第2話 金色の魚
なんなの、これ?なんで深海魚がこんなところに?
優羽は思わず他のメンバーの反応を確かめた。そして目の前の出来事にまるで無頓着な様子の二人を見て、はっとした。
見えてるのは、私だけ?
改めて魚に目を戻すと、魚は優羽の前でくるりと身をひるがえした。その瞬間、魚の姿がほんの一瞬、輪の形になった金色のシールドに見えた。
魚は優羽の反応を楽しむかのように尾びれを二、三度振ると、ステージの下に身を躍らせた。体育館には数名の関係者がいたが、出口の方に悠然と泳いでゆく魚の姿に誰一人として気づいていないように見えた。
魚は体育館の中央あたりでいったん動きを止めると、呆然としていた優羽にあたかも指示を出すかのごとく尾びれを上げ下げして見せた。
ついて来いってこと?
優羽の脳裏に先ほど一瞬見えた、金色のシールドが甦った。
「ごめんなさい、ちょっとトイレに行ってきます」
優羽はベースをスタンドに立て掛けると、二人に向かって言った。
「あ、ちょっと。シールドはどうするの?」
「ぎっちゃん、もしかしたらインプット端子がおかしいのかもしれないから、俺のアンプでやってみようか」
梶山の提案に継田が戸惑っているのを尻目に、優羽はステージを降りた。
魚は体育館を出ると、廊下をまっすぐに泳いでいった。優羽は他の人には見えないのだろうなと思いつつ、後を追った。魚は廊下の突当りを左に折れ、優羽も後に続いた。
角を曲がりきると、廊下の中ほどにある通用口から入ってきた人物と視線がかち合った。片岡と言う三十代の施設職員だった。
「片岡さん」
「優羽ちゃん。どうしたの。もう始まる時間じゃない。トイレ?」
「ええと……」
優羽が言い淀んだ、その時だった。魚がくるりと身をひるがえしたかと思うと、空間に吸い込まれるように消え失せたのだった。消える瞬間、魚のいたあたりに再び、輪になった金色のシールドが見えた。
「あんまり、緊張しないでリラックスしなよ。優羽ちゃんは別にお兄さんの代わりってわけじゃないんだからさ」
「はい、それはわかってます。そうじゃなくて、シールドが接続不良でアンプの音が出ないんです」
「えっ、そりゃあ大変だ。……待ってよ、確かバンドの備品の中に昔、メンバーの誰かが寄贈してくれたシールドがあったはずだ」
「本当ですかっ」
「ああ。何でも自分で作ったとかで、全部金色をした派手なやつだよ」
「金色……」
呆然と立ちすくんでいる優羽を尻目に、片岡は両腕に抱え持った段ボールを床に下ろし、中をあらためはじめた。ややあって、片岡が目を輝かせた。
「あった、あった。これだよ。うーん、使えるかなあ」
片山はダンボ―ルから取り出した金色のシールドをためつすがめつしながら、言った。
「とりあえず、やってみます。貸していただけますか」
「ああ、持って行っていいよ。間に合うかな」
シールドを受け取ると、不安げな表情の片岡に礼を述べて優羽は身をひるがえした。
ステージに戻り、代わりのシールドが調達できたことを告げると、継田がばつの悪そうな表情になった。
「実はさ、優羽ちゃん、さっきのシールドでもう一回やってみたらちゃんと通電したんだよ。もう少し粘れば良かった」
「あ、そうなんですか……でも、結果的に使える奴が二本になったってことですよね?」
「そうだね。古いからまた接触がおかしくならないとも限らないし、まずは一安心かな」
継田に促されるまま、優羽はアンプのスイッチを入れた。弦を弾くと、太く豊かな低音が響き渡った。
「大丈夫みたいですね」
「これでもう、本番行けるかな?」
ドラムセットの前に陣取った梶山が、首を回して訊ねた。
「僕は大丈夫だけど……優羽ちゃんは?」
「大丈夫です、たぶん……」
「よし、それじゃあ開演アナウンスといきますか」
梶山が会場設営を手伝っている職員に合図を出した。ステージの幕が引かれ、体育館への移動を促す館内放送が流された。
「何人くらい来ると思う?」
「ええと……二十人くらいでしょうか?」
「うっ、いきなりリアルな数字が出ちゃったな。……いや、でもわからんぞ。どうする?百人以上来てたら」
「それだったら逆に開き直って弾きます。間違ってもアドリブだって言い張って」
「うん、その意気だ。俺たちも安心して演奏に集中できそうだ」
梶山が満足げに頷くのとほぼ同時に、開演を告げるアナウンスが流れた。
「よし、幕開けて」
えんじ色の幕が左右に開き、優羽は思わず固唾を呑んだ。恐る恐る上げた視線の先には、自分で言った予想よりほんの少し多い観客が、優羽たちの演奏を待ちかまえていた。
拍手が鳴り響き、優羽たちは観客に向かって深々とお辞儀をした。
「こんばんは。じょいんずです」
梶山が挨拶をすると、続けて継田がバンド結成のいきさつを簡潔に語った。
「……というわけで、僕らとともにバンドを作ってきた翔琉のベースは、嬉しいことに彼の双子の妹である優羽ちゃんの手にこうして託されました」
まいったな。継田さん、開演前に動揺するような話するんだもん。一曲目のイントロ、私のベースのリフからだってわかってんのかな。
本当なら涙が出てもおかしくないくだりだったが、緊張が感情の波を完全に抑えていた。
「それでは、私たちの練習の成果をお聞きください」
ドラムがスティックでカウントを取り始めた。大丈夫、リフのパターンはきっと、指がおぼえているはずだ。優羽は練習の時と同じように、力強く弦を弾き始めた。
継田が歌い出し、ドラムも加わる。いい雰囲気だ。何より演奏が楽しかった。
観客を見ず、指先だけに神経を集中する。継田の歌がごく自然と演奏に絡み、このまま最後まで大した苦も無くたどりつけそうだった。
継田の演奏が、間奏に入った。よし、終盤だ。そう思った時だった。
目の前に、あの「長い魚」が突如、空間からにじみ出るように現れた。
思わず観客に目をやった。見たところ観客の中に驚きをもってこちらを見ているものはいないようだった。続けて、演奏中の二人にも目をやった。すると驚くべきことに、二人の周囲でも、同じ魚が楽しげにぐるぐると「泳いで」いたのだった。
やがてドラムの演奏が終わると、梶山の周りをまわっている魚が空中に溶けるように姿を消した。次に歌とギターの演奏が途切れると、継田の周囲にいた魚も、梶山の時と同様に姿を消した。
〈第三話に続く〉
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