花畑のアウフヘーベン

アウフヘーベン


二つの対極的な意見を統合し、より高次元へ導くこと



ジンテーゼ


テーゼとアンチテーゼが本質的に統合された命題




テーゼとアンチテーゼがアウフヘーベンされると、ジンテーゼになる(ヘーゲルの弁証法)



◆◆◆◆◆◆◆


人工多能性幹細胞

すなわちiPS細胞(Induced pluripotent stem cells)とは、体細胞の遺伝子を人工的にリプログラムすることにより、さまざまな組織へと分化可能な多機能性を持った細胞(一般的に万能細胞などと呼ばれる)へと作り変えられた細胞のことをいい、iPS細胞技術は、2006年、ちょうど今から30年ほど前に樹立された再生医療技術として知られている。


実用には多くの課題があったが、再生医療という夢のような研究は、それぞれの国家の威信を賭け白熱していった。


その後、幹細胞研究は進み、iPS細胞のみならず、さまざまな手法で容易に万能細胞が作り出されるようになった。


今から数年前、応医大の研究チームが30代女性のヒトの皮膚から取った細胞から幹細胞を作り出し、同女性の事故で失われた薬指の組織を再生し移植することに成功し、再生医療への実用化の一歩を踏み出した。


今ではその技術の発達により、多くの臓器が再生出来るようになり、失われた臓器の再生やさまざまな疾患の治療などに応用されている。


多くの難病の治療にも応用され、私たち人類に多くの恩恵をもたらしたのである。


いまなお再生研究が遅れている組織もあるが、幹細胞は、理論的には人間のすべての細胞を作り出すことが出来る細胞として研究が続けられている。


◆◆◆◆◆◆◆


「何読んでるの?」


研究所の休憩室に置いてある雑誌から目を上げると、同僚の熊川侑里(くまかわゆうり)がカップのコーヒーを啜りながらこちらをぞき込んでいる姿があった。


「あぁ、暇つぶしにサイエンス誌。iPS細胞の特集」


「なんか面白いこと書いてあった?」


「いや、別に。もう知ってることばかりだよ」


「そう言えば、後藤田教授が前言ってたな。iPS細胞がなかったら、本当は私たちの研究にもっとお金が回って来てたはずだったって」


「そうだろうね。鉄の塊で作られた腕や足よりも本物の血が通った自分の手足で動きたいだろ?君だって」


「そうね。もちろんそうだわ」


「人体と全く同じように動く機械なんてそもそも限界があったのかもしれないよ。全く違うものなんだから」


「でもほら、おかげで私たちは人工知能の研究の方に専念出来るわけだし、再生された組織の移植前の試験用で大活躍じゃない?ロボット脳は」



「そうだな。時代にそぐう使い方があって何よりだ」


自嘲気味に笑った俺の表情に、彼女は残りのコーヒーを飲み干し、いたずらっぽい顔をしてクスクスと笑った。


「皮肉めいたことも言うんだねえ。智永氏も」


なんと返答すればいいのか分からないことをこの人はいつも言う。

無駄な会話の苦手な俺には、それがいつも居心地が悪くて仕方がない。


「イチオウ、人間なんだって思っちゃった」


「俺は人間だよ。もともと」


「智永くんって、ロボットみたいって言われない?だから好きなんでしょ?機械イジリが。きっと機械の気持ちが分かるのね。超伝導体質なんだよ。体温も冷たいし」


誰かに聞かれたら困ることをこの人はいつも言う。

男女関係の話の苦手な俺には、それがいつも居心地が悪くて仕方がなかった。


「そんなこと、君にしか言われないよ」


俺は誰かに聞かれないように小さく早口で答えた。



読んでいたサイエンス誌をラックに戻し、俺はソファから立ち上がりながら

「今日はお客さんが来るって言ってたよね、後藤田教授」と彼女に聞いた。


「今さっき到着したみたいだよ。生理実験室を使うって言ってたから、また移植用の組織の試験じゃない?」


「そう」


返事をしたところで、教授が廊下の向こうから大きな台車を押しながら歩いて来るのが見えた。


「ちょっと、智永くんと熊川くんいいかな」


「はい。今から行くところでした」


そう俺が答えると、教授は少し考えるようにして、こう言った。


「今日の試験だけどね。解剖室を使うことにしたから、君たち二人だけ来てくれればいい。分かったね」


そう口早に言うと、教授はその台車をまた押しながら解剖室へと向かうようだった。


「あれってNC05だったね」


「ああ」


台車に乗っていた箱の大きさと、その上に乗っていた資料を見て侑里がそう判断したことに、俺は同意した。


NC05は先週完成したばかりのロボット脳で、相対的判断能力を重点的に強化したものだ。


例えば人の並んでいるレジがいくつかあって、それのどこに並べばいいのかという判断能力だ。


単純に見れば、人の少ない列を選べばいい。しかし、会計処理をする人間の能力には違いがある。


処理能力のスピードと列に並ぶ人の数、そしてレジに並ぶ人のカゴの中にある商品の数を相対的に判断し、最も早くレジにたどり着ける列を選ばなくてはいけない。


人が当たり前に下している判断は、実に複雑な相対性を持っているのだ。


これをロボットに理解させるのは容易なことではない。


ようやく完成したNC05だったが、それに見合う器はまだ今のところ無かった。


NC05の処理能力に見合う判断を下すだけの情報を瞬時に収集できる目や耳や鼻などの機能のあるロボットが出来ていないのだ。何しろ脳自体がまだ何かに積むには大きすぎる。


ましてや、出来たばかりのそれを移植組織の試験用に使う理由もよく分からなかった。


侑里と俺は懐疑的な気持ちを抱きながら解剖室へとたどり着いた。


扉を開けた瞬間に、解剖台の上に緑色のシートの被せてある物体が目に入る。


「あの、今日って試験じゃなかったんですか?」


侑里がそう言って言葉を曇らせながら解剖台の脇に立つ。

俺も、解剖台の向こうに立っている教授と、その隣にいるでっぷりと太った白髪の男性のもとへと進んで行った。


「いや、試験には違いない」


そこで教授はその緑色のシートを軽く持ち上げると、一気に取り払った。


「え……?」


侑里は目を丸くしてその物体を見つめていた。


「これって遺体ですか?」


俺が驚いたのは、目の前に遺体のようなものが横たわっているということではなかった。

俺が驚いたのは、その遺体のようなものに見覚えがあったということだった。


「いや、生きてるよ。いや違うな、生命じゃないから、動いてると言うべきか」


俺はその体に手をそっと伸ばした。


「温かいですね」


まるでただ眠っている人のように見えるソレを見下ろして呟いた。


「何ですかこれ?」


「万能細胞を培養して作ったヒトだよ」


侑里の質問に答えた教授の顔を一同が見つめていた。その目は、どこか虚ろに見える。


「でも……」


「生命ではないよ。脳組織は生体機能維持くらいの能力しかない。というか、脳組織を培養するのは、倫理的問題があるからね」


白髪の男性が得意げに笑いながら説明をした。


「だから、今日はこれに、君たちの開発したロボット脳を接続してみようという試験なのだよ」


なんのために?


移植組織ではないのだから、臨床試験ということではないだろう。


そう俺は言いかけたが、侑里の不自然な視線に気づいて、それを辿ると、後藤田教授の手が恐ろしく震えているのが視界に入った。


そうだ。臨床試験のはずがない。

では何を実験するのか。答えは簡単だ。


誰かの細胞から万能細胞を作り、その万能細胞で体の全ての組織を再生し、その再生したヒトの箱に人工知能を載せるという実験だ。


では、なぜそんなことをするのか―――――。


白髪の男性と目の前の少女の顔はどことなく似ていると俺は思った。



「分かりました。熊川さんNC05の準備を」


とだけ言うと、俺は白髪の男性に指示を仰いだ。


白髪の男性は恐らく医療研究分野の人間なのだろう。


テキパキと頭部を切り開くと、手順の説明をした。


NC05は最初から臨床試験に使えるよう人体に接続出来るように設計されている。


伝達用の極を取り付けると、あっという間にその作業は終わった。


「じゃあ、目を開いて」


「はい」


侑里が操作盤のキーを打つと、ゆっくりとその目が開いた。


「周囲認識モードにしてくれるかな?」


「はい」


驚くほどスムーズにその体は持ち上がり、左右を見渡し、こちらに目を向けた。一同を眺めると、視線が一番右手にいた俺のところで止まった。


「こんにちは。



初めまして。


智永さん」


俺の名札を確認してそう言うと、ソレは口角の片側だけを少し上げて会釈をした。


人は死んだら何も残らない。


それは間違いだったのかもしれない。


ヒトというモノであれば死なないのだ。


そうなんだね?


ようやく少女の言いたかった意味を理解した俺は、少女の手に入れた永遠の体に生命を吹き込む。


一人の少女が教えてくれたテーゼは、俺に二度と同じ悲しみを与えない。


愛するヒトを永遠の中に閉じ込めて、忘れてしまわないようにする方法を教えてくれたのだ。


それはまるで、雷に撃たれたかのような閃きだった。



母がいなくなってからの2ヶ月、震えて泣く俺を彼女はいつも穏やかに抱きしめてくれた。


そして彼女が帰った部屋に独りでいると、想像をしてしまうのだ。



“もし、彼女までいなくなってしまったら、俺はどうなってしまうのだろう”





その夜、俺は侑里の家に忍び込み、寝ている彼女の首を絞めて殺した。


一瞬、目を覚ました彼女は声にならない声で「どうして?」と言った。


「君を永遠に手に入れる方法が分かったんだ」


俺は喜びのあまり彼女の首を掴んだまま、空高く持ち上げた。


彼女の目は驚きと恐怖で見開かれたままだった。


そして、完全に息絶えた彼女の小指を切り取り、培養液の中に入れて持ち帰った。







「智永くんて、ロボットみたいな人だね」




愛するヒトは永遠に、


俺の隣でそう囁いてくれるだろう。





愛しいほどに、いつまでも。


螺旋を描くように。


侑里、君の《カケラ》がこの世にある限り―――。




ジンテーゼは、is not NULL







fin

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is not NULL 林桐ルナ @luna_rin

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