通勤快速という名の牢獄

ゆあん

京葉線ラマーズ

 その日は学校で大きなイベントがあった。準備に時間を要する為いつもより早い集合時間を指定された私は致し方なく5時に起床した。


 学校の指定した会場は後楽園。そしてここは外房線のど田舎だ。そんな私にとって朝8時の集合時間は暴力にも等しい。身支度を投げやりに終わらせると家を飛び出し、最寄り駅から電車に飛び乗った。


 コースは千葉駅で乗り換え総武線快速で錦糸町、そこから中央総武線に乗り換えて水道橋から歩くいつものコースと、京葉線で東京駅まで出て丸ノ内線を利用するコース。単純に東京駅まで出るだけなら総武線よりも京葉線の方が混雑が幾分マシで、始発なので座れる可能性が高い。間もなく降り出しそうな空を見て、イベント前にずぶ濡れになることを懸念した私は後者のコースを選択した。


 たしかこの時間なら通勤快速がある。


 蘇我発の京葉線通勤快速は、蘇我→東京間を最速で結ぶ超特急だ。蘇我を出発したら次は新木場までノンストップ。八丁堀を経由してあっという間に東京駅だ。通常なら各駅停車で50分強、快速でも45分程度要するこの距離を30分で結んでしまう。千葉県南部周辺に暮らす都会人にとってこれほどありがたい電車は無い。


 蘇我駅の混雑は時折錦糸町のそれを凌駕する。外房線、内房線というローカルラインから出勤する大人たちが一同に会す為、電車が数分でも遅延しようものならホームは文字通り歩く場所が無くなってしまう。よくもまぁ転落事故が起きないものだと感心してしまうほどだ。


 私は外房線を飛び降りると、小走りする大人たちを追い抜いて階段を駆け上がった。電車の接続時間は相当タイトになっている。しかしここで頑張って乗っておかないと差し引きで30分は到着時間が遅れてしまう。小心者の私にとってイベント前の準備時間は精神統一の貴重な時間だ。そんな大切な時間をこんな所で浪費する訳には行かない。私は細い体にムチを打って走った。


 私がホームに駆け下りたちょうどその時、一斉整列乗車を促すアナウンスと共に通勤快速の扉が開いた。社会に揉まれた大人達は指定されたルールを守り並んだ順番通りにその車内に飲み込まれていく。その第一団の最後尾につけた私は、後からホームを駆け下りてくる大人達を尻目に電車に乗り込んだ。


 車内の冷房は人口密度を考慮してややキツめに設定してある。沿岸を走る京葉線は直射日光の格好の餌食となる。暑がりの私にはありがたい処置だった。


 乗り付けた場所は車両端扉から中央側に進んだ座席の前。つり革も低い所にあるし、ドア付近に比べて乗り心地は快適だ。座れなかったのは大変残念だが、この時間帯の京葉線でこの場所を確保出来ただけでもありがたいと思わなければ。


 女性車掌のアナウンスが聞こえると、ドアはポンプの唸り声を上げた後に静かにしまる。静まり返った車内にはモーターの駆動音が響き渡り、その音程と共に車速が増していく。


 ふう。これで一安心。そう思った瞬間だった。


 私の下腹部を、あの強烈な痛みが襲った。


 安心感がそうさせたのか、冷房がそうさせたのか、今朝方一気飲みした牛乳がそうさせたのかは分からない。しかし本当にそれは突然で、それも殆どアクセル全開でやってきた。あまりの痛さに誰かに下腹部を殴られたのではないかと錯覚してしまったほどだ。私の眼の前に座る品のいい高齢の女性にそれが出来るとは思えない。


 私はしゃがみ込みそうになる体を精神力で支配しようと懸命だった。まずはこの第一波を乗り越えなくてはならない。大丈夫、突然やってくるものは大抵立ち去るのもあっという間だ。これを乗り越えれば、あとは快適な旅が待っている。


 ところがそれはちっとも立ち去ってくれなかった。むしろ、さらに痛みを増していた。


 電車は千葉みなとを通過している所だった。私は車内の電光掲示板をもう一度確認したが、やはり間違いなく通勤快速だった。後半の新木場まで停車駅は無い。そしてトイレ設置車両は配備されていない。


 下腹部の痛みが取れなかったら、私はあと二十分以上も車内でこの痛みと戦わなくてはならない。その戦いに敗れたら、私は社会的に死ぬ。間もなく成人を迎えようとする私の繊細な心にそれは到底受け入れられない事態だった。


 額からは信じられない量の汗が吹き出していた。シャツの襟は気がつけば水浸しになっていて、首に触れると冷たい。私はカバンから取り出したタオルハンカチで額を拭っては口をおさえるを繰り返していた。


 一分が何時間にも感じる苦痛。


「大丈夫ですか…?」


 その時だった。私の目の前で本を読んでいた品の良い高齢女性が私の異変に気がついた。


「大変、ちょっとあなた、どうしたの」


 私の顔色が相当に悪かったのか、立ち上がって顔を覗き込む。


「いえ、その、大丈夫です」


「大丈夫って、すごい汗! ほら、座って、いいから座って」


 気がつくと周囲の注目を浴びていた。あがり症の私はとたんにテンパった。周囲の視線に耐えきれず、女性が譲ってくれた席に腰を下ろす。背もたれに触れた瞬間、背筋が物凄く冷たくて一瞬びくっとなる。汗は額だけでなく全身に回っていたらしい。


「どうしたの、体調悪いの、持病?」


 腹痛のあまり迅速な返事のできない私に矢継ぎ早に疑問を投げかける女性。気がつけば隣のフレッシャーズな男性がハンカチで私の額を抑えてくれている。どこからか「電車止めたほうがいいんじゃないか」という声が聞こえてきた。


「だ、大丈夫です。それだけは、勘弁してください」


 健康診断でA判定以外を取ったことが無かった私は懸命に無事を訴えた。しかし事情の説明が的確に出来る程の余裕は私にはもう無かった。あまりの痛みで頭がぼーっとする。出てくるのは「すみません」だけだ。


「そうは言っても君、尋常じゃないぞ」


 覗き込んできたのはそこそこ太ったサラリーマンだ。仕事ができそうな感じの服装をしていて、私の前にかがんで顔を覗き込んでいるが、チャックが全開だった。


「お、お腹が痛いんです。多分、下ってる感じです」


 私がそこまで言うと、周囲にいた人々は安堵の声を漏らした。はぁ、あーよかった、なぁんだ。命に別状が無いことが分かると人々の対応は軟化した。


「ボタンを取ったほうがいいんじゃないか」


 誰か別の男性の声が聞こえた。ボタンって何の事を言ってるんだろうと思っていたら、隣のフレッシャーズな男性が「すみません」と言って私のズボンのフロントボタンを開け放った。私は色々な意味で気絶しそうになる。


 周囲では色々な声が聞こえてきた。

「今どこらへんだ」

「稲毛海岸って見えましたね」

「となると新木場まであと15分くらいか」

「それまで持つのか? この車両にはトイレないのか」

「トイレは無かったと思うっすよ」

「最悪ビニール袋かしら」

「それはあまりにも可愛そうすぎますよ」


 周囲の大人たちの真剣な眼差しが四方八方から押し寄せる。パニクった私はお腹の痛みと合わせて悲痛に唸る。自分でもどこから出しているのかわからないような初めて聞いた声が車内に響き渡る。それに呼応するように周囲の人もざわめいている。


 もう死にたい。


 そんな時、品の良い女性が私の両肩に手を乗せ、体をガバっと起こして背もたれにもたれかかせた。


「ほら、息吸って、はい、ヒーヒーフー。これで痛みが取れるから」


 真剣な女性の眼差しは私に拒否権を与えなかった。


「ヒーヒーフー」


「はい、ヒーヒーフー」


 何度か繰り返していると周囲の人々もそれに合わせて呼吸をしていた。隣のフレッシャーズも一緒にヒーヒーフーと言っている。


「ヒーヒーフー」


「ヒーヒーフー」


 何度やったか覚えていられない程の回数を行った。車内はヒーヒーフーのリズムで満たされていく。おじさんもおばさんもお兄さんもお姉さんも、みんながヒーヒーフーと言っていた。


 痛みが和らいだ気がしたのは一瞬だった。その油断が私の直腸に深刻なダメージを及ぼした。お腹の中で空気がこぽこぽと鳴り響き、肛門に対するテンションが一気に加速していく。まさに一瞬の油断もできない状況だ。私は思わず呻いた。


「ああああ」


 即座に数人が対応した。女性は私のお腹をさすりながらヒーヒーフーと言い続け、隣のお兄さんは額の汗を拭き取り、どこからともなく現れた派手に和風のサラリーマンは扇子で私をあおぎ、ガラの悪いスーツのあんちゃんは「まだつかねぇのかよこの電車は!」と叫んだ。


「大丈夫よ、新木場に着けばトイレがあるから!」


 女性の懸命な励ましに私はヒーヒーフーと言いながら答える。


「ヒーヒーフー、大丈夫ですかね、助かりますかね、ヒーヒーフー」


「大丈夫、あと少しだから。頑張って、はいヒーヒーフー」


 そんな時、事態を知らない女性車掌の悠長なアナウンスが流れる。間もなく新木場に到着するとかそんな事を言ったのだと思うのだが、そのアナウンスが流れ切る前にスポーツマン風の背の高いおにいさんが叫んだ。


「新木場駅の階段に一番近いドアはどれですか!」


 車内が一瞬ガヤッとする。か弱い女性の声が聞こえ、それがおにいさんまで伝達されていく。


「この車両の一番後ろ? オッケーわかった! そこまで移動しましょう!」


 そのおにいさんのリーダーシップによって私が運搬される事が決定したようだ。

 女性が「大丈夫立てる?」と言うので訳も分からず首を縦に振ると、いつの間にか私の肩に手を回していた隣のフレッシャーズが私の体を持ち上げた。その瞬間に肛門のテンションの開放を感じて一時的に危機的状況になり、私は呻いた。


 クソ、なんで私は今日に限って白いスボンなんて履いてきてしまったんだ!

 もっと濃い色なら少しくらいバレないのに!


 そう過ぎった瞬間、私は首を横に振った。なぜ漏らす事が前提になっているんだと自分を強く戒めた。


「大丈夫! あと少しだからしっかりして!」


 女性の突然のヒステリックな叫びにビビって緊張感を取り戻した私は、力の全てを肛門に回した。足は内股になり生まれたての子鹿のようになっているが見てくれなどもう気にしていられない。


 なんとか第一歩を踏み出した時、ガラの悪いあんちゃんが叫んだ。


「おうおうお前ら道開けろ! お通りだ!」


 そのやたらと通るダミ声によって人々は体を寄せ合って道を開ける。先程まで殆ど隙間が無いように思えた車内に不思議と道が現れた。人間は協力し合ってその身を引けばここまで圧縮できるのか。


 私は女性に両手を引かれ、フレッシャーズに腰を支えてもらいながら人間のアーチを進んでいく。新木場駅に近づくにつれ徐々に減速していく車内は不規則に揺れた。その度に歩行不安定な私の体が振り回され、肛門が限界に近づいていく。車内を進みながら今まで事態に気がついていなかった人までが私に興味と哀れみの視線を送っていく。まるで晒し者だ。


「まもなく、新木場です」


 電車は殆ど止まりそうだった。眼の前には楽園への扉がある。景色が流れてきて眼の前に階段があった。あの階段を降りて少し行けば私はトイレに行ける。ようやく長い戦いが終わるんだ。


 電子音と共に扉が開いていく。眼の前にはこの電車に乗ろうとする人がずらっと並んでいるが、扉が開いた瞬間にたじろぎ、避けていく。ガラの悪いあんちゃんが扉から飛び出し、雑誌のようなものを丸めた拡声器でどけどけと叫んでいる。喋れない私に変わって女性が「すみませんすみません」と謝ってくれている。事態に気がついた駅員が飛んで来て、フレッシャーズの男性が事の経緯を説明してくれている。


「わかりました、早くこちらへ!」


 ここで私の手は女性からヒョロい駅員さんに渡される。駅員さんは何やら無線機のようなものに話しかけながら、私の手を力強く引いていく。子鹿のようになった私の足では厳しい速度でしかしお構いなく引いていく。


「お客様ご案内中です、改札前トイレ確保願います」


 ああ、私は助かるんだ。

 振り返れば女性とフレッシャーズが心配そうな目で見ていた。

 本当にありがとう。あなた方のおかげで私はここまでたどり着けました。この駅員さんに手を引かれて階段を数段行けば私は助かるんです。


 そう思った瞬間だった。


 隣のホームに入ってくる電車が特大の汽笛を鳴らした。


 驚いた私は、肛門の力を抜いてしまった。





 数年後。

 急な腹下りに対応するクスリのCMが地上波で放映されていた。


「おせーよ」


 私はテレビに向かってハンカチを投げつけた。

 

 あの日以来、私は通勤快速に乗っていない。

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