心的飽和のアンチテーゼ
アンチテーゼ
命題に対する対照的な反対命題
結果的には、命題の否定の意味をなす
ピーーーー
「ご臨終です」
ご臨終という言葉を滑稽だと思うのは、テレビの中の《見せ物》に慣れすぎているからだろう。
テレビドラマの物語の要素として消化されていく死体に、恐怖を覚えることもなく、「あ、死んだな。やっぱり」と思うことと似てる。
本当は死んでないと思ってるからバカげて聞こえるんだ。
バカげてる。
ご臨終なんて言葉は、やめてしまえ。
見せ物じゃないんだ。
“はい、死にました”
の方がよっぽどいい。
悲鳴。
叫んでいるのは祖母だろう。
叫ばないでくれ。
見せ物じゃないんだから、泣きついて抱き締めたりするな。
お涙頂戴で片付けられて、知りもしない人が涙ぐむ。
この死を無駄にしないようにと人は言う。
死んでしまった人を無駄に出来る術があるならお前が教えてみろと言いたい。
死んだらいなくなる。無駄に出来るほどのモノは何も残らない。
何も残らないから、忘れてしまわないように必死になっているんじゃないのか。
無駄に出来るほどのモノが残っていれば、誰も悲しんだりしないだろう。
無駄に出来るほどのモノがあれば、忘れてしまったりはしないんだ。
そうだろう。
母の命は無くなり、母は消えた。ただそれだけのことだ。
病院には、色とりどりの花で埋め尽くされた花畑が、四方を丸く縁取る中庭がある。
その中庭のちょうど中央にあるベンチに座り、車椅子で行き過ぎる老人を横目に眺めていると、後ろから抑揚のない少女の声がした。
「ちょっといいですか?」
平凡で、ありきたりな風景の一部である自分は、言わばエキストラのようだ。
エキストラには台詞がない。だから答える必要もないだろう。
身動きせず目の前の風景を同じように眺めていると、声の主である高校生くらいの少女は横に座った。
ピンクの細いストライプのパジャマが視界に入るが、そちらを振り向いたりはしない。俺のすることは決まってる。エキストラはそこに存在するだけでいい。
「智永さん、死んじゃったんですか?息子さんですよね?」
少女はそんな俺にお構いなしで話し始める。
「私、ついこないだまで、一緒だったんですよ、病室。私ももうすぐ智永さんの移った個室に行きます。死んだら……」
そこで少女は口をつぐんだ。
信じられないほどの沈黙の長さに、腐った鉄のように錆び付いた俺の体が、少しだけぎこちなく動いて、パジャマの上の少女の頭部を捉えた。
泣いているかもしれないと思ったが、そうじゃなかった。
少女は笑いを必死でこらえるように、口角の片側を上げて目の前の花畑を見つめていた。
「死んだら、私の体のうちで使える部品は、全部あげるつもりです」
おそらく具合がよくないのだろう。顔は青ざめて、血色のない目元には黒い隈がはっきりとこびりつき、視線は何かを追うようにさ迷った。
「移植を希望する人は減っているそうですよ」
この時代に、治らない病気の代表と言えば、癌が脳に転移した脳腫瘍。おそらくこの女もそうなのだろう。
だから言っていることが支離滅裂なのだ。そんな言葉に答えてやる義理はないが、その時の俺はそう答えた。
残るものなど何もないと告げるために。
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