワニと同一のワニかどうかは定かではなかったが、とにかく目の前にワニがいるのだった。


 私の前にワニがいるという事は……もしかして。


 優羽はコーラスを歌いながら、そっと他の二人に目をやった。すると予想通り、二人の前にも一匹づつ、ワニが出現していたのだった。


 さっきの魚とおなじだ。なぜだか知らないけど、きっとこいつらは演奏の度に私たちの前に現れるのに違いない。


 演奏が終わりに近づくと、ワニは少しづつ消え始めた。一曲目は魚、二曲目はワニ。三曲目はいったい、なんなのだろう。


 コーラスが最後の音に差し掛かった。曲の終わりはオリジナルのアレンジで、コーラスを長く伸ばし、ドラムと共に終了する。ギターもベースも、ひたすら同じリフを繰り返すだけだ。


 途中で声が出なくなったら、嫌だな。


 優羽は心地よいハーモニーに身を委ねながら思った。残りあと四小節、そう意識した時だった。突如、ドラムの音が消え失せた。あっと思った次の瞬間、からん、と乾いた音が鳴り響き、それにつられるかのようにコーラスも途切れた。


 優羽と継田の視線が梶山に注がれ、梶山の目線は床の上に転がったスティックに注がれていた。どうやら演奏終了間際、梶山の左腕に固定されていたスティックが、何らかのトラブルで外れて落下したらしかった。


 梶山の顔面がみるみる青ざめてゆくのがわかった。スティック一本では、最後の曲をまともに演奏することができない。万事休すだった。


「す、すみません。今度は僕のトラブルです……」


 梶山が震える声で観客に詫びた。すると、会場のあちこちから、ちらほらとまばらな拍手が起きた。拍手には「どんまい」「頑張れ」と言った激励の掛け声も混じっていた。


「どうする?いったん、幕を引くか」


「何かスティックを元に戻す方法はないのかしら」


 優羽と継田が小声でささやきあっている間、梶山はスティックの転がった方角を真剣なまなざしで見つめていた。


             〈第五回に続く〉

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