BONY TALES
五速 梁
第1話 水の中の骨
体育館は、静寂と言う水をたたえた水槽のようだった。
ほとんど身内ばっかなのに、こんなに緊張するなんて。
小学校の体育館は優羽の通う短大のそれより一回り小さく、集まり始めた観客が皆、大柄に見えるほどだった。
ステージ上の優羽が緊張しているのを見て取ったのか、顔見知りの人たちが肩を上下させるジェスチャーを送ってきた。
そうだ、失敗したってどうってことない。身内しかいないようなものだし。
優羽は再びベースを手にすると、ストラップを肩にかけた。本来ならこのステージに立っているのは優羽の双子の兄、
今、優羽が肩から下げている白いプレシジョン・ベースも元々は兄が施設の先輩から譲り受けたものだ。
周囲の人たちは「翔琉だって初心者だったんだから気にすることない」と言うが曲がりなりにも数か月、ベースと格闘してきた兄と、先月までベースに触ったこともなかった自分とは初心者のレベルが違う。
おまけに自分の場合は、好きで弾きはじめたわけではなく兄の死という現実から意識をそらすための逃避行動だ。
翔琉はどこに行ってしまったんだろう。
道に飛び出してきた女の子を避けようと、電動車椅子の舵を大きく切ったところに大型トラックが突っ込んできた。話だけならよく耳にするような、そんな事故で翔琉は亡くなった。その事実が、自分の兄の身に起こったこととは思えないのだった。
なんで私、ここにいるんだろう。
気が付くと、ドラムの
優羽たちの「じょいんず」は、身体障がい者の施設『青空ハウス』のメンバーが結成したアマチュアバンドだ。梶山は事故で左手の指がほとんどなく、継田は目がほとんど見えない。そして優羽の兄、翔琉はその名に反し、両足が不自由だった。
知り合いの工場長さんに頼んで作ってもらった、スクーターに似た形の電動車椅子でバンドの練習に向かう途中、事故に遭ったのだ。
優羽も実は先天性の難聴が進行しており、最悪の場合、聴覚障害になる可能性があった。
でも大丈夫、ベースの響きははっきりと、わかる。
最初の曲は『スタンド・バイ・ミー』だ。ベースのパートは同じフレーズを繰り返すだけだからと、他の二人が選んでくれた曲だ。とはいえもし途中で間違ったら、他のパート以上に目立つことは確実だった。
怖い。なんで私、ここにいるんだろう。なんで翔琉はここにいないんだろう。
思わず目を閉じた瞬間、優羽の脳裏に奇妙な映像が現れた。アルファベットの『Y』を逆さにしたような形の物体が、優羽と一緒に水の中に浮かんでいるという映像だった。
『大丈夫。心配しなくてもちゃんと演奏できるよ』
奇妙な物体は、目に見えないほど細かい振動で、優羽にそうメッセージを伝えてきた。
脳裏に浮かんだ映像がまるで目の前にあるかのように『見える』というのは奇妙な感覚だった。幻覚とも違う、払しょくできない鮮やかな映像。
しばらくその感覚を味わっていると、ふいに逆Y字の物体の正体に思い当たった。
骨だ。
そう思った瞬間、物体が震えた。同時にあの骨は私の骨なんだという理屈を超えた実感が全身を包んだ。
逆Y字の骨はおそらく「あぶみ骨」だ。震えているのは、骨が外界から得たメッセージを伝えようとしているからだろう。
難聴を自覚してから、耳の事は必要のあるなしを問わず調べてきた。だから、耳小骨の事も一応は頭に入っている。もちろんわかったのは骨の正体だけで、骨が話しかけてきたことを事実として受け入れたわけではなかった。
でも、骨が話しかけてきたことは、そう悪いことでもなかった。なぜなら「あぶみ骨」の声は翔琉のものだったからだ。
翔琉が私の耳小骨に直接、語りかけてきている。霊だか幻聴だか知らないが、どちらであったとしても、不安におののく今の自分にとっては心休まる現象だった。
なんで、耳小骨なの、翔琉。
思わず問いかけたが、返答はなかった。自分が医学生だから、こんなマニアックな幻覚を見るのかもしれない。とりあえずそう結論付けることにした。
優羽は、一曲目のリフをアンプラグドで爪弾き始めた。翔琉はピックを使っていたようだが、私は指弾きだ。頭の中で、ガイドヴォーカルを流しながらの練習だった。
演奏する指が止まったのは、ワンコーラス分を引っかからずに弾き終えた時だった。
ボッ、という奇妙な音が唐突に背後から聞こえたのだ。首を捻じ曲げて振り返ると、継田がベースアンプに手を伸ばしているのが見えた。
「ごめん、音が出てないと思って、電源入れちゃった」
継田が、悪戯を見咎められた子供の用に小声で詫びた。優羽は「うん、構わない」と頭を振った。どのみち本番前にヴォリュームを確認する必要があるのだ。優羽は、そっと四弦を弾いた……が、予想に反し生音しか聞こえなかった。
「あれ、スイッチ入れたよね」
小首を傾げた優羽を見て、継田は改めてアンプを確かめた。
「電源は入ってるし、マスターヴォリュームも上がってる。音が出ないはずはないよ」
「ということは……シールドだ」
優羽がそう呟くと、継田は親切にもシールドのジャック部分をいじり始めた。かなり年季の入ったアンプだけに、しょっちゅう接触不良をおこしているのだ。
「ううん、だめだ。やっぱり出ない」
継田の声は悲鳴に近かった。ひょっとするとシールドそのものが断線しているのかもしれない。だとしたら、本番までに交換している余裕はない。
翔琉、どうしたらいい?
思わず、虚空に向かって問いを放った。……と、次の瞬間、思いもよらぬ現象が起こった。
「あぶみ骨」が震えたかと思うと、目の前に奇妙な映像が唐突に「現れた」のだった。それは、魚だった。
異様に細長い胴体と大きな顎を持った、深海魚を思わせるアンバランスなプロポーションの魚が、優羽の見ている体育館の空中に唐突に現れたのだった。
〈第二話に続く〉
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