決断の時・5
マール・ヴェールの祠で、サリサとエリザは会った。
おそらく、個人的に話ができる最後の機会だろう。しかも、ここでは他の仕え人が来ないので、完全に二人だけの話ができる。
やや寒いが、まだ雪は深くはない。天気もよい。旅立つには素晴らしい条件だ。
サリサは、自分の計画をフィニエルにも打ち明けなかった。
もし言えば、間違いなく彼女は反対する。
フィニエルさえも含めて霊山の仕え人たちに暗示をかけるのは、かなり力を使うことだ。霊山を下るときは、余計な結界ははれないだろう。
だから、こっそりこのまま逃げるのだ。この足で。
サリサは、ほぼ徹夜で旅支度をしていた。
リューまでの距離はかなりある。それなりの準備をして、この祠に隠しておいた。
旅に必要な金も、口糧も、そして、普段着も、小さくまとめて岩影に隠してある。リュシュに無理を言って、お菓子も少し多めに作ってもらった。
あとは……エリザに打ち明けるだけである。
今日のエリザは、少し奇妙なくらいに明るかった。
はしゃいでいるといってもいいくらいで、おそらく落ち込んでいるだろうと思っていたサリサの予想は外れた。
サリサに口を開かせないくらいに、楽しい話を続けては、笑顔を絶やさない。なかなか、大事な話をするきっかけがつかめなかった。
「……って、いろいろ考えると、霊山の生活も懐かしく思い出されるのです」
広がるムテの村々を見つめながら、エリザの声が明るく響いた。
奇妙なくらいだった。
「……それは……よかったですね」
サリサは少し苦々しく言った。
この場所でエリザが泣いたことを思い出したのだ。
彼女は、故郷に帰りたがっている――
故郷を恋しがって泣いたエリザが、ムテの者ならば行きたくもない混血魔族が住む無法の地に行くことを、納得するだろうか?
かつて、自分がこの地を離れて旅したときのことを思い出した。
マサ・メルの命令は絶対であるはずなのに、何とか逃れようとしたものだ。それだけ、別の国が怖かった。
ムテ人であれば、当然の恐怖だ。
それでも、エリザは故郷を捨て、ムテを捨ててくれるだろうか?
――それだけ、愛してくれているだろうか?
不安が、サリサの口を重くした。
「私、サリサ様のことを忘れません。辛いこともあったですけれど、サリサ様と会えて、本当に幸せだったです」
エリザの言葉に悲壮な響きはない。
「私も……」
言いかけて、サリサは口をつぐんだ。
かなり憂鬱なサリサの目の前で、マール・ヴェールの冷たい風を浴びながら、エリザはくるりと踊るように回って見せた。
背後には、最高神官が守るべきムテの村々が広がっていた。
「私の村って、癒しの技ができる者も、薬草の知識がある者もいないんです。皆、私の帰りを、きっと楽しみにしてくれると思います」
エリザとしては、サリサに気を遣ったつもりだった。
ずっと無口な最高神官を、エリザは自分への心配のためだと勘違いしていた。このような中途半端で、巫女姫を降ろしてしまうことへの、申し訳ない気持ちからだと。
だから、精一杯明るく振舞い、心配はないです……と言いたかった。
それでも、サリサはいつもの微笑みを返す事がない。
――最後の日だから、微笑んで別れたいのに。
その思いが、ますますエリザに虚勢を張らせてしまった。
たぶん、霊山に来てからこれほどはしゃいだことはなかっただろう。
「私、郷に帰れる日を、とても楽しみにしていたんです」
その言葉を聞いて、サリサの中で何かが切れてしまった。
彼は、はじめて乾いた微笑を見せ、空を仰いだ。
「それを聞いて安心しました」
エリザがますますうれしそうに微笑むのがわかり、サリサはさらに気持ちを暗くした。
ムテは表面に現れる感情を読むことに長けた種族だが、恋愛感情のような複雑な思いは、最高神官といえど読み取ることができない。特に、自分の感情が絡む場合には……。
むしろ、言葉に頼ることを忘れがちなため、余計に不器用になってしまうのであろう。
サリサは最後の望みをかけて、エリザをそっと後ろから抱いて耳元で囁いた。
「私は……あなたが落ち込んでいるのではないか? と、心配していました。もしも、あなたが望むならば……一緒に山を降りてもいいくらいに……」
ぴくりとエリザが震えたので、サリサの希望は繋がった。が、それは一瞬だった。
エリザは、するりとサリサの腕の中から身を外すかわりに、そっと彼の手を握り締めた。そして、大きな瞳で真直ぐにサリサを見つめて、はっきりと言った。
「うれしいです。最高神官であるサリサ様に、そこまで心配してもらえるなんて……」
決定的な一言となった。
お互いに愛し合っていると信じていた。
だが、サリサの中には、どうしても気になることがあった。
エリザの愛が純真なだけに、本当の自分を見せてしまったら、愛されないのではないか? という不安。
彼女は、最高神官という完璧な存在を愛しているのでは? という疑念だった。
――エリザがサリサを愛する理由。
それは、サリサが誰よりも尊い最高神官であるから。
「私……たとえ山を降りても、サリサ様が最高神官としていつまでも健やかなことを祈りますわ」
サリサの気持ちを全く理解していないエリザは、それが駄目押しだとは気がつかない。大きな瞳を潤ませて、いつの間にか饒舌になっていた。
「それに私、サリサ様のこと、大好きでした。……心から、尊敬しています。だから……」
エリザは、思い出を所望した。
それが、サリサにとってどれほど残酷な言葉なのか、彼女はちっとも気がつかないのだ。
「将来、私に子供ができたとしたら、サリサ様のお名前をいただいてもよろしいでしょうか?」
「駄目です」
サリサは、厳しい顔をして即座に答えた。
エリザは驚いてしまい、目を白黒させてしまった。まさか、断られるとは思っていなかったのだ。
必死にがんばって陽気にふるまおうとしていたことが、ガラガラと崩れて、あと一歩で倒れてしまいそうだった。
おどおどし始めたエリザに、サリサはくすくす笑い出した。
「だって、ほら……あなたの子供の名前は『ジュエル』にするのではなかったのですか?」
「あ、そうでしたわ」
ほっとした表情を見せて、エリザも微笑んだ。
やっと、いつもの二人に戻れたような気がした。
二人はニコニコしながら、その後、楽しく雑談しながら過ごしたのである。
そしてその日が最後のはずなのに、まるでいつもの別れのごとく、また……と言って別れたのだった。
しかし、その夜。
マール・ヴェールの祠に、ほのかに光があった。
サリサが、旅支度を燃やす炎である。
木綿の旅着、荷を入れる袋、乾パンなどの口糧。そして、エリザに用意したマント。
次から次へと火にくべる。
炎はそれらすべてを飲み込んで、大きくなった。
サリサは、真っ赤に燃える火に照らされ、ぴくりとも動かなかった。
炎の中に、様々な予知夢が踊っている。
エリザが山を降りてからのこと。
幸せそうな微笑を浮かべ、薬草の収集や精製に勤しんでいる。村人たちは誰もが彼女を大事にし……そして幾人かは求婚するだろう。
エリザは、彼らから誰かを選び、その誰かの胸で眠るのだ。
その誰かは、抱き合い、満ち足りた後、「私のもの」と呟いて、あの白い乳房に印を残すのだ。
自分が知っている唇や、美しい首筋に、誰かの手が触れる瞬間、サリサは小さなうめき声を上げた。
エリザは、自分だけのものでなければならない。
誰にも渡さない。
――将来、私に子供ができたら……。
「それは……あなたが名づけた僕とあなたの子供でなければ……」
絶対に許さない。
サリサは、燃え盛る炎に向かって呟いた。
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