何を見据えておられるのか、アストロナータ神よ


 それはいつも神殿にあった

 だから、私はずっとそこに居たいとさえ念じた

 だが、神は

 わずかに首を傾げたような格好で

 なぜか、正面に立って見上げる我々の方ではなく

 はるかな地平の向こうを眺めて

 もはや

 人の興亡には目を下してはくださらない

 私は神の視線を追って歩いた

 その視線はいつも、壁にぶつかって途切れた

 そして

 見開かれた目は乾いて

 この世のなにものをも映してはいなかった


 では、あんなにじっと

 何を見据えておられるのか

 アストロナータ神よ

 私はあなたに惹かれた

 そして神殿を見れば中に入って

 あなたに会った

 でも、そこにはもう

 我々を救ってくださる神の心は

 かけらさえなくなっているのだった

 こんなに荒れ狂う時代の中で

 静謐な神殿の奥に立ち

 目蓋まぶたを閉じることもないまま

 我らを救うこともないまま



    

    夏侯 天予カコウ テンヨ 「棄教」





 カイエン達は、しばしの間、唖然として声も出なかった。

 カイエンの目の前で、洒落た今のハウヤ帝国流行りの型の、涼しげな色の上着とズボンを身につけた男が、人の身長の半分ほどの距離を置いて床に崩れ落ちている。

 もっとも、床には深紅の分厚い絨毯が敷かれていたので、いきなり膝から崩れ落ちても大した音もしなかったし、痛そうでもなかった。

 まあ、彼としては危険を冒してアストロナータ神殿に頻繁に詣で、神官に身元を勘付かせるという危険を冒してまで、カイエン達の側と接触しようとしたのだ。つまりは、外交官として忠誠を捧げているはずの故国の利益よりも、おのれの信仰を選んだということだ。

 今夜のことが、上司の朱 路陽にバレれば、命の保証はなくなるのだから、こんな態度も不思議ではなかった。

 カイエンは唖然としながらも、夏侯 天予の履いている靴の裏側を見て、

(あーあ。なんだか前会った時よりも背が高くなったかと思ったら、こんなすっごい高い踵の靴履いて来たのか。ご苦労さんだな)

 などと思う余裕もまた、あった。

 貴族たちの中には、女性だけではなく、低い身長を気にする男性も踵の高い靴を履く者がおり、それ専用の靴屋まであることはカイエンでなくとも貴族界の常識だ。女性の体の形を補正するコルセットや、ドレスのスカートを膨らませるフープなどと共に、貴族たちは「見てくれ」を美しく保つことに腐心してやまない。

 こんなことも、あの賢者の群れグルポ・サビオスの連中などには「けしからん浪費」だっただろう。自分たちも同じようなことやこの賭博場のような場所に出入りしていたにも関わらず。

「ああ、なんと言うことか。こんなにも近くに星教皇猊下がおられることにも気付きもせず、つい先年までは敵対する心さえ持っておりましたとは! おお、アストロナータ神よお許しください。私はあなたのご子孫、そしてあなたと同じお姿を映してお生れになった方に不遜な態度さえ取ってしまいました!」

 敵対する心に、不遜な態度。

 カイエンはちょっと思い出す顔になった。

 それは、まだ先帝サウルが生きていた頃、皇宮の謁見の間に螺旋帝国大使の朱 路陽と共に呼び出された日のことを言っているのか。はたまた、あのトリスタンがザイオンの外交官官邸で催した、不埒な仮面舞踏会で挨拶に来た時のことなのか、と。

「そんなことはもういい」

 カイエンは夏侯 天予のちょっと演技が入りすぎた役者のような物言いに辟易しつつ、男装のセレステに目で指示して、床に這いつくばっている夏侯 天予を、とりあえず彼女達の向かい側、先ほどまでジグフリード・メンドーサが座っていたソファに座らせた。

 セレステはまるで子猫でもつまみ上げるように、床から夏侯 天予を引きずり上げると、そのまままさに男そのものの膂力でもって、向こう側のソファに半分、放り投げたのだ。

「痛い!」

 どう見ても優男で武道の心得などありそうもない夏侯 天予は、艶々の革のソファに背中からめり込んだように見えた。

 カイエンがそっとセレステの無表情な顔を見上げると、セレステはうなずいてみせた。演技ではない、と言っているのだ。

 セレステにかかれば、相手の心音の速さ、呼吸のしかたからも、演技か否かは判断できるのだろう。

 大公宮へ初めて来た時には、ナシオと殺し合い寸前になった女だが、あの一件以来、ナシオと同様に影として大公宮での仕事を完璧にこなしている。

 カイエンの護衛としても、元からの護衛騎士のシーヴの後ろを守るような感じで、そつなくこなしていた。

「以前は敵対、と言ったか。では、今はもうあの桔梗星団派とは行動を共にしていないと言うことか?」

 カイエンがまず、夏侯 天予の言葉の中身から確認を入れると、夏侯 天予はふるふると弛緩した顔で何度もうなずいた。

 先ほど、床に崩れ落ちた時からそうだったが、彼は真夏という季節もあったが、滝のような汗を額から流していた。血走った目を見開いている様子は、狂乱、という言葉でしか形容できない異様さだった。

 これが演技だったら、影使いのセレステさえ騙す危険さだ。ここから生かして大使公邸へ戻すわけにはいかなくなるかもしれない。カイエンは冷やっとした。

「当たり前でございます! それですから、猊下のことを知ると同時に、密かに、ええ、本当に気を付けてアストロナータ大神殿へ詣で、おのれの不心得を懺悔したのです! あの老獪な元後宮太監の朱 路陽にばれたら大変ですから!」

 夏侯 天予の声はかなり大きく、興奮したものだったので、カイエンたちは周りに聞こえないかと心配になった。だが、先ほど、ジグフリードが言っていたような用途で使われている部屋だから、大丈夫だろうとすぐに思い直した。

 実際に、上下左右からも、廊下からも、ことりとも音は聞こえてこない。壁が恐ろしく分厚いか、何か特殊な素材を使っているのだろう。

 夏侯 天予はカイエンが先を促すまでもなく、興奮し、唾を飛ばしながら話し続ける。

「私は、子供の頃から天来神への信仰があるのです。あの、頼 國仁先生も、母の周 暁敏シュウ ギョウビンも、皆、学問とともに天来神への信仰という共通点もあって、集まったのですから! いつぞや、こちらのお国の先帝陛下に謁見を賜った折には朱 路陽が共にあったためもあって申しませんでしたが、私たちは皆、螺旋帝国の天来信教、それも桔梗星団派の熱烈なる信徒なのです!」

 この言葉には、カイエンも教授も唸った。アルウィンの桔梗星団派は信仰などとは関係皆無の暴力組織だが、ここに螺旋帝国の正当な桔梗星団派が現れたのだ。

 彼らはもうすでに、このハーマポスタールで自死した頼 國仁が残した、「失われた水平線」の初版本の間に挟まれていた、桔梗星紋の翡翠のペンダントを見ている。

 宰相の最高諮問機関の会議では、大神官のロドリゴ・エデンから、この夏侯 天予も同じ材質と形の物を所持しているとも聞いていた。

「……なるほど。子供の頃からの熱心な信徒とあれば、大神殿の奥殿での告解も、聖典の解釈の集まりに積極的に参加されたのもうなずけますね。では、大神殿で目立った行動を取り、告解までして悪目立ちして見せたのは、こうして我々に気付いて欲しかったからだと言うのですね?」

 サヴォナローラの言葉は、もう夏侯 天予の話の先を行っている。

「は……い。このままでは、私は信仰と螺旋帝国の官吏としての責務の間で板挟み。この苦しみから逃れるのには、猊下におすがりするしか道が見えなかったのでございます!」

 そう言い切った夏侯 天予の顔は、それまでの彼を少しでも知っていた者には、「狂ったか」と思えるくらいの様子だった。彼は、泣かんばかりのすがりつく目でカイエンだけを見て、そこまで話したのである。

「……分かりました。あなたの処遇については、後でこの私が行う宗教問答に信徒として正しく答えられたらに致しましょう。私は今夜、そのために来ておりますのですから」

 いつもと同じ冷たい顔をサヴォナローラは崩さない。これはこれで、さすがは神官にして宰相、の面目躍如と言ったところだ。

「殿下、その、私がここへ同行致しました件も大切ではありますが、まずはあの、ずっと謎でした佩玉はいぎょくの件を片付けてしまったらいかがでしょう?」

 サヴォナローラはここで、別の懸案の方を先に解決することにしたようだった。

 カイエンの両脇のマテオ・ソーサも、サヴォナローラもそれまで黙って、夏侯 天予の奇天烈な行動を観察していたようだが、年齢の分、教授の方が気が長かったようだ。

 カイエンがそっと隣の教授の顔を見ると、教授は「ここはサヴォナローラに任せよう」という顔だった。彼も、もう今までの夏侯 天予の話だけでかなり驚いているようで、もう黙って、あらかじめ手帳に夏侯 天予から聞き出すべき内容を、螺旋文字で要点だけを書いてきたのに目を落としている。

「ああ、あれか」

 カイエンは数年前のあの、陰惨で残酷で、ややこしい事件を思い出した。確かに、あの事件の最後の謎をここで解明しておく必要があった。

 螺旋帝国「冬王朝」最後の皇子、天磊テンライが、現在の皇帝、馮 革偉ヒョウ カクイの思い人だったという母親の貞辰テイシンから授けられ、そのままこのハウヤ帝国まで持って来た、元は馮 革偉のものだったという佩玉。

 どうしてだか知らないが、天磊が街中で紛失したとかで、あの恐怖の連続男娼殺人事件を引き起こし、最終的には教授の同郷の幼馴染だった、クーロ・オルデガ……恐らくは天磊の最後の犠牲者の部屋の暖炉の煙突から見つかったものだ。

 それを発見したのは、ここにいる教授と、今は最強の治安維持部隊隊員である、トリニである。

(我はこの玉環をく者にこの世の権力と栄華を与えん。だが引き換えに其の者は己の半身の愛と信頼を失うであろう)

 そう側面に彫り込まれた、青紫色の硬玉、翡翠の佩玉だ。

「おい、まずはそこに置いてある茶でも飲んで落ち着け」

 カイエンは興奮気味に、大汗を流して恐慌状態といった風の夏侯 天予にやや大きな声で声をかけた。

 先ほど、恐らくはジグフリードの母親が置いていった、香茶と茶受けは、カイエン達の座った向こう側へも用意されていたのだ。

「は……はあ」

 星教皇猊下から言われたからでもないだろうが、夏侯 天予は素直に香茶のカップから一口飲み、それが螺旋帝国風の半分発酵させた茶であることに気が付いたようだ。

 彼は一気に残りの香茶を飲み干してしまった。

「これは……なかなかに香り高く、素晴らしい香茶でございますね」

 故国の香茶は外交官官邸でも喫しているだろうが、ハウヤ帝国産は初めてらしい。全く別の考えが頭に宿ったせいか、やっと夏侯 天予の顔つきから、先ほどの狂乱し、テンパった様子がなくなった。

「やっと落ち着いたか。そうそう、初めにこれだけは言っておきたいな。……私が星教皇であることは、お前にとっては重要かも知らんが、私にとっては迷惑千万な話だ。まあ、上手いこと利用はさせてもらっているがな。……私のことは二度と猊下などと呼ぶな。大公『殿下』にしとけ」

 カイエンはそれまで被っていた、いかにも貴族のお小姓の少年風のレースの縁取りの帽子を脱ぐと、その下の黒く染めた髪をくしゃっと掻き回した。普段、きれいに結い上げている時にはこんなことはしないが、今日は後ろでくくって、リボンを結んでいるだけだし、帰りはまた帽子を被るのだから、と思ったのだ。

「は? ええっ。あの、いいえ、猊下は、猊下でいらっしゃいます!」

 だが、夏侯 天予の返答は、カイエンを激しく苛立たせるものだった。

 あのシイナドラドでの屈辱的な虜囚生活、無理やりの星教皇への即位の思い出は、彼女の中で今も燻り続ける最悪の思い出なのだ。今、このハーマポスタールでエルネストがおとなしく彼女に従っているといっても、消えるものではない。

 カイエンの両脇で、教授とサヴォナローラがため息をつき、カイエンは乱れた前髪を振りやって、テーブルの方へがばっと乗り出した。

「まずはそこからか! 頑固だな。……うるせえ! 今度『猊下』なんて呼びやがったら、ぶん殴るぞ! これでも至近距離からの殴り方はちゃんと教わってる! お前なら避けやしないだろうしなあ」

 忍耐の切れたカイエンが凄むのと同時に、すっとセレステが動いた。

 彼女が夏侯 天予の背後に立ったと思ったら、もう彼の首筋に細くて弓月のように曲がった鋭いナイフが押し当てられていた。

「殿下は、好き好んで星教皇になられたのではありません。その辺りの事情も全然知らないとは言わせませんよ。……それにしても、あなたはあなたの言う、星教皇猊下のご命令が守れないのですか」

 ナイフの冷たい感触と一緒に、目の前のサヴォナローラの凍りついたような真っ青な目で見つめられ、やっと夏侯 天予も現実的になったようだ。

「は……い。わか、り、まし、た」

 がっちゃん、と香茶のカップが皿に落ちたが、最高級の窯元の茶碗はその衝撃に耐えた。

「……いいでしょう。では、夏侯 天予殿。あなたと朱 路陽が、先帝サウル陛下から佩玉を返還され、その後、あなたがこのハウヤ帝国を出国したことは確認しています。あなたはその時、本当にあの佩玉を持って、あなたの故郷、螺旋帝国へ帰ったのですか?」

 カイエンは思い出していた。

 先帝サウルの前で、夏侯 天予は本当に螺旋帝国へ半年余りの時間で往復し、あの佩玉を届けたのだろうか、とサヴォナローラなどと話したのは、まだ、彼女がシイナドラド へ行く前のことだった。

 あの時には、まさか自分がアストロナータ信教の象徴である星教皇にならされるなどとは、想像も何もしていなかった頃だ。

 夏侯 天予はまさか、話がそこから始まるとは思ってもいなかったらしい。それだけに彼は考える手間もかけずに、すぐにすらすらと話し始めた。

「はあ。……ええ、あの佩玉は……あれは特別なものでしたから。ええ、私がラ・ウニオンの内海を船で渡り、ラ・ウニオン共和国とネグリア大陸、その東側の国々へ繋がる大運河……というか、陸の隙間を小舟で通り抜け、東方諸国を皇帝陛下の勅許をもって駆け抜け、陛下の元まで届け……ました」

 カイエン達は、顔を見合わせた。まあ、あれほどの手間をかけて取り戻した佩玉だ。それも頼 國仁先生や朱 路陽の話を総合し、元は馮 革偉の持ち物だったことも考え合わせると、螺旋帝国へ戻されたという返答はまあ、納得のいくものではあった。

「君が直に、その、馮 革偉陛下にお渡ししたのかね?」

 教授が螺旋帝国では、皇帝の名前呼びなどしないだろうな、と思いながらもそう聞くと、夏侯 天予はしっかりとうなずいた。

「もちろんです。私はハウヤ帝国の外交官副官でございますから、いわば、故国では上級官吏の一人でございます。帝都の宮城の太極殿にて、直に皇帝陛下にお返し致しました」

「そうですか。……あの佩玉は、天磊皇子が革命の炎に燃える宮城を逃げ出す時、母君が手渡したと聞いております。それを、馮 革偉陛下が取り戻したがったのはなぜですか?」

 サヴォナローラがおっ被せるようにそう訊くと、夏侯 天予は、なぜかぽかんとした顔になった。

「それは。……私ごときが、皇帝陛下の代わりに申し上げるのは不遜ではございますが、あれは、あの佩玉の側面の文言は、陛下の起こされた易姓革命、いいえ、今までになかった民衆による革命の結果、まさしく陛下が受け取った未来であったからでございます。陛下があの佩玉をどこでどうして手にされたかは存じませんが、あれにあった言葉は陛下にとっては未来を予見する文言であったのです」

 そこまで話すと、夏侯 天予は、しばらく黙って、この先の話をどう話すか考えているようだった。

「星辰皇女、天磊皇子のお母上と皇帝陛下は、元は義姉弟であられました。悪名高き『女狩り』で、貞辰様を奪われし今の皇帝陛下は、その折にあの佩玉を貞辰様にお渡しになったそうです。しかしそれは、いつか必ず助けに行くという約束をこめたからだったそうにございます。それが叶わなかったとあれば、あれは自分の元へ戻ってくるべきだ、いや、戻ってくるはず、とおっしゃっておられました」

 戻ってくるはず。

 カイエンもサヴォナローラも、そしてマテオ・ソーサも、あの佩玉にこめられた、馮 革偉の気持ちはなんとなく理解していたが、それでも引っかかる部分があった。

 それは、あの佩玉の側面の文言。

(我はこの玉環をく者にこの世の権力と栄華を与えん。だが引き換えに其の者は己の半身の愛と信頼を失うであろう)

 それと共に、思い出されたのは、あの革命の標語エスロガンだったという、連続男娼殺人事件の現場に残された血文字の「賎民は意味もなく責め立てられるべきではない」という言葉だった。

 このハウヤ帝国では、サウル、ミルドラ、アルウィンの父親であるカイエンの祖父、レアンドロ帝の時代に、それまでハウヤ帝国のあちこちで、なんとか生き延びていた、ラ・カイザ王国の末裔達の虐殺が行われたのだ。

 実は、カイエンの護衛騎士のシーヴが父母を失った遠因には、このレアンドロ帝の政策があるのだ。

 レアンドロ皇帝は、父祖サルヴァドール大帝が滅ぼしたラ・カイザ王国の末裔を「賎民」として他の国民から区別した。その上で、彼らを一箇所に集め、一般市民の目に見えない場所で虐殺したといわれている。

 これはレアンドロ帝が即位したての若い日に行った出来事だそうで、カイエンはミルドラから聞いて知った。サウル、ミルドラ、アルウィンの三兄弟が生まれるか生まれないかという頃のことで、事実を克明に覚えている者はもとより貴族階級、官吏などだけだったし、それも今ではほぼ死に絶えている。

 つまり、少なくとも、このハウヤ帝国のアンティグア語では、「賎民」とは人ではない、下級な存在、という意味を持つ言葉だ。

 カイエンは、ここはずばりと聞きただすことにした。

「……つまり、馮 革偉は、元は『賎民』として虐げらえれていた階層の出だったのか?」

 カイエンの言葉は、夏侯 天予に雷が落ちたような衝撃を与えた。

「えっ! そ、それは……」

 明らかに、夏侯 天予は、カイエンの問いに対する答えを知っていた。なるほど、母親の周 暁敏が馮 革偉の「師匠筋」と言うからには、家族ぐるみの深い付き合いがあったのだろう。

 そこには、あの頼 國仁先生も絡んでいるはずだ。

「確か、朱 路陽に聞いたことがある。貞辰の父と、弟の馮 革偉の母が再婚同士で一緒になったと。貞辰の名前は趙 貞辰といったと聞いた。……最初は疑問にも思っていなかったのだが、私やここの先生、この宰相殿は螺旋文字の意味がわかる。……馮、という姓はともかく、革偉という名前はあまりにも出来過ぎなんじゃないか、と前に話題になってな。だってそうだろう? 革命の革に、偉人の偉だぞ。……改名でもしたのか? 確かお前は、お前の母が馮 革偉の師匠筋に当たる、女冒険家で女流詩人だと言っていたな? その関係で知っているのではないのか」

 カイエンにここまで突っ込まれると、夏侯 天予はぐずぐずになってしまった。

「そこまで、ご推測でしたか。……おっしゃる通り、馮 革偉、という御名前は、本名ではございません。母が言うには、母の開いていた塾に入った時からの、その、母は女流詩人で詩の雑誌なども出しておりました。その雑誌に寄稿した時の『筆名』が馮 革偉、だったのだと」

「筆名……?」

 なんだか気の抜けた声を出したのは、サヴォナローラだった。

「はい。……貞辰様のお父様は趙氏でしたが、その、今の馮 革偉陛下のお母様には姓が……なかったのです」

 この、夏侯 天予の言葉は、螺旋文字を操り、彼の国の歴史や文化の書物も読んでいる彼らには、たった一つの「事実」として聞こえた。

 ああ。

 カイエンは、馮 革偉とアルウィンが手を組んだ理由、アルウィンが馮 革偉を選んだ理由が、わかるような気がした。

 馮 革偉の母親には姓がなかった。

 それはつまり、「人間扱いされていない階層の出だった」と言うことだ。

 このハウヤ帝国では姓のない人間はほとんどいない。よしんば父の分からない子だとしても、母親の姓を名乗る。

 その、「賎民」は意味もなく虐げられることはない、という言葉を掲げて起こされた革命。

 では、革命以後、螺旋帝国では身分階級の逆転するような状況が起きている、いや、起きたのかもしれない。

 ハウヤ帝国からは螺旋帝国に外交官を送っている。だが、彼からそのような報告はない。つまり、螺旋帝国は外部へそういう情報が「漏れ出る」ことを皇帝の強権をもって禁じているのだろう。

 これは、カイエン達が考えていた以上の「変革」がかの地であったこと、今も進行中であることを示していた。

「なるほど。さすがに星教皇様の前では嘘はつけないようですね。まあ、その信心の程は後でこの私がしかと確かめさせていただきます」

 ちょっと口がきけなくなっていた、カイエンと教授と違い、サヴォナローラは落ち着いていた。なるほど、彼も意味は違えど、名前も姓も失っているのだ。出家して、アストロナータ神官になった時に。

 ガラの兄であるフェリシモはいなくなり、サヴォナローラという神官が生まれたのだから。

「佩玉の件は、今のお話で、一応の納得が出来ました。……では、今回、あなたが熱心すぎるアストロナータ信教の信者として、我々に接触しようとした方の話に戻りましょうか」

 サヴォナローラはそう言うと、ぐいっと体を伸ばして、今や頭を抱えて唸っている夏侯 天予の方へ乗り出した。カイエンも教授も、このあたりのサヴォナローラの迫力には圧倒されるしかない。

 だが、カイエンはそっと懐中時計を出して見て、焦りを感じた。時はもう、真夜中になろうとしていた。今日、サヴォナローラを連れてきた理由に入る前に、彼女にはもう一つ、聞いておきたいことがあったのだ。

「もう一つ聞く。お前はあのチェマリ、馮 革偉と連んで世界をどうこうしようとしている、あの元ハーマポスタール大公、今はこの国の大逆罪の罪人、皇統譜からも名を永遠に削り取られた男と、会ったことがあるか?」

 カイエンがそう訊くと、夏侯 天予はあっさりと、こっちは話すのに抵抗などない、と言う態度で答えてのけた。

「はあ。故国を出る前に、ええ、もう六、七年、いや八年くらいになりますか。帰国なさった頼 國仁先生が、母のところへ連れていらっしゃいましたので、お会いしております。今の皇帝陛下、当時は市井の、貧しいながらも故国の政情を憂い、勉学に励む一青年でしたが……も、その折に、あの方に会われ、意気投合なさったのですから」

 この事実は、もうカイエン達には、ほぼ確定事項として想像されていたことではあったが、こうして当事者からあっけないほど簡単に言われると、反応のしようがなかった。

「なるほど。一回、動き始めると、色々な謎がぱたぱたと大当たりのカルタみたいに納まっていきますな。……ここが賭博場なのも運命なのかもしれませんぞ」

 それまでは、彼にも似合わず黙って聞いていたマテオ・ソーサがそう言うのを聞くまでもなく、カイエンは実感していた。

 これで、この夏侯 天予を朱 路陽にバレずにこっちの手の者として利用できれば、桔梗星団派に一歩先んじることができるかもしれないと。

 つまりは、カイエンが十五の時に、佯死を装い、頼 國仁先生に連れられて、螺旋帝国へ逃げていったアルウィンとアルベルト・グスマンは、螺旋帝国の易姓革命に最初から関わっていたと言うことだ。

「素晴らしい! あっけないほどに話が進みましたね。では、殿下、この方の今までのお話が誠かどうか、これよりこちら側の人間として取り扱えるのかどうか、この方の『信仰』が真実なのか否か、腕によりをかけて、確かめさせていただきます!」

 ちょっとぐったりして、同時にもう冷えた香茶をずるずると飲み干していた、カイエンと教授は、この意気揚々としたサヴォナローラの言葉に、ただ、木彫りの首振り人形の犬のようにぱこぱことうなずくしかなかった。






「では、次の質問です」   

 

 カイエンと教授の目の前で、もう小一時間もアストロナータ信教の濃い「宗教問答」が繰り広げられていた。そこまでする必要があるのか、と思うほどにサヴォナローラの夏侯 天予への質問は終わりが見えない。

 そして、夏侯 天予の方も、もうこれは間違いないだろうというほど、つまりはカイエンや教授のようなこの国ではインテリに入る者でも、もう全然、聞いたことがないアストロナータ信教の教典の隅をほじくるような質問にも、まあまあサヴォナローラが満足するような答はしているらしかった。

 星教皇に「させられている」カイエンでも全然、わからないアストロナータ神の逸話が俎上に乗り、その解釈が問答され、サヴォナローラは終わりが見えない質問を続けている。

 そして、驚いたことに夏侯 天予は意気揚々と熱烈にサヴォナローラの問いに答えているのだ。

 だが、それにもやっと終わりの時が訪れた。

「では、最後の質問です」

 そう、サヴォナローラが言ったとき、カイエンとマテオ・ソーサ、それに護衛のセレステはもうとっくに飽き飽きしており、カイエンと教授は仲良く並んで艶やかな革のソファに埋もれて、半分、船を漕ぎ始めていたところだった。

「あなたはアストロナータ信教における、アストロナータ神像についてどう考えていますか」

 それまでの質問は、無機質な宗教用語を多分に織り交ぜた、聖典、教典の内容の解釈が中心で、答えも長年にわたる「神学研究学」が専門の神官たちの研究による「正答」、「仮説」などが存在する宗教問答であった。

 だが、この質問はサヴォナローラから夏侯 天予へ向けた、「あなたの意見を述べよ」という形の質問であり、内容もなんだか子供にでも聞くような内容に聞こえた。それを問うたサヴォナローラの声音が、それまでと違っていなければ、他の三人は聞き逃してしまっただろう。

 ハッとしたのは、夏侯 天予も同じだったようだ。

 彼は神殿が貧しい子供達のために行なっている神殿教室の生徒のように、それまで模範解答を滔々と述べていたのだが、ここで明らかに顔色が変わった。

「……神像、の存在する意味、でございましょうか?」

 その証拠に、今までは聞き返すことはついぞなかったのに、夏侯 天予はサヴォナローラに聞き返した。サヴォナローラもそのことは半ば予期していたようだった。

「螺旋帝国でもそうでしょうが、このパナメリゴ大陸では多様な宗教、神殿が共存しています。ですが、系統的にはいくつかのカテゴリーに分類できます。第一には、このハウヤ帝国で我がアストロナータ信教と共に皇帝家の祭祀に関わる、海の神オセアノ、他には星の神エストレヤ、月の神ディアナ、太陽の神ソラーナ、雷、風などの神、東方の小国にある、動物を神に見立てたものに代表されるような『自然信仰系』、第二に、貞淑の神テレサ、戦の神、豊穣の神のような『人間社会系』。まあ、人間社会の問題を解決するための概念を神格化したものです。次に、技芸神テレプシコーラ、商業や賭博の神エルメスのような、『職業の守り神系』があります。我々の信仰の対象である、アストロナータ信教は、その名前の示す通り、『天空、即ち外の世界からこの地に降り立ち、我々を創造した神』です。これは前述のどのカテゴリーにも当てはまりません。強いて言えば、『自然信仰系』ではありますが、アストロナータ神はシイナドラドに実際に、我々の知るような御姿を持って『降り立った』とされています」

 さすがに、先帝サウルに「内閣大学士」として見出され、引き上げられて側近となっただけあって、サヴォナローラの説明には淀みがない。

 もう、カイエンも教授もはっきりと目が覚めていた。夏侯 天予の方は、このサヴォナローラの話の向かう方向がもうおぼろげに見えているようで、急に顔から血が引き、真っ青になってしまった。

「その頃、この地には大陸などはなく、そそり立つ天の山だけがあり、神はそれを打ち崩して海を埋め立て、天地を創造されたとされています。『天地創造系』の神は他にもありますので、この部分はもしかしたら他の古い宗教の影響が混ざりこんだのかも知れません。古のラ・カイザ王国の守護神だった、星神エストレヤなども、その一つです。ですが、この『アストロナータ神の天地創造図』と、そして『立像』として、我々神官のこの長い帽子を被り、なぜか剣を持たず、盾だけをお持ちになって彼方を見透かしておられる姿の二つが、この二つだけが、どこの神殿にもあるアストロナータ神のお姿なのです」

「は、はい」

 夏侯 天予は、生唾を飲み込んだ。

「それは……それは、私の故郷、螺旋帝国でも同じでございます。桔梗星団派の神殿でも……」

「そうですか」

 サヴォナローラは彼自身が、正面に座っている夏侯 天予の後ろの壁の向こうを見通してでもいるような目つきになっていた。

「天地創造図はともかく、あの、盾だけをお持ちになって遥か遠くを見つめておられるお姿は今までの何百年、いいえ、シイナドラドでは千年単位であのままに伝わって来たお姿なのでしょう。盾だけで剣をお持ちでないことから、アストロナータ神は争いごとを望まぬ神であるとされています。あの盾は我々をこの世のすべての悪や危険から守ってくださる盾である、というのがまあ、最も分かりやすい説明でしょう。中には、『あれは実は盾ではなく、それを見た人間がそれがなんであるか理解できず、似たものとして盾を配したのではないか』と考えた神学者もいたようですが」

 カイエンは、アルウィンがイリヤを頭としてこのハーマポスタールに残した組織の名前が「盾」であったことを知っている。イリヤがカイエンにその存在を教えるために、神殿から神像の盾を盗んできて、殺した盾の部下の死体を使い、悪趣味な判じ物としたことも覚えていた。

「おい、まさか……『アストロナータ神の盾』には、何か深い意味があるのか?」

 思わず、カイエンはサヴォナローラと夏侯 天予の宗教問答に口を挟んでしまった。はっとして口を閉じようとしたが、もう遅かった。

「そうですね。……あの人アルウィンがそれをご存知だったとは思えませんが、このハウヤ帝国の父祖、初代皇帝サルヴァドールがシイナドラドの皇子でありました。ですから、先帝サウル様、ミルドラ様、あの人アルウィンも大公殿下も、先代までの歴代の皇帝陛下も皆、アストロナータ神のお姿を映してお生まれです。これはシイナドラド側がこのハウヤ帝国の皇帝家を言わば『緊急の場合に血をつなぐための分家』とするために、今までに十一人ものシイナドラド皇女を、このハウヤ帝国へ嫁がせて来ていたためだったという事実。これは、殿下がシイナドラドへ赴かれた時に判明したことです。そしてまさに殿下はシイナドラドの皇王本家が失ってしまった、『アストロナータ神直系の血』を示すお姿で生まれて来られたがゆえに、あんな手間をかけてシイナドラドまでおびき寄せられ、星教皇に御即位させられてしまわれたのです。……もしかしたら、『アストロナータ神の盾』にも何か意味があるのかも知れません」

 ああ。

 カイエンは今は黒く染めている、自分の紫色の髪と、シイナドラドで見た「アストロナータの不朽体」と説明された棺の中の。永遠に朽ちることのない遺骸と自分との相似を思わずにはいられなかった。

 そして、現皇帝のオドザヤのみが、その「シイナドラド所縁の姿かたち」を継いでいない皇帝なのだ。カイエンは無意識に、服の下の胸元に鎖に通して下げている、星の指輪を服の上から握りしめた。

「話を戻しましょう。今、私がこの方にお聞きしたいのは、あの盾のことではありません。いや、あの盾という小道具も含めた、あのアストロナータ神の立像について、何か思うところがあるのか無いのかをお聞きしておきたいと思ったまでです」

 サヴォナローラの質問の本当の真意は、そこにいた誰にもまだ本当には分かっていなかった。それが、夏侯 天予を試す「宗教問答」の最後の質問である訳も。サヴォナローラの目線はアストロナータ神の立像と同じく、夏侯 天予の体を透過した向こうを見たまま変わらなかった。

 夏侯 天予は、しばらくの間黙っていた。

 再び、顔を上げた時、その顔にはそれまでにはなかった、静けさがあった。

 いや、呆けているとも言えば言えるような、夢を見ているような眼差しだった。

「……私はただ、子供の頃から、母に連れられて天来神の神殿へ詣でるたびに、不思議に思っていただけです。アストロナータ様は、一体、どこを見ておられるのかと。どうして、眼下の我々の方を見てはくださらないのかと。子供の頃は神像が本物の神様だと信じていましたからね。でも、母は違いました……」

 夏侯 天予の母。

 それはまさしく、螺旋帝国の女学者にして女冒険家としてシイナドラドへ潜入し、あの夏の侯爵マルケス・デ・エスティオと出会い、この夏侯 天予を身籠って帰国し、若き日の、ハウヤ帝国へ来る前の頼 國仁先生などと交流のあった、有名な女流詩人だという女だ。

 彼女は馮 革偉の「師匠筋」であり、彼女が密かにシイナドラドの夏の侯爵マルケス・デ・エスティオの屋敷から持ち出した「革命の理論」を記した本が、馮 革偉の起こした「新しい革命」「民衆の革命」を先導する根拠となったのだという。

 螺旋帝国の新王朝「青」の馮 革偉が、シイナドラドのザイオン系の民族に肩入れし、操って内戦状態の均衡を崩してまで欲しがったもの。それは、ホヤ・デ・セレンの皇王宮の大図書館にあると彼がアルウィンから聞いて信じている、「革命以後の政治」について記された書物なのだということも、もうカイエンたちには知れていた。

 実は、そんな本はなく、シイナドラド皇王家の英知を集めた場所、石の森ボスケ・デ・ラピダは、すでに封鎖された皇王宮の奥の奥にあるということも。

 だが、これらの事件のすべては、この夏侯 天予の母、周 暁敏が、今も昔も鎖国中のシイナドラドに入った時に始まったと言ってもいいのだ。

 そう考えれば、周 暁敏という女の果たした、歴史的な役割は計り知れない。彼女の名は、必ず後世に残るのだろう。彼女の書いた詩と共に。

「……母は、ものすごく頭のいい人です。勇気もあるし、詩心に優れ、万物を歴史を文字に起こして人々を鼓舞する文才を持ってもいます。その母が、アストロナータ神への信仰の篤い母が、いつも、神殿へ行って、アストロナータ神像を拝む時にだけ、いつも言っていた言葉があったのです。私があの神像に対して持っている印象は、あの、私の母の言葉のままです」

 その、夏侯 天予の言葉はもう、囁くように小さかったが、カイエンたちの耳にはちゃんと聞こえた。

「それは? それを教えてはいただけませんか?」

 そして、もう一つの囁きがそれに甘くおっかぶさるように、続く。


 なんてこった、こいつも「悪魔」だったのか。


 カイエンは、実父のアルウィンは悪魔以上に悪い、この世から一日も早く消し去るべきこの世の悪夢だと思っていたし、いつもイリヤのことを「腹のなかは真っ黒な悪魔の化身」と半ば以上本気で揶揄している。

 そして今、この時、彼女はサヴォナローラへの認識を頭の中で書き換えたと言っていい。

 どうしてだか知らないが、彼女には本能的に「わかった」のだ。

 サヴォナローラは神官でありながら、先ほどまでの問答で見せた、凄まじい修行を背景にして得たのであろう知識を持ちながら、アストロナータ神など本当は信じてなどいないと。

 彼の信ずるものは、ただ、この大地に根ざす人間への、もしくは人間が引き起こす事象への探究心のようなもので、彼自身はそれを自分の「信仰心」だと信じて疑っていないのだと。

 それは、カイエンがシイナドラドであのアストロナータの不朽体を見せられ、地下聖堂に並ぶ、無数のガラスの棺。その中に横たわる、星教皇のミイラ達を見ていたからかも知れない。

 あそこにあったのは、信仰ではなかった。

 あったのは、「アストロナータという存在から始まった、一つの血族の歴史」、とでもいうしかないものだ。シイナドラドの皇王一族は、血族を後世に残し、繋げるため、アストロナータのもたらした叡智の門番としてあの地を守るため、アストロナータ信教を「使って」いたのだ。

 

「母は、祈りの度にこう言っていました。……もはや、神は人の興亡には目を下してはくださらない、我々は見捨てられた民なのだ、と」

 

 その時、カイエンは、サヴォナローラの真っ青な目が、青い海原のように波打つのを見た。

 彼には、明らかにこの周 暁敏の言葉は、その心に響き、反響し、何度も何度も、神殿の鐘が鳴るように続く、「命の言葉」だったのだ。

 だが、そこまではカイエンにも推しはかれなかった。

 わかったのは、サヴォナローラは周 暁敏と同じものを「信仰心」だと思って身につけているということだけだった。

 夏侯 天予の言葉は、なおも続いた。

 それは彼の母と、彼の生まれ育った、螺旋帝国の帝都の、あまり裕福でない人々の住む街で起こった、あの革命までの道のりの一部の物語であった。







 その頃、貞辰テイシンは幸せだった。

 貞辰の父と、今の母が再婚同士で一緒になったのは、もう、十年近く前になる。

 その時から、貞辰には「弟」ができた。

 一つ違いの「弟」は、初めて会った時には一つ違いなのに、ろくに話も通じない幼児だったが、今は違う。

 貞辰は今年、十八になった。

 この国では、正月の一日にみんなが一斉に年を取る。

 だから、弟は十七。

 もうそろそろ、二人とも適齢期という頃合いになる。特に、十八になった貞辰は、普通ならもう一昨年あたりから縁談がどんどん舞い込んでもおかしくなかった。

 彼女はこの辺りの、あまり裕福なうちもない下街では評判の小町娘だったから。

 でも、彼女はどの見合い話にも首を縦に振らなかった。実際に、下街で括らなくとも、もっと裕福な商家の並ぶ地域を入れても、なんなら、お貴族様のお屋敷街を入れても、彼女の清楚で優しい、なんとも言えない愛嬌のある美貌は、通用するものだったけれど。

 そして、去年あたりからは父もそんな貞辰の気持ちを汲んで、理解を示してくれていた。

 義理の弟と一緒になりたい。

 そんな貞辰の気持ちを父は理解し、義母は涙を流してありがたい、ありがたいと言ってくれた。

 でも、貞辰の家はあまり裕福ではなかった。父は元は宮城の高考試にも合格した役人だったが、義母と一緒になるときに、思い切りよく官吏の職を投げ捨て、市井の寺子屋の先生になったのだ。

 まだ、世間知らずの娘だった貞辰には、どうして父がせっかくのお役人の職を捨てたのか分からなかったが、このままでは貞辰の結婚式やなんやらにかけるお金など、捻出できそうにはなかった。

 父は「私がなんとかするよ」と言ってくれいていたが、貞辰は自分でなんとか稼いで賄いたいと思っていた。まだ、義理の弟は十七歳だ。自分は少しいき遅れになってしまうけれど、一、二年もどこかで奉公でもすれば、なんとかなるに違いない。

 そんな時に、「その話」は帝都の全域に、そして螺旋帝国の主な城郭都市に通達されたのだった。


「……あっ、星海セイカイ! ねえ、今度ね、なんだか皇帝陛下の宮殿で働く女性を公募するんですって! 今までは実家がしっかりした商人以上でないと採用はなかった女官職に、読み書き算盤の考試に合格すれば、私なんかでも応募できるようになるんですって!」

 貞辰は、嬉しそうに、彼女の義理の弟の方へ顔を上げた。

 星海は怪訝な顔をした。

「ええ? まさか……今の天子様にかぎってそんな開明的な……ゴホン、ことをなさるわけが……」

 青年の予想というか、とっさに彼が考えたことは見事に的中する。

 皇帝が行ったのは、女子の採用試験どころか、いまだ子のない皇帝の世継ぎを産ませるための「女狩り」。

 庶民でも読み書きの出来る女子は、決められた日に試験の準備をし、街ごとに家の外へ出て待つように。

 そう、街ごとに官吏によって伝えられた言葉を信じ。

 娘達は身の回りのものや、簡単な筆や硯、墨などの文房具を小さな包みにして持ち、役人が試験場へと案内しに来るのを待ったのだ。

 螺旋帝国では、それまでのどの王朝でも、官吏は全国一斉に行われる郷試でふるいに掛けられた地方の秀才達が首都に集まり、高考試と呼ばれる宮城に泊まり込んで行われる試験でもって選ばれていた。

 名目上は帝国の臣民の男子であれば、誰でも受験可能で、それ故に貧乏人でも見所があれば金持ちの後ろ盾を受けて教育され、遂には宰相にまでのし上がった「偉人」も存在したのだ。

 そういう事実があったから、この時の女官の募集にも、地方からわざわざ、帝都の親類を頼って上京して来た娘もいた。

 娘達は試験は宮城で行われると聞き、高考試と同じように泊まり込みで試験があると思い込んで、用意して待っていたのであった。

 その日、帝都の通りは、精一杯に着飾り、荷物を持った若い娘達がずらりと並んだ。

 これは、壮観と言えば壮観だが、異様といえばこれ以上、異様な光景はあるまい、という螺旋帝国の長い歴史でも空前絶後の出来事であった。

 だが。

 街の通りにずらりと並んだ娘達を待っていたのは、暴力的な「美しい娘達の拉致」だった。

 「冬」王朝最後の皇帝、玄 博黎ゲン ハクリの後宮を支配する宦官達が行った、俗称「女狩り」によって、螺旋帝国全土から集められた見目好い娘達の数は五千。

 その中からまた厳選されて後宮に納められた娘達は千人に達した。

 女官の考試があるというのは、真っ赤な嘘。

 それは街中の美しい娘達が、真実を知って姿を隠すのを見越しての、残酷で容赦のないだまし討ちだった。

 その嵐の中で貞辰は、その清楚な美貌を目につけられて連れ去られ、それきりもう、優しい恋人、彼女の唯一の愛人であった、義理の弟、星海と会うことはなかった。

 星海が、その星海という広々と広がる宇宙を模した名前を永遠に捨て去り、宮城へ革命の首魁として押し寄せた時、燃え上がる宮城の奥殿で、貞辰は娘と息子を逃したのち、そのまま焼け朽ちることを選んだから。

 だが、「冬」王朝最後の皇帝、玄 博黎ゲン ハクリの娘達の名前の輩行字はいこうじが「星」となったのは、争うように妊娠した娘達の中、最初に皇帝の子を産み落としたのが、才人という低い身分ながら、皇帝の寵愛を真っ先に受けた貞辰で、彼女が皇帝に唯一ねだったのが、娘の名前だったからだと言われている。

 貞辰の生んだ娘は、貞辰の望み通りに「星辰」と名付けられた。

 貞辰は、もう星海とは二度とは会えぬことは知っていただろう。そんな中で、長女に「星辰」と星海の「星」の字と、自分の名前の「辰」の字を付けたのは、彼女がそこに「あなたを忘れない」という気持ちを込めたのだろう。いや、もしかしたら、「体こそ遠く離れても、心は決して離れない」という気持ちも。

 そのことは、馮 革偉として革命の首魁に立った時の星海には、とっくに知れていた。

 だから、彼は憎い憎い皇帝、玄 博黎ゲン ハクリの娘達の中で、母の貞辰とともに星辰だけは逃すよう、朱 路陽に命じていたのだ。

 まさか、あのまさに名前通りに貞淑で曲がったことのなかった貞辰の娘、息子が、「とんでもない天然殺人鬼」であろうなどとは知る由もなく。

 

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女大公カイエン 尊野怜来 @ReiraTAKANO

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