闇に堕ちる髑髏(どくろ)
「……これで俺たちの『
それは、一ヶ月半ほど前。
桔梗星団派と手を組んだ、
そう。
あの事件は昼下がりの、夏の習慣である、
ラモン・フィリアン・テルミドールは、熱っぽい口調で皆の前で演説する、この日のディエゴ・リベラの表情を忘れることはないだろう。
元々の赤ら顔を真っ赤に染め、ぎらぎらと目を輝かせ、鼻息も荒く、ディエゴは椅子に座って聞いている同志達の前で壁を背にして仁王立ちになっている。
そして、唾を飛ばしながら大声で、しかもはっきりと自分たちのやり遂げた行動を「戦歴」のように誇示しているところだった。
その途中で、じっと「自分たちのやってのけた凄い成果」を誇らしげに聞き入っている「同志たち」の前で、確たる同意を求めるべく、脇に控えていたラモンに語りかけてきたのだ。
グルポの副官の位置と、特攻隊長の役目を担うこととなったラモンの方を見たディエゴ・リベラの顔と言えばこれはもう、見る人ば見れば、
「イカれちまってる」
としか言えない狂信者の顔だったが、ラモンの方は外見的には落ち着き払って見えただろう。だが、彼のディエゴへの返答は大いに芝居がかったものだった。
「ああそうだ! 諸君! 今日の一歩は、始まりの一歩だが、偉大なる我々の希望への! 確実なる! そして、大義ある一歩なのだ!」
ラモンはもう用意してあった言葉を大声で、それもルチャ・リブレの道場で鍛えた腹筋から繰り出した、深い響きのある声でもってディエゴの呼びかけに応えた。頭の首の後ろの辺りでひやっとしたものを感じながら。
彼らの目標への一歩、一歩が前へ進んでいくとともに、彼らには逃げ道がなくなっていくのだ。
最悪の場合、彼らの目論見は敗れ、皇帝の命令で首斬り役人の前に首を差し出す末路が待っている。それは、見せしめのためもあって、何十年ぶりかの公開処刑となるのかもしれない。
だが、ここにいる能天気な「人殺し」どもは誰もそんな未来を予想さえしていない。「爆破」という方法は、鉄砲よりも簡単に、素人を人殺しにしてしまった。人を殺したという手応えも自覚もないままに。
ラモンの昏い目の奥で、闇に堕ちて行く自分の生首が、一瞬だけ見えてすぐに消えた。
「そんなことあるもんか。俺は、俺だけは絶対に失敗なんぞしない……」
そう呟きながら、ラモンはディエゴの狂信者じみた声や表情を、黙って見上げていた。
こいつは自分の半分も、物事のありようが見えてはいない。だが、ディエゴはラモンにはないものを持っていた。
それがこれだ。
この、中身はお粗末極まりないのにも関わらず、他の人間を鼓舞し、引っ張って行く、圧倒的で不思議な雰囲気。いや、人格と言うべきか。それは、ラモンにはなく、ディエゴにしかないものだった。
ディエゴ・リベラ、お前こそが俺たちの旗印、担ぎ上げられた神輿の上の神像なんだ。ラモンはそう自分に言い聞かせた。
心の中では、
「俺たちの手はもう血まみれだぞ! 引き返そうとするヤツはただ消えていくだけだ。敵にやられるか、味方にだかは知らねえが」
と思いながら、ラモンが凝視していたのは、そういう男の顔だった。
それは、「もう、決して後戻りのできない一歩」を、彼らが歴史の上に刻んだ日のことだった。桔梗星団派の馬
グルポの集会所になっている、大きな金貸しのディエゴのうちの倉庫。
そこで興奮気味に倉庫の中の暑さも構わずに、「そうだ!」「そうだ!」とディエゴの演説に合いの手を入れている若者達とラモンは、一応は一線を画しては、いた。
ラモンにとってはもう六月のあの日から、すでに始まっていたことだった。彼のこれからの人生の目標へ到達するまでの途上にあった一事件でしかないことだったからだ。
皇帝オドザヤとザイオンの第三王子トリスタンの、あの、国を挙げての挙式の最後を飾るパレードに向かって、爆薬を投げつけた日から。
他の商人の馬鹿息子どもは、ほとんどが直前になって、怖気をふるって逃げ去った。だが、ラモンだけはしてのけたのだ。
あの日から、彼はもう自分が、「もはや戻ることのない道」に踏み込んでいることを自覚していた。だから、ルチャ・リブレの師匠であるアポロ・ウェルタとも、その門人で彼に学問の切れ端を伝授してくれた、国立大学院教授のマルコス・イスキエルドとも袂を分かった。
あれから、彼は道場の前の通りを通ることさえしていない。いや、出来ないのだった。
今や、
それは、この国全体へ与える影響、その結果として自分たちがどうなっていくのか、そう「ならされていくのか」まで考えるような、悪く言えば「小狡さ」などとは無縁の生真面目さだ。
ラモンから見れば、やくざとはいえ人を幾人も殺して来て、正当な政治活動もなにもあったものではなかった。きれいごとでは進められないと覚悟して、自分たちは自らの手を汚したのだ。
(俺たちが目指すのは、俺たちみたいな普通の市民が政治に参加することが出来るような国なんだ。自分たちの税金の話を自分たちで議論して決められるような社会なんだ)
かつて、桔梗星団派の馬
そして、そのためには貴族階級は要らないのだ。
彼らは悪魔と手を組んででも、徹底して排除すべき「時代遅れの悪しき支配階級ども」なのだから。
ラモンは、自分たちの力だけでそれが成し遂げられるとは思っていなかった。
だからこそ、あの日、コロニア・エスピラルまで行って、桔梗星団派と手を組む道を選んだのだ。
ちらり、と、ラモンが昏い目で見やった先。
リベラ商会の倉庫の隅には、「ちゃんと見張っているぞ」とばかりに、その、馬 子昂が周囲の熱気など関係ない、静かな、いや皮肉げな微笑みを浮かべて座っている。
倉庫の粗末な木の椅子に座った、馬 子昂の方は、自分の顔つきをラモンが読み取っているとは気がついていないようだ。
(……こいつらは前の大公、反逆者として螺旋帝国に奔り、皇統譜から名前を削られた男の手下だという。螺旋帝国では『革命』後も皇帝が立った。新しい貴族的な支配者が入れ替わっただけで、民衆が搾取される社会体制が変わったわけじゃない。それなら、こいつらと共闘できるのは、皇帝とその取り巻きの貴族どもを放逐、殲滅するまでだ。それを、ゆめゆめ、俺だけは忘れずにいなければならない)
ラモンにおかしな螺旋帝国人らしい辞儀をして、倉庫を出ていく馬 子昂を見送っていたのは、ラモンの輝く二つの目だけだった。
一方で、ラモンの厳しい視線の意味をかなり理解していた、馬 子昂の方はただただ、目の前の光景には呆れ果てていた。
「……呆れたもんですね。ま、大店の馬鹿息子どもの集まりですから、やくざも者もすぐには復讐の血まみれの手を伸ばしてくることはない、とタカを括っているがよろしかろう。確かに、ファミリア・デ・ラ・メンドーサと言えども、ここにいるおぼっちゃま達の店とは表からも裏からも関係はあるはず。ぼっちゃん達を『暴発』させるまでの時間は稼げましょうからね」
馬 子昂は、そろそろ、近くにあるアジト……というよりは「協力者」の家へ向かおうかと思いながら、我ながら嫌な笑いだ、といつも思う、もとから切れ長な、螺旋帝国人らしい目を狐のような狡猾さに変えてしまう笑いを、気を付けて押し殺していた。いくらハウヤ帝国人には、螺旋帝国人の表情は読みにくい、と言われていてもそれにだって限りはある。
ラモンがこちらを向いたので、軽く会釈をして立ち上がる。
倉庫を出ていく彼の姿は、ラモン以外のドラ息子たちには気付かれもしなかっただろう。
「馬鹿息子の父親ども、商店主たちには、もうギルド関係から注意が言い渡されているでしょう。それでも、かわいい息子を治安維持部隊に突き出す勇気のある親はいないでしょうなあ」
そう。
宰相の最高諮問機関からはもうとっくに、このハーマポスタールのギルド連合総長、イサーク・カレーラスを通じて、各ギルド長、そこから加盟している各商店、工房、作業所などにかなり厳しく通達が下っていた。
だが、大店の商店主たちは、息子かわいさ、うちの子にそんな大それたことは出来やしないと黙っている者がほとんどで、中には息子に脅されて従っている者もいた。残りは息子の動向になど興味のない金と仕事の鬼のような、当てにならない親たちばかりだった。
だから、ことここに至っても
「このおぼっちゃまたちの人数だけでは、足りません。まずはきっかけの事件。最初の生贄が必要だ。……カスティージョの時に失敗していなければ、もうとっくに次の段階に進められていたのですがねえ。そこはカイエン様たちも、そこは敵として申し分なくお育ちになっておられました。メンドーサ一家の事務所のやくざ相手とは言え、めでたく人殺しになっていただいた、ここの方たち。もう少し仲間を集めていただいたら、最初は大店の下請け業者を締め付けていただいて、商人たちの中での階級闘争を、特権階級への怒りへとすげ替えて頂きましょうか」
馬 子昂はなんとなく独り言でぶつぶつ呟きながら、人を避けて歩いていた。そこまで頭の中で図式が出来上がった時、ちょうど彼は協力者の家、というか事務所にたどり着いたので、彼のつぶやきはそこで終わった。
「……目の上のたんこぶだった、メンドーサ一家から、あれだけ力を削いでやったんだ。ちょっとは我々に便宜を図ってもらわないとね。半グレのマラスどもなら、最初の生贄に、人数も命の軽さもちょうどいいし」
馬 子昂がそんな恐ろしげなことを言いながら、裏口から入っていったのは、なんと、このハーマポスタールの裏社会の新興組織、パポン一家の事務所なのであった。
「うわ、これは壮観だなぁ」
カイエンたちは、金座の洒落たレストランテの奥の個室から、金座の酒場の
すると、そこはもう古い古い
当然、
カイエンとサヴォナローラは、見るぶんにはミイラも白骨の群れも平気だったが、さすがに自分から触るのはためらわれた。教授は平気そうだったが、彼らの前には男装したセレステがいたので、カイエンの腕を取ったまま、黙っている。
「ははあ、これですか。こりゃあ、偽モンのミイラですから、それ、こうして」
案内の小男は、乱暴な手つきで立ったミイラの背中を押すと、ミイラが先のレストランテの壁のレリーフの女の像のように、くるりん、と回ったではないか。
「……本物だと、この道を使ってお客さんをご案内するたびに、こんな風にぶん回していたら、すぐに朽ち果ててしまいますんでね」
「なるほど。しかし、よく出来ているね。ああ、木彫りに細工をしてあるんだね。この暗さなら、よしんばここに迷い込んだ『招かれざる客』がいたとしても、偽物とは気がつくまい」
教授はそんなことを言いながら、カイエンを引っ張って
カイエンたちが隠し階段から降り立ったのは、金座の真下にある、かなり古い
カイエンは数年前、あの「春の嵐」事件の時、市内の中心部を外れた場所にある共同墓地に、埋葬する前の一時的にではあったが、彼女の名乗りあったこともない庶出の弟、カルロスこと本名アルウィンを安置していたことがある。
そこは、あのアルベルト・グスマンが、当時はまだ彼の手下の桔梗星団派の尖兵、「盾」の頭だったイリヤと謀って、頸動脈を切って自殺したと見せかけた場所の近くだった。
(あそこは、まだ新しい
カイエンはそんな感想を持った。
実際、棺が壁龕に整然と収まり、棺も用意できなかったらしい遺体のみが、防腐処理をされた後に多くは服を着たまま白骨化して並べられていた、あの地下墓地に比べれば、ここの「住人」たちはとうに骨もばらばらとなったらしい。
「ここは、どこかの神殿の手が入って、崩れたご遺体をきれいにしたところのようですね」
そう、現役神官のサヴォナローラが言うと、メンドーサ家の案内人は、カイエンたちが周囲の様子に興味を持つと見ると、手にしたランプで四方を照らしてくれた。
「古い
「いやあ、それにしても私も長く生きてきたが、こんな感じに整えられた地下墓地は初めて見ますよ。骨に帰っても、神殿でこうして定期的に手を入れてくださるんですなあ」
そう言う教授とカイエンが見上げた先には、髑髏と大腿骨を使った見事なアーチ型の骨で形造られた戸口のようなものがあり、その上のかなり高い天井までは頭蓋骨と肋骨や腕の骨、肩甲骨などで、花弁を重ねた薔薇のような紋様を作って、骨が積み上げられていた。漆喰を下地に使っているようで、落ちてくるような心配はなさそうだ。
「人によっちゃあ、悪趣味だと言う人もおります。ですが、これも『死後の世界のあり方』とやらで、地下じゃ、風に吹かれて散逸することもありませんから、こういう形にして遺していく事で『みんな、あんたがたを忘れちゃいないよ』って、死者への慰めになるんだそうです」
案内人は、なかなかに詳しい。
きっと、今晩のように客を案内するたびに、同じようなやりとりを経験しているのだろう。
「いやいや、ありがとう! なかなかに文化史的にも有意義なものを見せていただいたよ。さ、お客さんを待たせちゃいけない、先へ進んでくれたまえ」
教授の言葉は、いつぞやアルフォンシーナのいた娼館を訪ねた時とは違って、学者らしい言葉遣いを隠そうとはしていない。もっとも、学者崩れの商人で、博打で借金を重ねてしまった、という設定なので、今回はこれで良いのである。
一人、セレステだけが、ふん、という顔で無言だったが、彼女の場合には影使いとしての仕事の中で、こんな場所には慣れっこなのかもしれなかった。
「心得ました。じゃ、こちらへ……」
メンドーサ一家の案内人は、骨のアーチの下を奥へ続く、石畳の道を進みかけた。
そこで、一つの椿事が起きた。
ころり、と乾いた音がしただろうか。
「ひゃっ」
こればかりはセレステでさえも、訓練されているだけに声も体も微動だにしなかったが、彼女でさえも内心ではびくりとくらいはしたかもしれない。
先に立って髑髏のアーチをくぐった案内人と、カイエンたちの間に。
アーチを形作った骨たちの中から、一つの髑髏が転がり落ちたのだ。
ランプ一つの闇の中でも、それは皆の目にしっかりと焼きついた。
教授もびくりと体を震わせ、サヴォナローラも一瞬、息を止めたのが、すぐそばにいるカイエンには感じ取れた。彼女自身はちょっと声を出してしまい、恥ずかしかった。
「おや。こんなことは滅多にないんですがねえ……」
そんなことを言いながら、小男の案内人はランプの灯を落ちた髑髏にあてると、無造作にそれを手で掴み、石畳の道の脇へ退けた。
「まあ、お客さん、今夜はツキがありますぜ。そう思えば、こんなの、縁起がいい方でしょうぜ」
どうやら、メンドーサ一家の案内人は、カイエンたちを賭場の客としか聞かされてはいないようだ。
「そうだね」
教授がもう落ち着いた声でそう返すと、一行は静かに
カイエンたちはやや広い、骨で覆われた広場のような場所にたどり着いた。案内人はカイエンたちを中央に待たせると、正面の祭壇のように見える場所の奥へと無遠慮に踏み込んでいく。
正面の祭壇には商売や賭博の神、エルメスの姿を模したミイラが立っている。芸の細かいことだ、とカイエンは思った。
案内人がエルメス像の真後ろに立つと同時に、そこはもうカイエンたちにはここまでの道程で見慣れたどんでん返しの手法でくるりと開いた。
案内人に促されるまでもなく、セレステを先頭としたカイエンたちはメンドーサ一家の秘密の賭博場へと入り込んだのだった。
入った場所は向こう側もホールのような場所だった。
肘で曲がった女の腕を模した、やや悪趣味なランプ台の掌の上でロマノグラスが光り輝き、床には真っ赤の分厚い絨毯が敷かれている。壁紙は金地に何本かの横線が入ったもので、それが廊下の長さを強調している。
奥へとつながる廊下が三方にあり、そこにも同じような女の腕を模したランプが続いていた。
女の腕が壁から無数に生えて、そこにランプが点っている様子は、なんとも不気味ではあったが、一方ではなんだか艶かしくも見えた。
そんな中、カイエンたちは左側の廊下へと案内された。
そこには階段があり、地下から地上へ出たか出ないかという頃合いで、階段が終わる。
この廊下とは直接、繋がっていないようだが、もうそこまで来ると、奥の方から賭場の賑わいや、木札の集められる音が耳へ届いてきた。
「へえ、場所柄とはいえ、豪勢なもんだなあ」
カイエンは商人の色小姓という役柄に合わぬ口調でそう評してしまってから、しまった、と口を塞いだ。
だが、案内人は小柄で髪の長いカイエンを、中年商人のかわいがっている自慢の色小姓と思い込んでいるのだろう。そんな口調もわがまま放題な美少年の言葉と疑っていないようだ。
もう二十二になるカイエンだが、化粧をせず、もともと豊かとはいえない胸を布できつく縛って、男物の、それも色小姓らしい色も柄もきれいな淡い色の服を身についけていると、やや太い直線的な眉毛や、きっぱりとした甘さのない顔立ちもあって、十代半ばから後半の美少年にちゃんと見えるのだった。
「おや、私がお客さんたちを案内するのは初めてだが、そっちのぼっちゃんはここも初めてですかい? ここはうちの一家の賭場でも、金座の一等地にありますからね」
相手がちょっと見ないような端正な美少年に見えるので、案内人の愛想はすこぶるいい。
カイエンはほっとした。ほっとした拍子に主人役の教授に親しげに寄りかかったように見えたのも、この際は自然だったと言えよう。
「この通り、素直な子でね。思ったことがすぐに顔や口に出てしまう。ここへは初めて連れてきたから、興奮しているんだろう」
教授は演技力たっぷりだ。
サヴォナローラなどは内心でちょっと驚いていたが、実は教師というものは「学生のやる気を引っ張り出してなんぼ」の仕事なので、実は芝居っ気がある人物が多いのだ。教壇での一人小芝居くらい出来なければ、学生との年齢や立場の溝は埋まらない。
彼らが廊下の奥へ至ると、もうすぐそばから賭場のさんざめきが聞こえてくる。
カイエンたちにも、廊下を曲がるときに、右側の奥の方が、広い空間の四方を巡る中二階のような場所になっていて、その下が、かなり広い広間になっているのがちらりと見えた。もっとも、その場所に人気はない。ただ、いくつかの小部屋があるらしく、カーテンの下がった歌劇場のボックス席の入り口のような扉が見える。
「……おお、ご苦労。もういいぞ」
その時、賭場とは逆の奥の廊下から、明らかにここ、いや、メンドーサ一家の幹部としか見えない貫禄のある男が奥から音もなく出てきて、小男の案内人の前に立った。
小男の案内人は黙礼しただけで、あっけない程にあっさりとカイエン達と別れて、もと来た廊下へ戻っていく。あの様子では、あの案内人はここまでの出入りしか許されていないか、次の客があるのだろう。
「……こちらへ」
衝立のような背中を見せる、もろにやくざというか、やくざ以外の何にも見えない中年男が、それでもパドリーノ・ジグフリードから言いつけられているのか、慇懃な態度でカイエンたちを賭場とは反対の奥へと誘う。
カイエンはいつの間にか、教授と支え合ったまま、セレステとサヴォナローラを従えて歩いていた。こちらももう、賭場の客の振りはしなくともいい頃合いかと思ったのだ。
やがて、案内されたのは、途中に幾重にもカーテンが垂れて途中の部屋への入り口を隠している、廊下の奥の奥だった。
もう、カイエンには
緋色のカーテンの奥、もうこの入り組んだ迷宮のような建物のどっちの方角かもわからなくなった場所。そこには、特に大きく立派な、メンドーサ一家の紋章が刻み込まれた重厚な木の扉が目の前にあった。
「パドリーノ、入りますぜ」
カイエンはちょっと驚いた。
彼女はイリヤの手配で、ここで夏侯
カイエンと教授が顔を見合わせた時には、もう扉は開かれており、彼女たちは背中を押されるように部屋の中に押し込まれていた。
「ごきげんよう、大公殿下。ようこそ、我らメンドーサ一家の賭博場へ」
完璧な上流階級の発音で挨拶してきたのは、カイエンよりもやや年長の、しかし、ヴァイロンやエルネストよりはやや年下に見える、中肉中背の浅黒い顔に真っ黒な頭髪の若い男だった。
今日も彼は黒の絹の上下に白いシャツ、黒いリボンタイの姿で、黒い靴だけが鏡のように磨き上げられているのが目を惹いた。
男、勿論それはジグフリード・メンドーサだったが、は、明るいいくつものランプで照らし出された、もしかしたら皇宮のオドザヤの居間よりも豪華と言ってもいいような応接室のテーブルの向こう側で立ち上がっていた。他には召使いの姿も見えない。ここまで案内してきた、おそらくは幹部も閉まった扉の向こう側だった。
彼の顔は痩せて、彫りが深く、その上に冷たく無表情で、ただ、紅茶色の赤みを宿した目だけが、注意深くカイエンたちを観察していた。
彼は、ちょっと前まで、そう、彼がまだ国立大学院の制服を着ていた頃とは、別人のような顔つきになっていた。兄や幹部たちの葬儀、その後のパパドリーノ継承の儀式、引継ぎ、などで休むいとまもなく、その顔はやつれても見えた。
そんなジグフリードから見れば、カイエンとマテオ・ソーサは完全に無力な存在と一目見ればわかる。
背が高いとはいえ、サヴォナローラもまた同じだっただろう。
だが、護衛役としてついて来ていると明らかにわかるセレステを中に入れて、それでもジグフリード・メンドーサは一人で応対していた。
「ごきげんよう、パドリーノ・デ・ラ・メンドーサ。……カイエンだ。こちらはうちの最高顧問のソーサ先生、こっちは宰相閣下。今日はご協力いただき、感謝する」
カイエンもまた、ジグフリードの示した態度に見事に合わせてみせた。それくらいのことが咄嗟に出来るくらいには、もう二十二になった彼女にも経験と自信があった。
護衛のセレステのことはあえて紹介しなかった。実は女とは見破れないだろうが、護衛であることは見ればわかることだったからだ。
「まあ、そちら側へおかけください。……例の方は、もうご到着です。奥のお部屋にお通ししておりますから、これからこちらにお連れします。……念の為、隣の部屋ではこれから、本当に賭場の借金がかさんだ上に、酒で身を持ち崩して本職の方の商売も回らなくなった御仁が、これから娘二人の身売りと、商店の権利の譲渡、住宅の売却までの『手続き』をすることになってます」
いきなり、生々しい話を聞かされ、カイエンと教授は顔を見合わせた。
セレステは無言のまま、四方に気を配っているようで、勧められたソファに座ろうとはしなかった。だが、カイエンと教授、それにサヴォナローラは、なんとなくジグフリードの勧めた三人がけのソファにとりあえず、カイエンを真ん中にして腰を下ろした。
金色に塗られた腕木もがっしりと、重厚な木枠だけでも大の男が数人がかりでないと移動できそうもないソファは、三人が座ってもまだ悠々と隙間があった。
正面の黒大理石のテーブルとの間の間隔も広く、背もたれにもたれて座ったら、カイエンや教授は足が浮き、テーブルの上に何か出されても、取ることさえ出来なかっただろう。
ソファは分厚い革製で、光って見えるほど艶出しされた革がぴんと張られているため、見た目は固そうだったが、座ってみれば一級品の座り心地だ。
しかし、これほどにぴかぴかな革製なら、飲み物が溢れようが、ここで暴力行為が行われて色々と汚れたとしても、拭き取って脂を擦り込めば、すぐに元に戻せそうだ。
この上へ人が突き飛ばされても、このソファなら微動だにしないだろう。よく見れば、腕木には牙を剥いた怪物が彫刻されている。目玉にはガラスがはめ込まれているという写実的なものだ。
そう、さっきのジグフリードの話から、この部屋で常々行われていることを想像できる人間なら、このソファは、たとえ一級品でも座り心地がよろしくても、なんだか背中が寒くなってくるようなシロモノなのだ。
カイエンは実際に、イリヤのやっているニコニコとんでもない残虐非道な拷問兼、取り調べの様子も見知っていたし、教授も国立士官学校の教官だったから、裏で実技の現役軍人の講師が厳しい学生指導という名のシゴキをしている場面を見たことは、あった。
だから、瞬時にこの部屋の使い道を、その堅牢なソファ一つから、もう読み取れてしまったのだ。
「……パドリーノ・デ・ラ・メンドーサ、ここは美しいだけでなく、なかなかに実用的なお部屋のようですね」
だから、サヴォナローラがこの部屋の豪勢さ豪華さを褒めるだけでなく、彼女たちの気付いた通りのことを理解した上で、しかもこの部屋を褒めたのには、ちょっと唖然とした。
「おい……」
カイエンはそっとサヴォナローラの腕を肘で突いたが、正面のやくざの若きパドリーノと同じくらい冷たくて無表情な顔は仮面のように動かなかった。
この街の大公であるカイエンとしては、「娘の身売り」などという言葉は看過したくない言葉だったが、賭博が一応は合法な以上、身ぐるみ剥がされる客が出ても致し方ない。金を騙し取られたなら犯罪だが、賭博ですっからかんになるのは、今も昔も自ら「身を持ち崩した」側が悪いのだ。
「では、この部屋を使わせていただけるということか?」
カイエンは、今一度、豪華なしつらえの部屋の中を見回してみた。
そう広くはない部屋だ。
輝くように磨かれた革製の三人がけのソファが二つ、それに一人がけのものが二つ。それが大きな黒大理石のテーブルの周りを囲んでいる。床には足音全てを吸い取りそうな、分厚い、それも深紅の絨毯が敷き詰められていた。
その他には酒の瓶やらグラスやらが収納された見事な彫刻が施され、金色に塗られた上からニスで仕上げられて、きらきら光るような、やや悪趣味だが豪勢な飾り棚があるだけだ。
先ほど歩いて来た道のりからすると、この部屋は地上に近い高さに位置しているはずだが、この部屋には、高い天井まで辿って見ても窓がない。
奥にカイエンたちが入って来たのとは別の扉が一つあるだけだ。廊下とは違って、人の出入りを隠すようなカーテンや屏風の類も一切なかった。それでも天井の小ぶりなステンドグラスをはじめ、十分な数のランプで部屋は明るく、隅々まで見えるほどだった。空気が動いている感じがするから、窓はなくとも通風孔のようなものはあるのだろう。
壁も、さっき通って来たレストランテから
皇宮や大公宮の部屋並みに金はかかっている。だが、そうした家具の意匠や色、趣味はいかにも「夜専用」の色味だった。
この豪勢だが、重厚な中に凄みの感じられるような部屋に呼びつけられ、怖いやくざの兄さん方に取り囲まれ、金の清算を迫られるのは、もしかしたら地下の暗い石造りの部屋で同じことをされるのよりも、心理的には恐ろしいのかもしれない。
カイエンは大公軍団の治安維持部隊の取調室を思い浮かべた。イリヤお得意の拷問部屋は別だが、取調室は無機質な石壁や漆喰壁の部屋で、意外性も何もなく、庶民には小ぎれいな小部屋にさえ見えるかもしれない。
だが、この部屋は昼間を生きる人々には、まったくの異世界だ。
「……こんな部屋で怖い兄いや、強面のおっさんどもに囲まれて、借金の帳簿だの、仮払いの手形だの、未払いの場合の補償誓約書の証文だのを、正面からまとめて顔面に向けてぶち撒かれて、『すぁあ、もう一文無しだってぇならしょうがねえ。こっちの証文にあんたが書いた通りにやってもらいやしょうか。この証文は確かにお前さんが書いたもんだろ? おい、ゴラ!』なんて凄まれたら、ちょっと、いいえとは言えない雰囲気だなあ……こわっ!」
カイエンは先ほどはサヴォナローラのこの部屋への嫌味な賛辞を咎めたが、ソファ以外の部分を見てみれば、素直にこんな言葉が出てきてしまった。後ろに控えているセレステが、もうカイエンのこんな性格には慣れてきてはいても、ほんの少したじろいだのが分かった。
ジグフリードにしてみれば、カイエンの言った内容よりも、その挨拶の時とはがらりと変わった言葉遣いの方に驚いたらしい。やくざの声色のところなどは、女の声ではあってもどすが利いていて、初めて口にしたようには聞こえなかったからだ。
ジグフリードはこの部屋へカイエンたちを迎えた時から、きれいな上流階級の言葉遣いをしていたし、先ほどのカイエンの返礼もぶっきらぼうではあったが、発音はまごうことなきこの国の至高の階級の言葉遣いだったからだろう。
「……噂には聞いておりましたが、大公殿下におかれましては、随分と下々の言葉や習慣にも慣れておられるようですね。頼もしいことです。いいえ、私共などには、ありがたいことでございます」
そう言いながら、カイエンのランプの光が映って、金色に光る灰色の目を覗き込むようにした、ジグフリードの顔はその言葉が終わると同時に、ふっと和らいだものに変わった。
「なるほど、私のようなやくざ者がお上品ぶってもはじまりません。殿下の方がそのように親しみを見せていただけると、今夜ここで、是非にも申し上げたかったことも言いやすくなるようです」
(あっ)
カイエンと教授はここまで来て、わざわざ、ジグフリードがカイエンたちを出迎えた理由に思い至った。今までは冷静にやっていたつもりでも、
「ああ!」
カイエンと教授が異口同音にそう言った時、ジグフリードはすでに正面のソファから立ち上がっており、カイエンと教授の前へやって来ると、黒大理石のテーブルとソファの間の隙間に、皇帝の前に跪く家臣のように片膝を立てて座っていた。
「このジグフリード・メンドーサ、大公殿下ならびに大公軍団最高顧問マテオ・ソーサ先生には、一生涯忘れられぬ、いいえ、忘れてはならぬ恩義を賜りました」
そう言うジグフリードの声音は、ついこの間まで国立大学院の学生だったとは思えない。堂々として、しかも信義に満ちた態度で、まさに、このハーマポスタールの裏社会の雄、メンドーサ一家の
「いや、あの……」
カイエンは何か言いかけたが、隣に寄り添った教授がそっと首を振ったので、言葉は控えた。
「不肖、私にとりましては、国立大学院を卒業できるかどうかは、生涯の大事でございました。……やくざ稼業のメンドーサの家に生まれながらも、拙い才を積み上げ、裏稼業の倅の身で国立大学院への入学を許されました折より、先帝サウル陛下の公平なご配慮には、陰ながら父、アキレス共々、皇宮へは足を向けては眠れぬと心に言い聞かせて参りました」
この言葉に、カイエンははっとした。
そうだ。
国立大学院に入るとなれば、試験の結果のみならず、家業や家柄も調べられる。
やくざの頭目の息子が、国立大学院に入学を許されたところから、もう、始まっていたのだ。
先帝サウルの慧眼、いや、現在の文化花咲く、他国に比べれば開放的で自由なハーマポスタールを作り上げたのはサウルだったことを、カイエンは今さらながらに、その「大いなる意志と行動とその結果」を感じずにはいられなかった。
遠い遥かな未来までを見通していたようだ、と彼女たちがその死後、思わずにはいられなかったサウルの目。それは、こんなところへまで及んでいたのだ。
「……その上に、この度は我らに降りかかった禍により、兄、ガスパルを失い、本来ならば学業を納め終えずに退校となるはずでしたこのジグフリードに、大公殿下より格別の計らいをいただき、秋を待たずに卒業試験を受けさせていただくことが出来ました」
カイエンが思い出すまでもなく、ジグフリードの試験の成績は満点で、卒業式には出られないものの、首席卒業者としての栄誉が与えられ、その名を大学院の名簿に刻まれることが決まっていたのである。
「いや。待たれよ、メンドーサ殿。その裁可を実際に行われたのは、皇帝陛下である。……私は口をきいたに過ぎない」
カイエンはそう言ったが、カイエンと教授がイリヤからメンドーサ家の次代の「事情」を聞いて、カイエンと、大学院のマルコス・イスキエルド教授から直接にオドザヤへ上奏することがなければ、オドザヤがサウルのような「配慮」をすることはなかっただろう。それは、まだ若いオドザヤ、己の結婚式にあのような事件を起こされたばかりの皇帝には、しろと言う方が無理な話だった。
それに、カイエンたちには、こうして恩を着せることで裏社会の頂点に立つメンドーサ一家を味方につけられたら、と言う計算があったのだ。サウルのした「遥かな未来への布石」の最後を偶然に拾い上げたに過ぎない。
ジグフリードはしばらく、頭を床に伏せたまま、黙っていた。何かを言うべきかどうか迷うように。
そして、カイエンに促されて顔を上げた彼の顔には、決意した者の確固たる意志が宿っていた。
「……大公殿下、並びに最高顧問の先生のご配慮なくては、すべてがあり得ないことでした。その辺りのことは先日、ディアマンテス大公軍団軍団長殿からもうかがっております」
カイエンはちょっとため息をつきたくなった。イリヤのことだから、大いに恩着せがましく話を持っていったに違いない。そして、ジグフリードだって去年一昨年と読売りを沸かせたカイエンの「貴婦人のものとは思えない凄い醜聞」の数々は、さすがに聞いたこともあるのだろう。
カイエンは自分で巻いた種ながら、あの「醜聞」の内容の小っ恥ずかしさには今でも思い出すと赤面するくらいなのだ。
だが、幸いなことに相手はそんなことは気にもしていなかった。
「そこで、こうして大公殿下に直々にお目通り出来たこともあり、直にお耳に入れておきたいことがございます」
その言葉は小声といってもいいような音量だったが、脇で「自分は関係ない」という顔で聞いていた、サヴォナローラをもはっとさせる響きがあった。ジグフリードがカイエンらに直に礼を言いたかったのは間違いない。そこで、カイエンそのものを見た上で、ジグフリードはもう一つ、どうしようかと思っていた話を言う気になったと分かったからだ。
「……聞こう」
カイエンが簡潔に答えると、ジグフリードはこの部屋の金色の壁紙に反射した光の中では緋色にも見える目を、しっかとカイエン一人の顔に据えた。
「パポン一家、というのをご存知ですか」
パポン一家。
聞いただけで、カイエンとサヴォナローラは緊張した。
それは、ここ数年で出来上がった新興やくざ一家だ。
もともと、このハーマポスタールで増加していた、半グレの、だが凶悪な犯罪集団である「マラス」と呼ばれた若者たちを、フェリペ・パポンという男がどうやってのけたのか、まとめ上げて作った組織なのだ。
「ご存知のようですね。我らの事務所が爆破、焼き討ちの上、ほぼ皆殺しになった事件ですが、裏には殿下がたもご存知のあの、桔梗星団派がおり、それにあの金持ち坊や達の
「それが、フェリペ・パポンだというのか?」
カイエンが確かめると、ジグフリードははっきりとうなずいた。
「襲撃に使われた火薬の量はかなりのもんです。大店の息子どもの中には、海軍むけの物資を扱っているうちもあるのですが、火薬を作るにはいくつかの材料を揃える必要がある、そうでしょう?」
これは、カイエンたちも海軍のデメトラ号から鉄砲を買い付けるまでは知らなかった知識だった。火薬には硝石や木炭、それに硫黄などが必要なのだ。
「その通りだ。……パポン一家がそれに一枚噛んでいるということだな?」
カイエンが厳しい顔でそう聞くと、ジグフリードは答えた。
「はい。ちょっと想像力を働かせてみますと、この時期に半グレ集団のマラスどもを一つにまとめた手腕も裏がありそうですし、火薬のことまでとなりますと、パポンの後ろには……」
「桔梗星団派か」
カイエンがそう言うまでもなく、それしかあり得ない話だった。
「……そのようで」
そこまで話すと、ジグフリードは胸元から懐中時計を出して時間を確認した。
「いけません。随分と長話をしてしまいました。あちらのお客人は門限とやらがおありのようで、じりじりしておられるでしょう。そろそろ、こちらへお連れしませんと」
立ち上がったジグフリードへ、カイエンは丁寧な口調で礼を述べた。
「ありがとう。……
カイエンがそう言うと、ジグフリードは当たり前だ、という表情で黙礼した。
「承知致しております。……新事務所は傭兵ギルドの事務所の隣ですから、連絡はそちらから致します」
メンドーサ一家が傭兵ギルドと繋がったことは、もう新事務所の立地からして明らかとなったが、その前から別に敵対していた訳でもなかった。
「よろしくお願いする。……パポンの方はこちらに気付かれたことを悟っている様子か?」
カイエンがそう聞くと、ジグフリードはいかにも簡単に言ってのけた。
「フェリペ・パポンは悟っているかもしれません。ですが、あちらさんはうちのような血族組織の古いやくざじゃあねえと思いますので、付け入る隙はいくらでもあると思っております」
その言葉は、カイエン達の調査が済めば、いつでもパポンと一戦やらかすつもりに見えた。
だが、メンドーサ一家は事務所の爆破事件で幹部や組員をかなり失っている。コロニア・エスカロンの邸宅は要塞化しているとカイエンも聞いていたが、マラスの寄せ集めのパポン相手でも、今は事件以前のようには簡単にはいかないことは確かだった。
「古い血族組織のやくざ……か。……他のやくざ組織はどちらに付くかな?」
カイエンはちょっと意地悪く聞いてみたのだが、その答えはかなり微妙なもので、彼女は大公軍団としてもこのハーマポスタールの裏へもっと手を伸ばす必要性を感じた。
「ちょっと前なら、親父の時代なら、縄張りの中での仁義もありましたが、今後は怪しくなっていくでしょう。亡くなった兄は他の組織の頭とも個人的な繋がりがあったのですが、それを我らは失っております。出来得るかぎり、父や兄の持っていた人脈を取り戻していくのが、目下の私の一番の仕事かもしれません」
ジグフリードが出ていくと、すうっと入れ替わりに、上品な四十台後半と見える中年女性が入ってきた。
カイエンや教授、サヴォナローラがすぐに気が付いたのは、その女性の黒一色の喪のいでたちだけではない。その顔立ちが、さっき出て行ったばかりのジグフリード・メンドーサにそっくりだということだった。
女性は、カイエンの前で深々と、だが仰々しい貴婦人風ではないお辞儀をすると、無言のまま、カイエン達の前に、上品で薄手の繊細な陶器、カイエンなどが見れば窯元まで分かる、粋な文様のカップを置いた。カイエン達の向かい側のソファの前にも置いたのは、これから入ってくるはずの客人のためだろう。
そして、芳しい夏の香茶をポットから注ぎ入れると、なんとも言えない、ちょっと泣き出しそうな表情でカイエンと教授の顔を見てから、彼女は部屋を出て行った。
香り高い茶は、最近、このハウヤ帝国でも作られるようになった、半分だけ発酵させた螺旋帝国風の茶で、瑞々しい花の甘い香りのするものだった。お茶受けにはこれも夏らしい、しかも夜のつまみがわりも兼ねているのか、冷やした甘瓜に透き通るほど薄く削がれた生ハムの載ったものと、白くて柔らかい、香茶の香りを邪魔しないチーズが置かれていた。
「酒を出していかないとは、粋なものですね」
神殿の中では酒を禁止しているものもあるが、アストロナータ信教は別に酒を禁止してはいない。それでも、夜、それも賭博場の奥の部屋へ茶菓に近いものを置いていくのは、サヴォナローラが言うまでもなく、まさに粋と言うしかなかった。
そして。
香茶と茶受けの爽やかさを、カイエン達が一口、味わった頃合いで、部屋の奥の扉がノックされた。
「どうぞ。お入りなさい」
カイエンは夏侯 天予が来たか、と背後のセレステに「来たぞ」と合図するとともに声をかけた。
だが、カイエンの答えとともに入ってきた人物は、真っ青な顔をして、入って来た扉を閉めたところで顔を伏せたまま、動くことさえ出来ないのだった。
夏侯 天予は、最新流行のハウヤ帝国の貴族ではないが、富裕層であることがはっきりと分かる服装だった。もちろん、それはこの賭博場の客、という設定に合わせたものだろう。
黒い髪はしゃれた帽子の中にほとんど隠れており、もとより顔立ちはカイエンや先帝サウルにどことなく似た、端正な顔立ちだから、じっと見なければその肌の象牙色や、螺旋帝国人風の切れ長な目などに目がいくものはいないだろう。
「……げ……」
扉の前でこちらを向きながらも顔を上げることなく、彼はやっとの思いで出した、とでもいうようなガチョウが絞め殺される時のような声を出したので、カイエンたちの方がどきっとした。
セレステなどは、さっと懐や袖口に隠した暗器に指をかけたほどだ。
「げ、げい……」
「げ? なんだ? どうしたのだ。時間があまりないのだろう。早くそこへ座るがいい」
カイエンの知っている夏侯 天予は、まだサウルが存命の折に謁見の間で会った時も、あのトリスタンの仮面舞踏会で会った時も、自信に満ちていたというのに。
(螺旋帝国現皇帝、馮
カイエンは先帝サウルが言った、あの時の台詞も、それに答えた夏侯 天予の不適で、ふてぶてしいまでの落ち着きぶりも覚えていた。
なのに。
驚いたことに、夏侯 天予はカイエンの顔を直視することさえ出来ず、その場に崩れ落ちたのだ。
「げ、猊下! ああ、生きてこの世で星教皇猊下の御前に出る日が来ようとは……」
「ええっ?」
カイエンも教授も、サヴォナローラも、夏侯 天予のこの言葉には、驚かないわけにはいかなかった。
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