決断の時・8


 朝の日差しの中、雪はやんでいた。

 しかし、あたりは真白である。この時期、ここまで霊山に雪が降り積もるのは珍しいそうだ。

 本来は、また花々が咲き乱れるころまで……いや、子供さえできれば、もう一年いることができたのに。

 エリザは、質素な木綿の服の上に羊毛の外套を羽織っていた。

 息が白くなる。

 巫女姫の母屋は雪に埋もれていたが、そのせいか余計にこじんまりとして見えて、なぜか寂しかった。

 昨日の段階で、フィニエルの現巫女姫の仕え人の任は解かれていた。それでも、門のところまで送っていってくれるのかと思っていたが、フィニエルは姿を現さなかった。

 仕事のみではなく、なんとなく心が通ってきたような気がしていただけに、エリザは少しだけ悲しかった。

 フィニエルが、新しい巫女姫の仕え人としてすでに任に付き、彼女を迎える準備で忙しいと知れば、エリザは泣き出したことだろう。

 真っ黒なマントを羽織り、日差しを避けるようにして迎えに来た祈り所の者と、仕え人数人に見送られるだけの、実に寂しい山下りである。

 革のブーツを履いているというのに、雪が靴の中に入ってしまい、足が千切れそうに冷たい。

 雪の上に影を落とす黒い祈り所の者の影は、老齢のためか動きが緩慢でぎこちなかった。不安でたまらない。


 ここにきて、エリザは先日の最後の別れに、サリサにまともな話をしなかったことを後悔しだした。

 聞き分けのいいふりをした。

 本当は、ずっと一緒にいたいと駄々をこねて泣きたかったのだ。

 遠くで見守っていてほしいなんて、本当は嘘だ。いつも近くにいて欲しい。


 でも……。

 そんなことを言ったら、困らせてしまうだけだもの。

 五年後にまた会えるのですもの。永久の別れじゃないだけ、まし。

 

 ふと涙が出てきたのは、雪がまぶしいからである。

 涙を隠すようにして、足元ばかりを見て歩く。前を歩く仕え人の足跡をたどれば、迷うこともないのだ。

 そう――迷うことなど。

 巫女姫として使命を果たす。それだけを考えるようにすればいいのだ。

 愛し合っている……なんて考えてしまったから、会えなくなることが辛いのだ。

 別に特別な一人ではない。

 最高神官は、誰に対しても同じように優しいのだ。

 巫女姫としての愛は充分にいただいたのだから、巫女姫としての使命を果たせばいいのだ。

 特別だったのでは? などと思うから、悲しくなるのだ。


 そう思ったとたん、エリザは何かにぶつかってしまった。

 前を歩いていた仕え人が急に立ち止まったのに気が付かなかったのだ。

「サリサ・メル様?」

 仕え人の背中越しに響く声に、エリザは耳を疑った。

 ドキドキしながら、そっと顔を上げる。

 雪のせいか黒々と見える木製の門の前に、銀色の衣装に身を包んだ人影がある。雪の白さとあいまって、幻のごとくに見えるが、確かにサリサだった。

 最高神官は、この時間ならばまだ朝の祈りを行っているはずなのに。

 ここにいるはずはないのに。

 仕え人たちから不満が漏れる前に、サリサは口を開いた。

「今日の雪は深いゆえ、旅路の安全を祈らせてもらおうと、巫女姫の見送りに来ました」

 確かに、雪道で崖から滑り落ちた者が、かつていた。これだけ雪が降れば、サリサの言うことにも道理がある。


 今、サリサはエリザの目の前にいた。 

 見つめあう目線を断ち切るように、ふわりと雪が舞い降りた。

 再び、雪が降り出したのだ。誰もが、不安げに空を一瞬見上げる。

「大丈夫です。心配はありません」

 サリサの言葉に、エリザはなにやら不思議な感覚を憶える。

 彼は、冷たくなってしまったエリザの手をそっと握り締めた。かすかに保護の祈り言葉が唱えられ、雪が手の上で不思議な動きで舞い始めた。

 それは、雪道の安全を祈る優しい響き。

 やや、銀色の光が強くなる。

 目が潤むのは、その光と雪のまぶしさのせいだ。仕え人たちは、まぶしそうに目を伏せた。

 だが、エリザは目を見開いて、涙目になったままだった。


 ――心配しないで。

 ――私を信じていてください。


 エリザは驚いて最高神官の顔を見た。

 その瞬間、エリザとサリサの間には、何も遮るものはなくなっていた。

 これは、ムテ人の能力のひとつ――心話である。

 すでに失われている力のひとつで、日常的なことを伝えることは出来ても、複雑な感情を伝えることは出来ないとされている。

 それは、受け取り手の心に影響され、捻じ曲げられてしまうからなのだ。

 エリザは、サリサを愛している。

 だから、エリザには、サリサが送った言葉を間違って受け止めている可能性がある。

 妄想のごとく、自分で勝手に心話を捻じ曲げてしまうのだ。

 だから、間違っちゃいけない……。

 特別だなんて、愛されているなんて、思っちゃいけない。

 勝手に妄想して、人に迷惑をかけちゃいけない。

 都合よく解釈してはだめなのだ。


 ――これは、最高神官の思いやりなのだわ……。


 エリザは、必死にそう自分に言い聞かせた。

 しかし、手はずっと握られていた。

 かすかにサリサの唇が震えた。ほんの小さな声だった。


「あなたを愛しています」


 言ってはいけない言葉がある。

 聞き取りにくい小さな声を、能力の力で補って聞いてしまったのか、あたりにいた仕え人たちが、ざわざわと動揺する。

 その気を受けたのか、雪の破片がキラキラと空中で舞い、冷たい刃となってエリザの頬に痛みを残して消えた。

 エリザは「えっ……」と声を漏らしただけだった。

 でも、雪のために潤んでいた目からは、どんどん涙があふれてしまう。

 好きになってはいけない人を好きになった。

 二人の間には制度という大きな壁があり、その背後にはムテという種族の未来がある。

 その重さを知ればこそ――禁じられた恋だった。


 ――愛されているなんて思っちゃいけない。

 でも……。

 

 手を繋ぎあい、心を通わせている今、この瞬間に、勘違いなどあるだろうか?

 真直ぐに見つめる銀の瞳に、伝わる気に、妄想がはいる余地があるだろうか?


 ありえない。


 やがて、手はゆっくりと離された。

 そして、軽く振られて……。

「さようなら」

 最後に聞こえたのは、実に悲しい言葉だった。

 本当に音となって響いたのか、ただ、唇がそのように動いただけなのか、心話だったのか……エリザにはわからない。

 ただ、悲しかった。




 巫女姫の一行が見えなくなると、唱和の者がいぶかしげに最高神官に言葉をかけた。

「私は、何か聞き間違えたのでしょうか……?」

 サリサは、一瞬彼女を睨んだが、すぐに優しいいつもの顔に戻した。

「聞き間違えてはいません」

 ざわざわと揺れる仕え人の気の中を、サリサはゆっくりと歩いた。

 雪がちらちら舞う中を、最高神官の神々しい衣装が眩く輝いた。


 最高神官は、その務めを放棄はしない――

 ――だが、愛も放棄しない。


「私は、巫女姫を愛しています。そして、次の巫女姫も愛します。その次の人も愛します」

 ざわざわとしながらも、仕え人たちは顔を見合わせながら、最高神官の後に続く。

 雪が足元できゅっと鳴った。

 その音は、皆一様のようで、少しずつ異なる。そう、皆、異なるのだ。

「ムテのために血を残す巫女たちを、なぜ、物のごとく扱えましょうか? そして、あなたたちもです」

 サリサは振り向くと、仕え人たちを見回して微笑んだ。

「あなたたち一人一人も、私は愛しています」


 そう……。

 たった一人の女性すら愛せない男が、なぜ、民を愛せようか?

 人々のために祈ることが出来ようか?


 霊山の頂に光があたり、キラキラと輝く。

 澄み渡る青空に、白い雪が舞う。すでに雪雲は消えた。もうすぐ雪はやむだろう。

 見上げてサリサは思い返す。

 最高神官に望みを見出す小さなエリザはたくさんいる。

 ムテの村々に、そして、霊山に。この世界のいたるところに。

 その人たちのために、この山に戻ってきたことを。

 それを教えてくれた人を、誰よりも大切に思うこと。愛すること。

 それを不公平とは言わない。


 もしも、それが不公平ならば……。

 心というものは、元々不公平であることが望ましいのだ。




 ぞろぞろと下る雪道の途中、エリザは何度も振り向いた。

 しかし、霊山のすべては雪に埋もれ、すぐに何も見えなくなった。

 雪はしんしんと降り積もる。しかし、足元は守られていた。

 最高神官の結界である。

 それは、エリザのくじけそうな心も守っていた。

 よたよたと歩く祈り所の者たちは年ゆえに速度が上がらず、エリザは時々立ち止まった。

 巫女姫の迎えのために、彼らは夜を徹して山を登ってきたのだと聞く。山道の険しさ、弱った足腰を思うと、申し訳なく思えてくる。

『祈りの儀式』の時に、彼らのおぞましい姿に怯えた自分が恥ずかしかった。こんなに必死にムテのために尽くしている人々なのに。

 祈り所は暗いところでも、きっと一人なんかじゃない。

 私はきっと、一人なんかじゃない。

 昨夜、愚かな夢に凍えた手は、今はほのかに温かい。指先にぬくもりが残っている。

 雪の山を、乗り越えて、乗り越えて……エリザは前に進んでゆく。

 そして最後に、もう一度だけ振り返った。


 今度、この道を登るときは、巫女姫としてではない。

 一人の女として、あの人のもとに帰ろう。


 ――愛されていると信じて……。



 エリザが再び霊山に戻るのは、いくつかの冬を越えた春のことである。

 

 


=決断の時/終わり=


【銀のムテ人】第一幕了

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銀のムテ人 =第一幕・下= わたなべ りえ @riehime

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