Gabriel

Gabriel

 我ら当主は代々まこと、女に謀られ続けた身の上だった。

 やんぬるかな……どこまでも、女に裏切られ続けた血筋だった。

 彼の母は夫の亡きあと、たやすく寡婦の身分を捨てて奔放な再婚を繰り返した。

 彼の姉は仇敵に恋を語り、妹は政敵のもとへ愛を告げに走った。

 その人がきっといつくしめると信じた姪たちは、呪わしき家名を声高らかに名乗り、ただひとりの妻が遺した最愛の一人娘は、とうとう彼が憎み抜いた怨敵の子を孕んだ。

 苦しんで苦しんで苦しんで、それでもなお、彼が跡目を継がせた私の名こそは、あなたがたの女王ロデリンダ

 祖父は果敢な、我らマイヤーハイム家の誇らしい当主だったが……女たちに裏切られ続けたあの人のことを、私は今も、憐憫とともに思い出す。一族の統領として苦痛とともに表舞台に立ちながらも、家中の彼女たちに翻弄されて悩み続けた、あの人はかわいそうな老人だった。少なくとも私の記憶の中では。あるいは、私というたったひとりの孫の立場から、あの方を思い出すならば。

 さて、ここに記すのは私の言葉である。私だけの言葉である。母や祖母、そして曾祖母、さらに遡って連綿と、我らマイヤーハイムの家筋を脈々繋げようと奔走した、あまたの女たちが扇の影で囁いた言葉のようなものである。これは策謀のための言葉である。

 一族の女当主として立った私には、一族の女たちがそうするように、家屋敷の奥で娘に伝え継ぐ言葉は持てない。けれど言葉は遺したかったし、私にも守りたいものはある。だからこうして、私はこの手で、決して生まれてはこないだろう我が子に囁くその代わりに、あなたがたへとインクの跡を紙面に残し置くのである。

 ……とはいえ。一族の男たちには伝えられない物事を含めてここに書き記してしまう以上――私の遺す言葉だって、あなたがたが策謀の影で必死にお祖父様に伝えようとし続けた、愛情の言葉と同じなのかもしれない。本心からであっても、決して伝わらない言葉だ。これは。策略にまみれはかりごとでもって家の命脈をどうにか繋ぎ続けたマイヤーハイムの女たちの、悲しい言葉と同じでしょうね。

 さて――私の名の下に記し置くこの遺言を、お母様、お祖母様、分家のおば様がた、そして従姉妹たち。あなたがたにはよく憶えてもらいたい。そして焼き捨ててしまえ。私がじきに眠る棺とともに。

 ロデリンダ・フォン・マイヤーハイム。

 かつてあなたがたがまるで御伽噺を物語るように、世の現実に幻想を重ねて名づけた、この私の名でもって……あなたがたに責務を命ずる義務が、私にはある。そして一族の女たちよ。あなたがたは役目を果たさねばならない。

 私の生まれを、まずあなたがたは深く魂に刻むべきだ。

 私はロデリンダ。マイヤーハイム家の誇らしき当主の娘が、権威ある枢機卿の寝台に侍って得た

 男子として生をうけながら、あなたがたの意思により次代を担う姫君として、私はまるでよくできた物語のようにこの世に披露目られた。

 百年以上前から、あなたがたが家を守る為、大陸中に散らばった権力を集約させようとして奔放に貴顕の家々と縁故を結んでいたことを思い出してほしい。めまぐるしい婚姻を繰り返し、養子を迎え入れては実子を他家へ送り込み、そのかいあって徐々にマイヤーハイムは大陸中の相続権をりあつめるように手繰りつつあった。

 問題となったのはその相続権、あるいは婚姻関係が認められるか否かにすぎない。近縁との結婚は認められない以上、複雑に入り組んだ系譜の不備は当家最大の弱点だった。私がこの世に生まれ落ちたのは、その弱点を執拗に弾劾していた大聖堂のお歴々を封じ込めて同じ穴へと引きずり落とすためだったと、私はあなたがたから聞かされている。

 以来、私は少女である。帝王学を学ぼうとも、剣技を身につけることは叶わず。ドレスの裾をさばいて踊ろうとも、騎士の位を拝命することは終ぞなく。教皇にまで上り詰めた我が父猊下との駆け引きの果てに、彼の公然の秘密の子である私を少女として育てると妥協した以上……淑女の皆様。あなたがたにはさらなる余興を、マイヤーハイム存続の為の舞台の上で踊り続けていただかねばならない。いままで代々、培った舞踏の裾捌きで。

 お祖父様の今際の言葉によりこの身が当主の座についた九歳の誕生日よりも前から、ロデリンダ姫への縁談は大陸各地から集っていた。

 私の肖像画はやっと立って歩けるようになった頃から各国へ巡り、この名と姿と、性別をあまねくしらしめてひさしく。

 ロデリンダ・フォン・マイヤーハイムは、まさしく理想の姫君だった。世の乙女たちは私の肖像画をこぞって真似て、私の装いを次々追いかけた。

 彼女たち以上に世の君主が、それ以上に有望な若者たちが、理想の姫君の偶像を意気込んで追いかけた。求婚の列がなされた。

 それらの過程で当家はなかなかに、次代の権力者たちへの調略を推し進めたことと思う。

 けれど私もまたその後数年のうちにロデリンダという姫君の偶像に追いすがりだしたのは、皮肉と言ってしまいたいね。体が成長を始めるにつれて、私は理想の少女の型へとなんとか身を押し込めるため、数々の試行を強いられた。部屋に閉じこもり陽の光は避けて、食事は節制し、ついには錬金術師の秘薬にも頼った。そうでなければ、まだロデリンダでいられるうちに、私は早々に人生から退場するほかなかったのだから。……ロデリンダは病弱な姫君になっていった。

 ちょうど、その頃に。

 あなたがたは、私に人形を与えたことを、おぼえているだろうか。

 とうとう肖像画を描かせるために、あかるい陽の光のもとで長く座していることも避けるようになっていた、当時のことだ。昼日中画家を部屋に招き入れることも拒んでいたあの時、本当は私は成長痛で夜も眠れずにいたんだよ。

 私によく似た少女人形をあつらえたのは、あなたがたの苦肉の策だったね。

 人形師は形をまず見る。触れた輪郭から、人形を生み出す。薄暗い工房で、彼女は生まれた。

 彼女は私との対面を終えたら、じきに私の肖像画代わりに各国をめぐるはずだったけれど……私がそれを許さなかった理由を、あなたがたはあの時、不思議そうに尋ねておいでだった。初めての、私が生きているうちたった一度きりの、あれは心からの我儘でした。

 けれどとうとう私が口にはしなかった理由なんて、あなたがたが思い描いたどんな憶測にも当てはまらないんだよ。

 かの少女人形を、私は救世主グリゼルダと名づけた。

 初めて私は、私とよく似た存在を見つけたと思った。あの子を箱の中から抱き上げた時、やっと私にちかしい者と、はじめて巡り会えたと思ったんだ。

 あの子は私だった。私を模して作られた、あの子は、彼女は私だった。いや……むしろ私が人形だったのだ。あなたがたがマイヤーハイム家の為に、仕立てて操った踊り子だった。ならばいっそ、私は彼女を守らなければならないと感じた。私の愛する、グリゼルダ。姫君の形代として生まれたあの子は、私のたったひとりの同胞だった。

 そして彼女は私の憧れなのだ。

 正しく、まっとうに、姫君人形である彼女のように、ロデリンダが少女であったら――どれほど、我らは救われただろう。そう思うほどに、私にはグリゼルダがまばゆく思えてならないのです。

 どうか、許して。

 ……あなたがたを憎んではいない。

 マイヤーハイムの淑女の皆様。あなたがたを隠す盾として表舞台に立ち続けたマイヤーハイムの騎士たちは、きっとあなたがたを恨んではいない。

 あなたがたの夫君や息子や兄弟はあなたがたを愛したから、あなたがたの奔走に苦しみ、犠牲に悩み、そして痛みを忘れず死んでいったのだ。

 けれど、許してほしい。私はどちらにもなれなかった。私は私の姫君のために苦しめなかったし、そもそも私は騎士ではない。お祖父様のようには、あなたがたのはかりごとに心底苦しみきれなかった。私はマイヤーハイムの女たちの奔放な権謀術数を、女当主としてつまびらかに知ってしまったのだから。

 どうか許して。私はもうマイヤーハイムの為に立てない。立ち続けるのに疲れてしまった。姫君ではないのだから、その人の為奔走できるたったひとりの誰かも持てず。剣すら握れないのだから、マイヤーハイムの女の矢面に立つこともできない。手を取り合って踊る相手など、私には誰もいないのだ。

 言ってしまえばもう、時間もない。どうか無様な姿をさらす前に、私は舞台から降りたいのです。その先はあなたがたが踏みならす床板の下の奈落しかないでしょうが、むしろそれがいいのです。しとやかに客席に降るには……もはや大陸の貴種の血筋は、私に集約されすぎた。

 けれど私はその場所に、私の救世主メシアを連れてはゆけない。

 私はこの筆を置き次第、舞台から暇を乞うでしょう。聖堂の父猊下には顔向けできまいが、神に背いた自死を選びます。無様な末期まつごだけは御免なので。

 マイヤーハイムの淑女たちよ。あなたがたは、あなたがたの父や夫や兄弟や息子の目を欺かねばなりません。ロデリンダの本当の性別を悟られることなく、早急に葬りなさい。弔いのうちに、女当主の自死というマイヤーハイムの不名誉な真実を埋めなさい。それは私があなたがたに求める、生涯二度目の我儘です。

 ――そしてここに、私は当主の遺言をも告ぐ。

 私はグリゼルダを一人きり遺しおく以上、彼女を私と同じような、孤独の毒には浸さない。彼女が埃に埋もれて、市井の金銭で購われ、あるいはその身を損なうことを、私は決して許さない。

 ロデリンダ・フォン・マイヤーハイム。私に集約された我ら一族の財産権利に土地館、そのすべての動産不動産は、私の形代である、姫君人形をしるべとしてのみ、相続することを許します。すべては、末代に至るまで。

 そして幾代もを踊り続けた淑女たちに敬意を表し、グリゼルダを継げるのは、マイヤーハイムの血縁のみとしましょう。

 ……それ以外の条件は、好きにしていい。

 でも、もしも。

 もしも私の弔いの後、時代が許してくれるのならば……しばらくは私と似た響きの名の、少女か若い女だと、嬉しい。叶うならば裾の長いドレスの似合う、長い黒髪でも肩にひろげた、姫君人形そのものを愛してくれるような。私がグリゼルダを愛したようでなくともいい。心から大切に思って、優しい手つきで彼女に接してくれる人がいい。きっとそうやって面影を残せたら――彼女ももしかしたら、しばらくは私のことを、忘れずにいてくれるかもしれないから。




 ――そして、私は長い長い記述を終え、やっとペンを置いた。

 人形に記憶を願うなんて。それこそ、まるで御伽噺のようだ。それでも私はそんな幻想をも切り捨てて、ながくかかったさよならの支度にも、区切りをつけることにした。

 我ながら苦笑しつつも紙上のインクがかわくのを待ちきれず、あいもかわらず億劫な長い裾を床にひく。私は両手を使ってゆっくりと立ち上がる。たとえここに置き去りのままでも、分家の従姉妹たち肝いりの側仕えたちは優秀だ。迅速に私が記し遺した言葉を、マイヤーハイムの女たちの懐へ隠すよう動くだろう。

 ここ数ヶ月、空腹と目眩ばかりに煩わされている。自ら食を押えたことは、これ以上の成長を避けるためだとはいえ、やはり身が億劫に衰えたことに変わりはない。書き物机の鍵付の抽斗ひきだしから、お祖父様の遺した短剣を取り出して左手で掴み、そのまま寝室へと足をひきずる。

 寝台の周囲には天蓋の他にも、自ら望んでカーテンをしつらえていたし、そもそもこの部屋の窓をふさいだのは、もう一年も前のことだ。私と彼女の安息の部屋は、常のように薄暗く保たれていた。

 天蓋をゆっくりとくぐり抜け、短剣を震える左手で握ったまま、私は彼女のもとへたどりついた。

 白いレースが幾重にも使われた姫君の寝台には、私と揃いのグリゼルダが、いつか知り得た物語の眠れる姫君のように、枕を背もたれとして寝台の端近くに座していた。

 この子は私と同じ姿で、そして私と同じなのだなと思うと、どうしようもなく救われる思いだった。こんないびつな私でも、それでも、ひとりきりではないかもしれないと錯覚できる。

 私は寝台の傍近くでひざまずくと、とうとう力のはいらない上半身を、レースの上に預けた。

 そのまま左手に携えた短剣の鞘を慎重に引き抜き、だらりと床に下げた手首に深くあてる。少女として葬られるこの身に、目立つ傷は少ない方がいい。滑らせた一閃は、最初で最後に握った剣の感触を、不器用に柄を握る左手に伝える。私だって本当は、裾のない少年の装いで、剣を佩いて馬を駆り……と。ずっと願ってやまなかったなと、不意に思い起こされる。

 痛みにのたうつにも、億劫だった。

 形見の短剣をどうにか握ったまま、私は左腕を寝台に押し上げる。ほとんど寝台にしなだれかかりながら、私は私の少女人形を見つめた。

 グリゼルダ。あなたはこのまま、うつくしく受け継がれてほしい。私がこんなに痩せて、骨張って、醜くやつれて死んでいくのとは、異なって、これからも。

 それでもなんだかさみしくなって、しばらくしてからか、あるいはすぐさまにか、私は左手で握った剣の柄をとうとう手放した。血液の止まらない右腕でなんとか、絨毯のしつらえられた床に力を込めて、左腕を彼女に伸ばす。寝台からは落ちないように、それでもそば近くにと抱き寄せる。――私の姫君。

 私の、グリゼルダ。

 その時になってやっと、気づいた。そうだ。あなたは。あなたが私の姫君だったんじゃないか。

「私が恋した、あなたが……ずっと」

 かすれがちな声で、私はあなたに呼びかけた。私と揃いの黒髪。私と揃いの、硝子の碧眼。

「ずっと誰かに、選ばれてくれるのなら」

 そして踊り続けてくれるのならば、私だって、ロデリンダ・フォン・マイヤーハイムだってまた、姫君を愛せた騎士だった。

 なんだか嬉しくて、それでもお別れを目前にしたいまとなってはぎこちなくて。私は、グリゼルダ……あなたに笑いかけようと努力しながら、この腕の中のあなたを、いつくしむようにそっと眺めた。

「だから、さよなら……」

 私が心に今、飼うものは、きっと人が交わし合う恋や情とはまったく違う。

 けれど私はこの長年の苦しみが解かれた衝動的なよろこびを、恋とでも称してやりたかった。

 私は私という不確かな存在を、マイヤーハイムの女としての彼女を遺すことによって、残滓であっても後世に、誰かの記憶に寄り添わせてやりたい。私の姫君人形……もはや意識も朧な今もこうして、片腕だけで抱きしめる、あなたの身の上とともに。

「――グリゼルダ」

 あなたは、私の光だった。

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アイネクライネレースライン 篠崎琴子 @lir

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