第3話 CHANGE


 次は私の番だ。そう思いながら、アウトロを淡々と繰り返す。やがて、魚の動きがゆっくりになり、優羽が演奏を止めるのと同時に、ふっと視界から姿を消した。


「えー、次の曲はカーペンターズでおなじみの『プリーズ・ミスター・ポストマン』です」


 継田が曲名をよどみなく口にする。優羽は魚の事よりも次の曲の方が気になっていた。演奏はさほど難しくないが、コーラスが複雑なのが心配だった。


「では、お聴きください」


 梶山がそう言ってスティックをかざした時だった。「あ」という頓狂な声が継田の口から発せられた。優羽は反射的に向けた視線の先にある物を見て、声の理由を悟った。継田のギターのネックから、切れた弦が飛び出し不安げに揺れていたのだった。


「すみません、みなさん。トラブルが発生しました」


 継田が押し殺した声で言った。会場がざわつくのがわかった。


「ギターの弦が切れてしまいました。一応、煙草入れに予備の弦を入れてあるのですが、張り替える時間を頂いてもいいでしょうか?」


 会場から「えーっ」という声が上がり、継田の表情が苦しげにゆがんだ。が、次の瞬間「いってらっしゃい」という声が聞こえ、さらに「急がなくていいぞお」という声が後押しをした。


「仕方ない、何とか間を持たせるしかないな」


 梶山が諦めたように言うと、継田は頭を下げてステージ後方の出入り口へと向かった。


「えー、思いがけない形で小休止になってしまいました」


 梶山が場をつなぐように喋り始めた。幸い、梶山は素人離れした話術の持ち主だった。


「えー、今でこそドラムをたたいていますが、これでも小生、昔はバイオリンなどをやっていまして、留学までしておりました」


 梶山が流暢にしゃべり始めた。私は、何をしたらいいんだろう。時間が経つにしたがって頭に刷り込んだコーラスのパートが薄れてゆくようで、焦りが滲んでくる。


 梶山の話はヨーロッパでの失敗談に入ろうとしていた。なぜか継田が一向に戻ってこない。どうしたのだろう。弦が見つからなかったのだろうか。


 会場から笑い声が上がった。とうとう、梶山の小話が一つ、終わってしまったのだ。どうしよう、継田を呼びに行こうか……そう思いかけた時だった。


 目の前に、またも信じがたい光景が出現した。ステージ上に一匹のワニが現れ、優羽の前でおもむろに大口を開けて見せたのだった。優羽は思わず身を固くした。


が、次の瞬間、ワニのびっしりと並んだ鋭い歯の数本に、アルファベットらしきものが刻まれていることに気づき、はっとした。


『CHANGE』


 CHANGE?一体何がCHANGEだというのだろう。他に何か手がかりはないのだろうか。優羽がすべての歯を見ようと顔を近づけた途端、ワニは唐突に口を閉ざした。


 驚いて身を引いた優羽の前で、ワニはゆっくりと体の向きを変えると、ステージ後方の出入り口の方に移動し始めた。


 なに?ついて来いってこと?優羽が客席の反応を気にしつつ、ワニの方に首を曲げていると、出入り口の前まで進んだところでワニが動きを止め、鼻先を二、三度上下に動かした。CHANGEの意味はわからなかったが、継田に何かあったのだと優羽は直感した。


「梶さん、ごめんなさい、私、継田さんを急かしてきます」


 小声で梶山に言うと、梶山は苦い表情のまま、頷いた。


「えー、どうもギターの準備が手間取っているようで、つまらない話をもう一つだけ……」


 優羽は素早く立ち上がると観客に軽く一礼し、出入り口へと向かった。


 ステージの脇にある準備室には、継田の姿はなかった。あとは喫煙コーナーか。優羽は準備室から体育館にそっと出ると、足音を忍ばせるように観客の横を通り抜け、出口へと向かった。


 天井の低い廊下を正面玄関に向かって進んでゆくと、背後から観客のざわめきがかすかに聞こえてきた。梶山の話が受けているのならいいのだが、と優羽は思った。


 喫煙コーナーは正面玄関前の一角にあった。屋内用の靴のまま玄関を出て灰皿のある方向に目をやると、案の定、継田がギターを抱えて呆然としていた。


「どうしたの、継田さん。替えの弦がみつからなかったの?」


「ああ、そうなんだ。煙草を吸った時に落ちたとすれば、ここしかないと思ったんだけど……誰かに落し物と思われて持っていかれちゃったのかなあ」


「だったら職員室かどこかに届いてるんじゃないですか?」


「そう思って、当直らしい人にも聞いてみたんだけど、届いてないってさ」


「そうですか……人の煙草入れなんか盗んでもしょうがないですしね」


「そんな人はいないと思うけどな、今日来てる人の中には」


「だったらいったい、どこに……」


 そこまで考えた時だった。、ふいに先ほど目撃したワニの歯が脳裏によみがえった。


CHANGE。盗まれたのでないとしたら、誰かの物と入れ替わっているのか。


「継田さん、誰かと煙草の交換、しませんでした?」


 そう切り出すと、継田の表情が微妙に変化した。継田はほぼ目が見えない。誰かと煙草を交換する際に互いに入れ物を出したとすれば、入れ替わったという可能性もあるのではないか。


「煙草の交換……そう言えば、したよ。ここの職員さんと。……それがどうかしたのかい」


「誰かが継田さんの持っているのとそっくりなケースを持っていて、その人の物と入れ替わっているってことは考えられませんか?」


「そっくりなケースかい?……でもさ、俺、持ち物は見た目じゃなくて、手触りで判別してるんだよ。俺の煙草入れは『ぽかぽかハウス』っていう作業所で作っている革製で、手触りが独特だから他の人の物と間違えて持っていくってことは考えられないな」


「じゃあ、その人のケースも、ぽかぽかハウスってところで作ったものなんですよ、きっと。ああいうところで作るものって、材料とか作り方とか、大体同じだと思うんです。テーブルに二人とも出していたら、間違ってしまう可能性もあります」


「なるほどな。たしかにこの小学校では時々、作業所で作った製品を売るバザーをやってるし、職員の人が買って持っていても不思議はない。それに、たとえその入れ替わったとかいうケースと俺の物とが色違いだったとしても、残念ながら俺にはそこまで区別することはできないからな」


「行きましょう、職員室へ。さっき入れ替わったのなら、まだ勤務中かもしれないわ」


「そうだな。行ってみよう」


               〈第四話に続く〉

 

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