決断の時・6
最高神官の決定は意外なものだった。
エリザの処遇についての発表は、確かに今までの巫女の処遇としては、一番一般的なものである。
『巫女姫としての使命をはたすべく、祈り所にて休養すべし』
最高神官の決定に、誰も異論は唱えない。しかし、疑問を持つものは多いだろう。
彼女だけを特別視しているのではないか? との疑念である。
――エリザにそれだけの価値があるだろうか?
答えは、言わなくても誰もが感じている。
最高神官の仕え人が直々に『最高神官の決定』を巫女姫の母屋まで伝えにきた。
フィニエルは、報告を受けて耳を疑った。
その横で、エリザに至っては何が起きたのか理解できていない。
最高神官の仕え人は、全く表情を変えない。
「それが最高神官の決定とは思えません。恐れ入りながら、言わせてもらいますが、エリザ様に対する愛情ゆえに、何か判断を誤られたとしか思えません」
フィニエルが、言っても仕方がないような苦情を申し立てる。
最高神官の仕え人は、やや軽蔑したような顔をフィニエルに向けた。
「巫女姫の。いくらあなたといえど、それは許しがたい発言です。最高神官サリサ・メル様に限って、そのような下らぬ感情に支配されることはございません。あの方の選択に間違いはありません」
それはないだろう……という反論を、フィニエルは飲み込んだ。
「確かにお伝えいたしました」
とだけ言い残し、最高神官の仕え人は、即座に巫女姫の部屋を出て行った。
残されたエリザとフィニエルは、しばらく言葉を交わさなかった。
「フィニエル……。私、故郷に帰らないってこと?」
やっとエリザの口から出た言葉は、なんとも間が抜けていた。
その後、わずかな荷物を整理なしがらも、二人は無口になっていた。
巫女姫に私物はない。着古した服とわずかな薬草を袋に詰めるくらいである。多くの衣装は処分され、次の巫女姫のために再び仕立て直されるのだ。
いやな空気を明るくしようとして口を開いたのは、エリザのほうだった。
「ねぇ、フィニエル。巫女姫は、お子を産むまでの任期ですから、この決定は当然ですよね?」
と、言いつつも、エリザは不安だった。
『祈りの儀式』で見知ったあの祈り所は、実に暗くてじめじめしたところである。さらに、あの気持ちの悪い老人たちがいる。
たった一晩だけでも憂鬱になった場所に、五年もいるなんて考えただけでもぞっとする。
でも、最高神官に巫女姫としての使命を果たすよう、命じられたのだ。それは、名誉なことである。名誉なことである……。
最高神官に限って、感情に支配されることはない。
――愛されているからではないんだわ……。
そのことが、エリザの心を暗くした。
自分が至らぬことはよく知っている。自分の力は信じる事ができない。
でも、もしも最高神官が「あなたを失いたくはないから」と言ってくれたら、サリサ・メルという一人の男性の愛を信じることは出来ただろうに。
しかし……。
いや、自分の能力が高く評価され、期待されていることは、ムテとして誇らしい事なのだ。
「私、巫女姫として期待されることを名誉に思います」
エリザは、覚悟を新たにして前を向いた。
が、その横で、フィニエルは押し黙ったままだった。
雪が降り続く。
明日、祈り所に向かって旅立つエリザのためだろうか?
雪道の寒さよりもその美しさを感じて欲しい……と、サリサは願う。
別れの辛さを、サリサは凍結させた。
五年たてば、エリザはまた戻ってくるのだ。その間を、ただやり過ごせばいい。
窓ガラスに映る鏡像は、少し冷酷で冷たい表情をしていて、指標である前最高神官の表情に似すぎている。
――この決断に、間違いはない。
鏡像の顔は、はっきりとそう呟いた。
その背後に、紙のように表情をなくした、やや蒼白な女の顔が映った。
フィニエルである。
鏡の自分と並んで見えるその姿に、サリサは不思議な概視感を持った。
「サリサ様。あまりにもわがままな選択とは思わないのですか?」
フィニエルの声が震えているのは、寒さのせいではないだろう。
振り向くこともなく、サリサは窓に映ったままの彼女に返事をした。
「無礼ですね。かりにも私は最高神官ですよ。私の選択に間違いなどあるはずもない」
フィニエルの眉がぴくっと動いたのを、サリサは見て取った。
「お考え直しください。エリザ様は、巫女姫として務まる方ではございません」
「それは、今がまだ若いからです。私にはわかります。五年後には充分に成長し、開花することが。それに……」
サリサは、少しだけ微笑んで見せた。
しかし、鏡に写るフィニエルの表情は色を失ったままだった。
「机の上にあるこの年の巫女姫候補の名簿を御覧なさい。『癒しの巫女』である者すら借り出さなければならない不毛の年です。エリザを手放すのは、ムテの大いなる損失です」
淡々と述べる言葉は、おそらく文句を言うだろう仕え人たち用に考え出した、サリサのいいわけだった。
運がよかったのだ。本当に、適任者のいない年周りに当たっている。くしゃくしゃにしてしまった名簿だが、ちゃんと役立った。
エリザを愛しているから手放したくない……などと言ったら、仕え人たちの気はさらに乱れ、エリザとサリサの間に反対を表明した者たちの不安を、ますます煽ってしまうだろう。
恋愛感情のみで能力不足の巫女姫を置いておけるほど、霊山にはゆとりはないのだ。
エリザの能力不足は、こっそり自分が補えばいい。今までと同じように。
そして、何回も何回も……子供が得られるまで、同じことを繰り返せば……永遠に近い時間、二人は一緒にいられるのだ。この制度の中で、誰も疑う事がないままに。
いっそ、子供なんて出来なければ……。
しかし、フィニエルは納得しなかった。
「エリザ様は……霊山では生きられぬお方です。サリサ様が一番実感なさっているではありませんか? 霊山に縛り付けておけば、あの方は知らぬ間にとんでもないことをなさいます。それで一番苦しんでいるのは、あの方ではありませんか? それなのに、まだ、あの方を苦しめるのですか?」
やや、彼女らしかぬ言いようだった。
言い聞かせるように、切々と訴えてくる。
「だいたい、あなたには、祈り所という場所がどのようなところかはおわかりにならない。あなたの長い百年を見れば、五年は一瞬でございましょう。しかし、エリザ様の二十年に、五年は重い年月です。あの方の精神力が、到底耐えられる場所ではございません!」
薄暗い祈り所は、確かにいやな場所である。サリサも『祈りの儀式』で泊まるあの場所は好きになれない。だが……。
「何を……そんな個人的な感情を振り回しているのです? あなたらしくもない。巫女姫の」
やや苛立って、サリサはフィニエルの名を呼ばなかった。
考え抜いて悩み抜いて、そして出した結論である。痛いところには、すべて目をつぶったサリサだ。
一緒に逃げる事が出来ないのなら、自分たちをがんじがらめにしている制度を利用する……それしかないだろう。
今更、何も言われたくはない。
しかし、今日のフィニエルはしつこい。
「あの方の幸せは、霊山にはありません。故郷にあるのです。あの方の幸せを、あなたはお望みにならないのですか?」
冷静を装っていたはずのサリサだったが、あまりに感情的なフィニエルの言葉に、ついに振り向き、声を荒げた。
「ムテのために身を尽くすべきところ、個人の幸せを言っている場合ですか!」
自分でも卑怯極まりないと思う言葉だった。
振り向いたとたん、サリサは一瞬凍りついたような寒さを実感した。
強い風が、たまたま窓を揺らせ、冷たい空気を部屋にまで吹き込ませ、サリサの髪を揺らしたから……ではない。
フィニエルとは、子供時代からの長い付き合いである。
だが、彼女はすでに、巫女姫であったり、仕え人であったりで、霊山の考えから外れたことはなかった。
ただの一度も、一人の女性であったことはない。だから、サリサは、フィニエルが泣いているのをはじめて見たのだ。
見つめあったのは一瞬だったが、まるで時空がよじれたかのようにゆっくりと感じられた。断ち切ったのは、フィニエルのか細い声だった。
「……自由はくださらないのですか……?」
フィニエルの声は冷たいままだった。
表情は紙のまま、張り付いたような頬に、ただ一筋、二筋と涙だけが伝わっている。
「ならば、なぜ、愛しているから……と、言ってはくださらないのですか?」
サリサの驚いた表情に、フィニエルは自分の頬に手を当てた。そして、はじめて自分の流したものに気が付いたようだった。
「お目汚しを……サリサ様」
そう言うと、フィニエルは胸に手を当てた。最高神官に敬意を示す仕草である。
そして、今までの態度を嘘のように鎮めて、そのまま退席してしまった。
後に残されたサリサは、何ともいえぬ気持ちになって、再び窓の外に目を……いや、窓に映った自分を見た。
その顔は、とある人に似ている。
明らかに動揺している顔が写る。
だが、彼はこのように動揺を見せたことはあるのだろうか?
フィニエルは、その言葉を彼には伝えたことがなかったのだろうか?
サリサは、割れそうになるほど激しく窓を叩いた。
「……どうして! どういうこと!」
思わず呟いたが、自分でもまだ頭の中が整理できないでいた。
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