決断の時・7
自由はくださらないのですか?
ならば、なぜ、愛しているから……と、言ってはくださらないのですか?
フィニエルの姿が、暗がりの中、泣き続けているエリザの姿に置き換わって、サリサは飛び起きた。
びっしりと汗をかいている。祈りの時間には、まだ早いが、もう寝ていることは出来なかった。
ここにきて、自分の選択に一抹の不安を感じる。
しばらくは別れになるが、故郷に帰してしまうような、永久の別れではない。
今回の選択で、誰に奪われることもなく、しかも霊山の調和を乱すこともなく、エリザを側に置き続けることが出来るだろう。
でも……何か大事なものを失いそうな、そんな不安を感じてしまう。
最高神官としての迷いが生じるとき、サリサはマサ・メルのことを思い出す。彼は、サリサの指標だった。
が……。
もしも、前最高神官と同じ過ちをしようとするならば……?
サリサは頭を振って、その考えを改めた。
「おじいさまに限って、間違ったことはない」
何を悩むのだろう。悩むのは、自分が弱いからである。
サリサは自分に言い聞かせた。
――これでいいのだ……と。
時間になると、いつものように仕え人がやってくる。
軽く胸に手を当てて一礼し、やはりいつものように衣装を合わせる。
やや汗で湿った寝衣は、いつもとは違っただろう。が、仕え人は全く気にする様子もなく、日常を繰り返す。
サリサは鏡の中に、神々しさを身に着けてゆく自分の姿を、ただ見ているだけだ。ただ、衣装を着せてもらって。
個々がないのは、最高神官とて一緒なのである。
祈りの祠に向かう道は、雪が積もっていた。
しかし、最高神官の結界に守られた道は安全である。雪で足を滑らせることはない。でも……。
サリサは、下をちらりと見て、現実を思い出した。
こっそりと助けてあげていた巫女姫の姿は、何処にもない。
いつもいつも、エリザはおよび腰で坂道を登っていたものだ。でも、もうサリサはエリザを手助けする必要もない。
彼女は、山を降りるのだから。
その現実が、サリサの胸にのしかかった。
サリサは心の中で唱えた。
五年だけだ。五年たてば、エリザは自分のものになる。
そして、また五年。そして五年。
子供さえ生まれなければ、彼女は永久に……私のものだ。
――それは……。
違う! 僕が考えた事じゃない!
サリサの足元の雪が、がさりと音を立て崩れた。
この道を、自分よりももっと長く歩いた最高神官の祈り……いや、呪いに囚われている。
その瞬間、目の前が暗くなり、ぐるりと回った。雪の冷たい感触がして、自分が手をついたことがわかった。
「サリサ様!」
祈りの仕え人の声が、後ろから追ってきた。
しかし、目の前は闇のままだった。
「サリサ様?」
再び呼ばれたとき、サリサは自分が雪の道の中にうずくまっていたことに気がついた。
かなりの時間、うずくっまっていたようだ。仕え人に起こされ支えられていたらしいが、全然自分の感触として意識できていなかった。
雪に覆われたまぶしいばかりの世界だ。
「……まぶしさで、目がくらんでしまっただけです」
サリサの心は揺れていた。
朝の祈りが始まった。
いつもと変わらない。変わらないはずなのに、違いすぎる。意識を集中しようとしても、集中できるものではない。
誰もが不安を抱き、自分の心を疑っている。お互いの心を疑っている。
そして、一番。
導く者であるべき、自分が。
集まるはずの光が形をなそうとしない……。
そして、闇の世界に引き戻され、一人立ちすくんでしまうのだ。
頭の中の闇は、いくら祈っても去ることがなかった。
『彼女は永遠に私のもの』
……違う。そう望んだのは僕じゃない。
あれは、僕じゃない。あれは……。
蛇のようにのたうちまわる己の感情に、サリサは悲鳴を上げていた。
そして、ついに結論を見出した。
「祈りはもうやめにします」
朝の祈りが終わらぬうちに、サリサは立ち上がった。
唱和の者たちがびくりと震えた。
ここしばらく、彼らは様々な感情に支配されており、集中できていない。ゆえに、最高神官からの注意を受けると思ったのだ。
昨日も一昨日も、気を乱し、最高神官の邪魔ばかりをしていた。
霊山始まって以来の異常事態が続いていて、誰もがどうとも出来ないでいたのである。
しかし、サリサは怒ることはなかった。
「今日は昼に祈ります。あなたたちも少し疲れているのです。少し休みなさい」
唖然としている唱和の者たちの間を縫って、サリサはその場を後にした。
自分自身が乱れていては、唱和の者たちだって気持ちをひとつに出来るはずがない。
こんな気持ちで祈りが届くはずがない。祈りは、形ではないのだ。
「……ですが、サリサ様……」
祠の入り口で控えていた最高神官の仕え人が、珍しく動揺している。
サリサは、そっと彼の腕に手をかけた。慌てて敬意を示そうとする彼に、サリサは少しだけ微笑んだ。
「安心しなさい。するべきことをするだけですから」
そう……。
このままならば誰よりも自分が納得できない。
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