パドリーノ・デ・ラ・メンドーサ
その館は、ハーマポスタールの中心街、金座にも近い、裕福な、だが貴族ではない市民たちが多く住むコロニア、コロニア・エスカロンの丘の上に建っていた。
ハーマポスタールと言えば、古くから皇宮のある丘、大公宮のある丘が小高く盛り上がり、丘の上は下町や港の周りよりも夏に涼しいこともあり、その周りに貴族の屋敷が多く建っている。
だが、ここは先帝サウルの治世になってから、富を蓄えた商人などが、新たに小山を切り開いて移り住んだ場所である。だから、最初から都市計画がある程度あったために、道幅も広く、一軒一軒の敷地も広い。
そんな環境の中でもその館は強固で高い石塀で囲まれており、その内側も森のように高い木々がみっちりと植え込まれていたので、周囲の瀟洒な邸宅とは、ちょっと見ただけでも様子が違って異質だった。
その上、館は広大な丘の上の敷地に波打つように広がっていたので、隣人でも館の内部の様子はそう簡単にはうかがい知ることは出来なかっただろう。
道路に面した、そそり立つような門扉さえも鉄板にこの家の紋章を撃ち抜いたもので、外には石造りの見張り番の常駐場所が作られており、中には目つきの悪い陽に焼けた若者が、夏だというのに黒っぽい服装で白目を光らせている。
この家に
そういうわけで、頑丈な黒っぽい大理石で造られた館は、門扉の辺りからは屋根しか見えないような状態だった。
その頑丈だが警備過剰に見える屋敷の奥。
老いた館の当主の部屋は屋敷の中庭に面した、だが南向きの部屋で、明るい夏の日差しの暑さを避けるために、大きなバルコニーに面した窓はすべて開け放たれていた。
皇宮や大公宮の最上質だが穏やかな建具や調度とは、意匠の種類が違っているが、その部屋の壁紙から天井の漆喰に描かれたフレスコ画から、そこにあるすべてが金のかかったものだと言うことだけは間違いがなかった。いや、見方を変えれば、そこは皇宮や大公宮、上位貴族の屋敷よりも「粋な」意匠で飾られているとも言えた。
そこへ、召使いたちを引き連れて、年齢二十代半ばに差し掛かったくらいに見える、一見すると上品な顔立ちの男が入って来た。黒い麻の夏の国立大学院の制服をきっちりと着た姿は、中肉中背で目立ったところもない。
召使いたちが運んで来たのは、この夏には贅沢の極みといえる、氷室で保存されていた大きな氷の塊だった。
貴族でも夏にこんな贅沢をしているうちはほとんどない。もっと風通しの良い場所にある、皇宮や大公宮ではその必要もあまりないとは言えたが、年に何度も出来ない贅沢だった。
「窓からの日が当たるといけない。そっちの……そうそう、お父さんの寝台の向こう側へな……」
召使いに命じる声も優しげな男は、どうやらこの部屋の主である老人の息子らしい。
表情はにこやかで、病気の父親を労わる素直な息子らしい、明るさに溢れていた。
髪油を使ってきれいに撫で付けられた、たっぷりとした髪は漆黒で、やんわりと波打って後ろへと撫で付けられている。少し高く波打った前髪の下の顔は面長で、皮膚がやや浅黒い。これもくっきり太い眉の下の眼窩は落ち窪んでいるが、夏の日差しの中ではその中の眼が鮮やかな紅茶色、とでもいうような赤茶けた、だが緋色を秘めた色なのが目立った。
「……ジグフリード、すまんな。年寄りには暑さがことさら体に応えてなあ。七月の始めでこれでは、八月になったらどうなることやら……」
天蓋付きの大きな寝台の真ん中に、しおたれた体を横たえている老人は、しわがれてはいるが重々しい声で息子へとも召使いへもとつかない言い方で、彼らの労をねぎらった。
老人はもう髪も髭も真っ白だったが、その皺深い彫りの深い顔の中、息子と同じ紅茶色の目だけが生き生きと輝いて見えた。
「いいんだよ父さん。ガスパル兄さんは父さんの代わりに下町の事務所に詰めてるんだから。遊び人の学生っぽの俺なんぞは、これくらいしか仕事もないしさ」
そう言う若い男、この家の次男坊、ジグフリード・メンドーサは、自嘲気味に笑って父親の枕のそばの椅子にかける。召使いたちが静々と下がっていくと、部屋の中は父息子の二人だけとなった。
「もうそろそろ、大学院の授業も、夏の休暇に入るのか? 秋になったらすぐに卒業試験とやらがあるんだろう?」
老人が枕元のテーブルに置かれた飲み物へ手を伸ばすと、ジグフリードは先にロマノグラスのグラスを手に取って、眉を顰めた。
「なんだ、もう温くなっているじゃないか。さっき、一緒に冷たいのを持って来させればよかったね」
ジグフリードはそう言ったが、老人は枕から頭をもたげた格好で首を振った。
「いいんだ。あまり冷たいとかえって飲みにくいんだよ。……お前はガスパルとは違って頭がいいのだ。しっかり学んでもらわんとな。秋の終わりにはやっと卒業だな。……このメンドーサ家から大学士様か。ありがたいことだ」
押し頂くように二番目の息子からグラスを受け取って、中身の恐らくは果実汁らしいものを飲み込む老人の顔は安らかだった。
「あはは。……俺は別に兄さんより頭がいいわけじゃないよ。子供の頃にちょっと体が弱かったから、兄貴と違って本ばかり読む時間があったってだけさ。……ああ、今日が夏の最後の授業で、明日っからはお休みさ。非常事態宣言が解けていてよかったよ。そうじゃなきゃあ、休みになっても別荘に父さんのお供も出来ないところだった」
そう言って笑う顔は、この家、このハーマポスタールの裏社会を一手に牛耳るやくざ最大の一家、メンドーサ家の息子とは思えない穏やかさだった。
「別荘行きは楽しみだな。だが、去年よりももっと動けなくなってしまったから、お前たちに迷惑をかけるが……」
老人がそこまで言った時だった。
それまで老いた父と、その文人肌の次男坊との穏やかな会話が続いていた部屋の扉が、けたたましい音とともに、この屋敷の主人である老人の許可もなく大きな音を立てて開かれたのは。
「パドリーノ・アキレス!」
扉の向こうに見えた、ファミリア・メンドーサの幹部の顔を見るまでもなく、老人、アキレス・メンドーサと、その次男、ジグフリード・メンドーサは、ことの重大性を悟っていた。
中年の、アキレス・メンドーサの腹心がノックもなしにこの部屋の扉をぶち破りそうな勢いで入ってくるなど、ここ十年以上もないことだったからだ。
「……どうした? そんな勢いで」
この事態に、かえって落ち着いた反応をしたのは、びっくりして振り返ったきり動けなくなったジグフリードの父親、老アキレスの方だった。彼は、この歳になるまで、このハーマポスタール一のやくざの親分、パドリーノ・アキレスとして、どんな大ごとにでも平静を保って応対していたのだから。
「パドリーノ……」
厳つい真四角な顔をした、中年の幹部はアキレスに落ち着いた声で促されても、しばらくは口が利けずにいた。
「……パドリーノ、落ち着いてお聞きください。……市内の事務所が……」
「事務所が?」
そう聞き返したのは、ジグフリードの方だった。彼は、これから聞かされる話が彼にとってはとんでもない方向へ向かうことを予感していたのか。彼はそう、言葉を挟むことで自分に降りかかってくる運命から一秒でも遠ざかろうとしたのだろうか。
「……、パドリーノ! 事務所が、事務所が……何者かに爆薬を多数投げ込まれ、建物ごと爆破されたと……」
爆破。
その言葉は、六月に皇帝オドザヤの婚礼のパレードで起きたあの事件で初めて使われ始めた、新しい言葉だった。あの時、「爆破」によって傷付いたのは、女帝オドザヤの皇配殿下の、ザイオン第三王子トリスタンだった。あの時からこの言葉は普通名詞としてこのハウヤ帝国に知れ渡ったのだ。
「落ち着け。……それで、被害は?」
アキレスがそう言った時には、もう中年の幹部はアキレス老人の枕元まで這い寄っていた。
「……お気を確かに。事務所は周辺の建物もろともに崩れ、ガスパル様以下、居合わせた者すべてが爆死なさったと、報告、が……」
この言葉には、さしものアキレス・メンドーサも瞬間的には声も出なかった。
爆破。
そんな手段で襲撃、攻撃されたことは、もちろん、今までのファミリア・メンドーサの歴史にはない。メンドーサ家はこのハーマポスタールの裏社会を牛耳っており、他の似たようなやくざ一家が今さら彼らに面と向かって歯向かってくるという想像はしにくかった。そう、彼らにはこの事件の犯人像はもう明らかだったのだ。
「ガスパルも……と、そう申したか?」
やがて。
やっと口がきけたパドリーノ・アキレスは、今まで体の効かない老人として床に就いていたとは思えない気丈さで、寝台から起き上がっていた。
「……はい。敵はガスパル様が一階から外出なさろうとした時を狙って、表通り、裏通り、事務所の横の左右の路地から爆薬を一斉に窓から事務所に投げ込んで爆破。ガスパル様は最初の爆破で……。爆破物を投げ込んだ奴らはわざと汚い身なりをしていたようで。様子も他のファミリアの鉄砲玉には見えなかったということです。それで、見張りも気を抜いてたようで……。顔も実行直前になって覆面で隠したそうです。彼らは爆薬を投げ入れると同時に、散り散りに逃げ去ったとのこと。……その直後、事務所内へ黒衣の怪人物が侵入、事務所内で息のあったものの息の根をすべて絶ってのけたと! 申し訳ございません。完全に計画されたもんです。それは間違いありません!」
中年幹部はそう言い切ると、悔しそうに唇をかみしめた。実際に深く噛み締めすぎて、血がすうっと流れ出て、髭もじゃの顎を濡らしている。だが、そんなことは本人も、他の二人も構ってなどいなかった。
「お前はどこから報告を聞いた?」
アキレスはもう、寝台の下に揃えられていた、絹地のスリッパに足を突っ込んで立ち上がろうとしていた。
「事務所は全滅。爆薬だけではなく、放火もされたようでほぼ全焼です。しかし、たまたま外に出ていて騒ぎに駆けつけた組員や、近所の馴染みの商家からこちらへ連絡が。どうも、初めの爆破要員はあの……なんとか言う、偉そうな名前の金持ちの商人どもの息子たちの
中年幹部は現場の細かい状態は語らなかったが、部下からはもっと赤裸々に聞き取ったようだった。実は、彼に報告した若者は、吐いたのちに失神し、火傷と怪我で今、生死の境をさまよっていた。
「他のファミリアの連中にそんなことが出来る鉄砲玉なり、暗殺者なりは見当がつきません。……パドリーノ、いかがいたしましょうや!? 螺旋帝国の奴らはともかく、
必死の面持ちでそこまで話した、中年幹部の前で、アキレスは一度は気丈にも寝台から立ち上がった。
だが、もう一年以上も内臓をやられて寝たきりの老人には、そこまでが限界だった。
「……お父さん!」
「パドリーノ!」
寝たきりだった足は、老人の痩せ衰えた体さえ支えきれなかった。
倒れていくパドリーノ・アキレスの体をしっかと支えたのは、彼の次男坊。
国立大学院を秋には卒業する予定の、学者肌の次男坊だった。
「……ジグフリード、すまない……。俺は金持ち商人連中のドラ息子の
老アキレスは、そこまで一瞬で状況を読み取ったまではさすがだった。だが、もう彼には話し続ける力さえ、もう無いのだった。アキレスは真っ白な頭をうつ向けたまま、しばらくは咳が止まらなかった。
「お父さん!」
「とにかく、メンドーサの組織をこんなことでガタつかせるわけにはいかねえ。……ああ、ガスパルがいなくなったとあれば、ファミリアの命運はお前に委ねるしかない……。なんてこった! 俺はお前の母親に向ける顔がない! 学問好きのジグフリードをファミリアの外で自由にしてやってくれと、あれがあれほど言っていたのに。俺はガスパルにもっと注意すべきだった! 素人みたいな連中でも、後ろに螺旋帝国の手練れの組織が絡んでれば、こんな可能性さえありうると。なのに、なのに……」
時すでに遅し。
がっくりとうなだれるアキレスを抱きかかえたまま、ジグフリードは途方に暮れていた。
それが、たった一ヶ月半ほど前のことなのだ。
時は八月の末。
このハーマポスタール市内の裏社会を総まとめして支配してきた、ファミリア・メンドーサ。
その頭が老アキレスから、正式に次男のジグフリードに譲られてから、時はふた月にもなっていなかった。病で隠居同然だったパドリーノ・アキレスの代わりには、次代を決定された長男のガスパルがファミリアの頭、パドリーノとしての任に当たっていたが、彼は市内の事務所もろともに七月の初めに爆破され、命を落としてしまった。
老アキレスはすでに寝たきりに近い状態だったが、長男ガスパルの痛ましい死と同時にすっかり意気消沈し、この夏を超えるのも危ぶまれている。
メンドーサ一家のコロニア・エスカロンの邸宅は戦争にでも備えているかのように、堅牢な塀の上に物見を立てるほどの警戒となっていた。
そして、市内の破壊された事務所は跡地に再建されることなく、まったく別の場所に移されていた。
「思い切ったじゃーん、ジグフリードちゃんたら、ジャルガランのお誘いにのって、お隣さんになっていただけたなんて、俺っちの殿下ちゃんは大喜びなんだよー」
そこは、ハーマポスタールの傭兵ギルドの事務所。
実質的にこの傭兵ギルドの差配を一手に行なっている、ジャルガラン・ロコの仕事部屋だった。
部屋の主のジャルガランは、大きな事務机の向こう側の肘掛け椅子に座り、他の二人の方は見もせずに書類仕事に精を出している。
ジグフリードはこの部屋に案内されて入る時、無意識に部屋の大きさや間取りを確認し、周囲の気配に神経をそばだてたが、部屋はそう広くもない。窓は一つだけで、それも鎧戸で覆われていた。だから、ジャルガランの机の上や、彼のそばの床には、昼間なのにランプが置かれている。
だが、部屋の三方向は本棚で、そこには傭兵志願の連中の書類がアンティグア文字の順番で整理され、紙挟みに挟まれて並んでいる。
ただ、その本棚が霞んで見えるほど、部屋には煙草の紫煙が霧のようにたゆたっていた。ジャルガランの机の上には、雑多な書類や陶器のカップと共に、大理石で出来た、それで人をぶん殴ったら間違いなく昏倒するか死ぬかしそうな重々しい灰皿が鎮座していたが、その中にはうず高く吸い殻が盛り上がっていた。
一緒に入ってきたうるさい男に、ジャルガランの机の前に置かれた、二つの肘掛け椅子の一つに座らされたが、部屋の主のジャルガランは、ジグフリードの方へちらっと目をやって黙礼したきり、仕事に戻ってしまっていた。善意に解釈すれば、その不遜な態度は、隣に引っ越してきた日に挨拶に来たので、もう「ご近所さん」的な扱いをされているというわけだ。
ジグフリードは、見えないようにそっとため息をついた。
新しいファミリアの事務所は、前の事務所よりずっと手狭で、建物も古い。このハーマポスタールの建物は長屋形式で、建物の前面が密着した作りのところが多いが、ここも例外ではなかった。
一応は屋根裏まで入れれば四階建てで、地下室もあり、やくざの事務所としては使い途に不足はなかった。
前の事務所はその点、広い一軒家の建物で、隣との間に路地があった。それが爆薬を建物の四方から投げ込まれる原因となったのだ。だから、今度の事務所は手狭ではあっても警備の面ではやりやすくなったとも言えた。組員もかなりの数が死傷したから、引っ越してきてみれば、狭くて困るということもなかった。
ファミリア・メンドーサの新しいパドリーノであるジグフリード・メンドーサはこの街の主人、ハーマポスタール大公カイエンに面識はなかった。
だが、今、彼の隣の肘掛け椅子にふんぞり返り、長い足をジャルガランの仕事机の上に投げ出して、自分の紙巻煙草に火をつけた男の美麗極まる顔。実際にハーマポスタールを、表からも裏からも牛耳っている男、彼よりもやや年上の大公軍団の軍団長にはもう、面識だけはあった。
それは、この男がたまたま用があってファミリアに接触してきた時からだ。それは先代のアキレスがまだ壮健なパドリーノだった頃で、彼は何かの用事でこの男が、密かに私服でコロニア・エスカロンの屋敷にやって来た時に父親から紹介されたに過ぎない。
それだけではなく、今までにも、大公軍団軍団長にして、傭兵ギルドの総長であるイリヤには、あの、
読売りに金を掴ませて、無理矢理に公表を押しとどめていたファミリア・メンドーサの事務所爆破事件は、一ヶ月以上が経った今は、もう人々の口から口へと噂として広まっている。この場所に新しく事務所を構えたのも、もう数日のうちにはハーマポスタール中の市民たちの知るところとなるだろう。
そして、それは裏社会の雄であるファミリア・メンドーサが、傭兵ギルドと手を組んだらしいという噂にもなっていくはずだ。
「……ここは、下町へも金座へも繋がりがいい。その上に、あんたの傭兵ギルドの事務所の隣なら、螺旋帝国の手下の奴らもそう簡単には手出しが出来ない。ここ数年、あんたらの事務所に特に剣呑そうな兄さんがたが出入りするというので、前の商店が逃げ出して、空き家だったのも幸運だった」
ジグフリードは、ため息をつきながら、自分も懐の銀の葉巻入れから、香り高いのを一本取り出して火をつけた。このハウヤ帝国の南、バンデラス公爵領に近い場所で作られている最高級品だ。
大学院の学生だった……つい一ヶ月前までは、学友たちに合わせ、安い紙巻煙草を休み時間にちょっと吸うくらいだったのに、たったひと月ちょっとで変われば変われるものだ。そう思えば、またため息が出た。
「まさか、大公殿下とも関係が深いあんたらが、うちの事務所の爆破襲撃事件に関わっているとも思えない。そうだったら、コロニア・エスカロンの屋敷の方も同時にやられてただろうからな。帝都防衛部隊に密かに命じて夜やらせれば、十分に可能だったはずだ。……だから、ここを新しい街中の事務所にするのは、俺たちにとっては悪くない話だった、それだけのことだ」
もう、メンドーサではコロニア・エスカロンの邸宅は組員の精鋭で取り囲まれ、外からはあまり分からないが、要塞のような様子になっている。メンドーサ以外のやくざ組織も、事件を知るなり同じような行動に出たから、ジグフリードは事務所爆破襲撃事件が、他の組織の犯行だとも思ってはいなかった。
ジグフリードの低い声は、やっと机を挟んで両側に座っている二人の男たちに聞こえるだけの呟きのような音量だったが、ここの傭兵ギルドの名前と実務の双頭を務める二人には、それで十分だったようだ。
髪の色は違っているが、同じような鉄色の目の色をした、どこか似通ったところのある二人。
それは、もう今更ではあるが、大公軍団軍団長のイリヤボルト・ディアマンテスと、彼に傭兵ギルドの方の差配を一手に任されている、ジャルガラン・ロコの二人だった。
「よかったー、俺たちは疑われなかったのねぇー。……ごめんねー。六月の皇帝陛下の結婚式からこっち、上の方でも大変でさ。あんたんとこの事務所の襲撃事件を殿下ちゃんに話す隙も、つい先日までなかったのよ。まー、桔梗星団派のやったことだから、順番のいつかには殿下ちゃんに話したはずだったけどさー。ま、どこでも優先順位ってのがあってねえ。でも、話した時には殿下ちゃんはもう、他の奴から聞いてた、って冷静で……ちょっとつまんなかったわぁ」
ジグフリードは、いつもの奇妙なオネエしゃべりの上に、どこか馬鹿にしたようなイリヤのこんな言い草にも顔色一つ変えなかった。市内の事務所を爆破され、彼は兄だけでなく何人ものファミリアの幹部をも失っていた。コロニア・エスカロンの屋敷の警備を厚くする一方で、街中の支配には屋敷からでは遠すぎた。どうしても新しい事務所は必要だったのだ。それも、今度は簡単に爆破などされないような場所に。
「……それは想像がつく。別に気にしてはいない。何よりも、……国立大学院に、卒業まで通いきれなくなった俺に国立大学院の修了証書を出してくださる、という大公殿下、そして最高顧問の先生にはお礼のしようもない。あんたらに分かるかは知らんが、俺は国立大学院を卒業することにこだわりがある。……俺たちのような稼業の者で、国立大学院を卒業するような者は今までになかったからな」
(親父もお袋も、そういう俺を認めてくれていたんだから)
ジグフリードはもう、あの、兄の死と事務所の襲撃を知らされた時のように、国立大学院の制服姿ではなかった。黒い洒落た上着とズボン、真っ白なシャツ、真夏にまっ黒な絹のタイ。それは喪服に他ならなかった。
「そうそう、良かったよねえ。うちの最高顧問の先生が国立大学院の、ええと、イスキエルド先生とかいう偉い先生に口利きできてさ。俺っちもこの数年で、何人も学者先生と知り合いになってさぁ。ああいうこの国の頭脳派の世界でのあれこれも分かるようになったんだよぉ。学者のおっさんたちって、基本的には頭が理詰めで余計なこと喋らないから、話の通りが早いんだわ。まあ、変人ばっかりではあるけどねぇ。やくざの息子が大学院に通ってたってのにも驚いたけどぉ〜。それも卒業後は助手として大学院に残ることが決まってた、卒業試験で首席卒業間違いなしって言われてた俊才だったなんてさあ!」
自分のことを棚に上げた、あまりに軽々しい言い様に、ついひと月前までは学究の徒になるべく勉学中だったジグフリードは紅茶色の目をギロリと相手に向けたが、イリヤはそんなものはにべにもしなかった。
実際に、イリヤはメンドーサ家の事件を話した時、カイエンとマテオ・ソーサがジグフリードが国立大学院の学生と聞いた途端、彼の大学院卒業の方を心配しだした時には、あっけにとられたくらいなのだ。
話の流れでなんとなく、次の頭になるしかないジグフリードが、国立大学院の卒業直前であることを話したら、カイエンと教授は顔を見合わせ、教授の方がよく分かっていない顔のイリヤに、懇切丁寧に説明してくれた。
(そういう人物なら、なんとかして大学院を卒業させてやらないといかんね。……そうしないと、なんと言うか、そのジグフリード・メンドーサ君には恨みというか、心残りというか、心に納得できないところが残って、いざという時にどういう形で、どっちへ向かって吹き出すかわからんよ。……大公軍団の女性隊員には、大学院だの医薬院だのに入りたくても女性だから入れなかった、って気持ちをバネにしてウチに入ってくれた人で、優秀なのが多いだろう? ジグフリード君の方はその反対だ。あのまま学者として名を残したかった、という後悔の念、恨みの念が残れば、やくざの親分として暴力集団を束ねる人物としちゃあ、危険な弱点になるよ。卒業なんて形式だけかも知れんが、その『形式』が整って面倒な家業を継ぐのと、無理矢理に継がされるのじゃ、雲泥の違いが出てくるだろうよ)
(ここでそういう部分で恩を売っておけば、その、事務所の爆破事件の犯人として、ウチや皇宮への「疑い」があったとしてもそれは霧散するだろうしな)
と言ったカイエンの顔は真顔だった。
大公軍団とやくざ関係とは今まで、付かず離れずでやってきた。ここでそういう事件があったとなれば、桔梗星団派にはファミリア・メンドーサという、このハーマポスタールの裏を支配するやくざの中でも最大の組織が邪魔なのだ。敵の敵は味方。ここで仲良くなっておくとしよう、と彼女は言い、マテオ・ソーサも同意したのだ。
「こうやって恩を売るのは、うちの殿下ちゃんとかには本当は、いやーんなことなんだよ。それは理解しといてね。俺ら殿下ちゃんの裏方への気持ちとは別にしといてよ。利害関係に無関係とは言わないけど、殿下ちゃんも最高顧問のせんせーも、本心からあんたがちゃんと卒業扱いになるように、って言ってたんだからさ」
イリヤの言葉はあっけらかんと明るく、そして軽々しかったが、ジグフリードはその内容はきちんと理解した。
「その点はちゃんと理解している。そんなところへ気配りしてくれたからこそ、あんたらを疑うのはやめたんだ。安心してくれていい。……それで? 新しい事務所の開設と合わせたみたいに、大公殿下から俺に特別に話があるというのは?」
ジグフリードが他のふたりの紙巻煙草とは違う、重厚な葉巻の匂いのする煙を吐くと、ここで初めてジャルガランの方が、丸い眼鏡越しに、まともにジグフリードの顔を見た。
「パドリーノ・デ・ラ・メンドーサ。ここのイリヤの『最優先で唯一』の『ご主人様』が、……おたくの経営している店の中で、客の出入りが完全に外の目から遮断されている店を、ある方との面会に使わせてほしいそうです」
ジャルガランはこの台詞をジグフリードに伝えるためだけに、今日いま、ここで話に付き合っていたらしい。前にイリヤに冗談半分に言われた通りに、カイエンのことを「ご主人様」と言ったので、イリヤは殊更にニコニコしているが、その辺りの事情はジグフリードには分からなかった。
ジャルガランはそう言い終わると、すぐにイリヤの長い足が乗っかった大きな机の向こう側で、広げた書類を見ながら、一心不乱に螺旋帝国渡りの算盤を弾き始めてしまった。
そんなジャルガランをさすがに苦笑いして見ながら、イリヤはくるりと肘掛け椅子ごと器用にジグフリードの方へ向き直った。それでもまだ彼の長い足の先は、ジャルガランの机の上に乗っかったままだ。
今、ジャルガランが言ったこと。
それは、カイエンがあの、熱心なアストロナータ信徒と判明した、螺旋帝国の副外交官、夏侯 天予と秘密裏に面会するための場所を紹介して欲しい、ということだった。
その時初めて、ジグフリードは同じ紙巻煙草でも、イリヤの吸っている銘柄は、最高級のものであることに気が付いた。
この、今やこの街の大公殿下の「愛人二号」で、大公軍団という一つのアルマにも匹敵する人数を支配する男の給金がいくらか知らないが、貴族や豊かな商人の好む葉巻を選ばず、それでいて最高級の紙巻煙草を選んで吸っているところに、イリヤの性格の一端を見たように思えたのだ。
「お煙草は必要なさそうですけど、なんか飲みますぅ?」
イリヤはそう言いながら、よっこらせ、とジャルガランの机の向こうの方に無造作に置かれていた、青ラベルのロン酒の瓶をこれまた長い腕で、近くへ引き寄せた。ロン酒は砂糖黍の蒸留酒で、安酒といえばこれ、といったものだが、黄金色で青いラベルのものはその中では最高級品とされている。
ここにあるのは、庶民的な紙煙草も、庶民的なロン酒も、その中では最高のもの。
なるほど、とジグフリードは心の中で納得した。
彼らは「貴族」や「裕福な金持ち」の一員ではないということだ。今、高級葉巻を吸っている自分とも。だが、王侯貴族ではない、という点ではここにいる三人は共通している。このハーマポスタールの「裏社会」に半身なり、全身なりを置いているということも。
「まさか、大公殿下ご自身が秘密裏に面会したいお相手がいるということですか?」
ジグフリードはイリヤのした酒の話には曖昧にうなずいたまま、話を前に進めていった。彼も今やファミリアの頭で、そうそう暇な時間があるわけでもなかったからだ。少し言葉遣いが丁寧になってしまったのは、話の中に大公殿下の名前が出たからだった。大公相手の仕事となれば、イリヤの向こうには大公がいると思って話さなければならない。
大公カイエンは、シイナドラド皇子の夫の他に、元フィエロアルマの将軍だったヴァイロンと、目の前にいる軍団長の二人を愛人にしている、女艶福家としてすでに読売りなどに幾度も書き立てられる有名人だ。それが他の男と逢引したい、と言うならば、先ほどジャルガランが言ったほどに出入りの見張りが厳重な店でなくとも良いはずだった。
「へっへえ、さすがに大学士さんは話が早くていいね。いいやあ、皮肉じゃないんですよぉ。今度、ちょっとおたくの襲撃事件の容疑者でもある、螺旋帝国の桔梗星団派には絶対に知られずに、会いたい人がいるんだって言われましてねぇ」
イリヤは机の上の粗末な陶器のカップが汚れていないのを確かめると、二つのカップにどくどくとロン酒を注ぎ、一つをジグフリードの前に置いた。
「我らもアジトのありかを把握しきれていない、桔梗星団派への報復を果たすには、おたくらの協力が必要だ。……いいでしょう。ちょうどいい店が、それも金座のそばにあります。お貴族様も出入りする界隈ですから、出入りを見られたくない方々が使う店です。普通は話し合いに使うところではないので、適度に賑やかで、他の客はその店の本来の目的の方に集中しておりますから、ちょっと目立つ方が入られても気が付かないでしょう。いや、気付かれても出歯亀心を引く場所ではありません」
「うーん。別に他の客に出歯亀心を引かれても、殿下ちゃんは今更、困らないんだけど、殿下ちゃんのお客さんの方が、そういう場所だと知り合いに会う可能性がありそうなんだって言ってたなあ。秘密倶楽部みたいなところ? それも、お貴族の中にも桔梗星団派と繋がりがあるのがいるそうでさ、まずいんだって」
イリヤは金座のそば、と聞いてあのアルフォンシーナがいた、高級娼館を思い描いたようだ。
「そういうことなら、なおさら、いま私が思いついた店は適当かと思いますよ。個室であれこれするのが目的の店や、上流階級の社交の場でもないんです。……お客の目的がはっきりしていて、それが行われる場所以外の部屋には、基本的にはお客は立ち入らないところです。……まあ、賭場なんですが、いかがでしょう?」
ジグフリードは大学院に通っていたから、兄のガスパルとは違って、そういう場所に足繁く通ったり、経営に直接関わっていたのではない。だが、やくざの組織の最大の金集めの場といえば、なんと言っても賭場だ。賭博自体はこのハウヤ帝国では禁止されてはいない。だから、最下層の下町から金座の近くまで、多くの賭場が日常的に営業されている。
「はああ! 賭場ね! それなら、お客さんは個室に通されたりしないで、大部屋で金儲けに夢中、ってわけだぁ! でも、お貴族様はそんなところへの出入りは見られたくない。出入りも凝った作りで賭場に入れるようになってるんだろうねえ。いいんじゃない? でも、おたくの賭場に殿下ちゃんがお話し合いに使えるようなお部屋があるの?」
ジグフリードは、深くうなずいた。
「はい。賭場にはサシで勝負したいお客様用のお部屋もあります。そっちは大部屋の賭博場に近いのでお勧めしません。でも他に、お支払いの溜まったお客様に、店側から特別に話があるときに使う奥の部屋があるんです」
イリヤはすぐにこの意味がわかった。ロン酒を口に運びながら、まともな男には気持ち悪いだけの芸術品のような顔に喜びの表情が浮かぶ。
やくざ稼業、それも学生からパドリーノになったばかりのジグフリードには、その笑顔はただ、恐怖しか与えなかった。もっとも、新米パドリーノではあっても、ジグフリードの表情は固く変わらないままだった。
あの日、事件を知らされた日に、父のアキレスの部屋を見舞った、優しい学究肌の柔らかい笑顔の息子は、もうここにはいない。兄のガスパル以下、幹部の葬儀以来、彼はあまり表情を変えない、冷たい表情の男に変わっていた。
「あー、ツケの溜まった悪いお客様をぎゅうぎゅういわせる部屋ね。……それでいいわ。そこなら、殿下ちゃんもいくらでも変装して入れるねえ。相手の困ったちゃんも、金座界隈に行くのは大丈夫だそうだから、その店と限定されなきゃいいんだし。……ねえ、その賭場、お貴族のご婦人も来るの?」
この質問には、ジグフリードははっきりと答えることが出来た。
「いいえ。さすがに女性は賭場の女賭博師と、接待の女はいますが、客はすべて男です。いかがわしい逢引なんかには使っていません。正真正銘、賭博だけの店ですよ」
言いながら、ジグフリードはひやりとした。
大公殿下カイエンは、大公軍団の黒い制服姿で街中の事件現場などにも現れることで有名だ。それは、大学院で勉学に勤しんでいた彼でも知っていた。大学院といえども、貴族連中の醜聞などに興味を示す輩はいないわけではない。
彼は、自分の提案がイリヤの求めている条件に合致している自信はあった。
それでも、カイエンは女性で、それも貴婦人である。それが制服以外の服、それも男の振りで賭場に入れるのか、と今さらに心配になったのだ。
だが、イリヤの答えは簡単なものだった。
「あ、そ。それじゃあ、お供は地味な野郎の中から選びましょ。出入りが複雑でわかりにくいなら、俺っちも他のも紛れ込むのは可能だろうしね。ありがとさん、パドリーノ。それじゃ、細かい段取りはこっちで相談して、明日にでも伝えるから。そっちはそっちで、店への出入りが絶対に客からも外部からも悟られないように手配してね。よろしくぅ」
そう言うと、イリヤはカップに残ったロン酒を飲み干し、煙草をうず高く吸い殻の積もった灰皿の縁で押しつぶすと、灰皿の天辺に放り投げた。そのまま、彼は仕事に没頭しているジャルガランに挨拶もせず、ジグフリードも置いてけぼりにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
傭兵ギルドのジャルガランの部屋で、イリヤと新パドリーノ・デ・ラ・メンドーサのジグフリードが面会した、その一週間ほど後。
カイエンは右足に装具師のトスカ・ガルニカが彼女のために作った装具を着け、その上にややダボついたズボンを履いて、金座のとある場所で食事の席についていた。ズボンは太くて不格好だが、裾を細身の、薄い皮を編み込んだ夏用の長靴に突っ込んでいるので、野暮ったくは見えない。
ズボンの上には夏の透けるような絹地で作られた、格好のいい上着。その下のシャツの下には暑いが下着の上に布を巻いて体型を隠していた。長い髪は夜でも光が当たれば、その独特の紫色が目立つので黒く染められており、貴族や豊かな商人のうちの色小姓のように、後ろで一つにまとめていた。
そして、いつぞや、アルフォンシーナのいる娼館を訪れた時のように、髪をちりちりに鏝で巻き、さすがに緑色ではない地味ななりにひさしのある帽子をかぶり、今回は念入りに眼鏡までかけたマテオ・ソーサが、彼女の主人役だった。
アルフォンシーナがいた高級娼館を訪れた時には、影使いのナシオとシモンが外部から警備に当たっていたが、今日は見事に男装した影使いのセレステと、意外な人物が普通の市民の格好で付き従っていた。
他には、もう一人の影使いのナシオと、大公宮の警備に新しく就任したエステファノがそれぞれ、別の客として、先に賭場に潜入しているはずだった。イリヤも「絶対にバレずに入り込んで見せる」と息巻いていたから、あの目立つ顔をどうにかして入り込んでいるはずだ。手の内に入れて久しい、あの
実は、ヴァイロンも心配して来たがっていたが、彼の場合にはあの体格がどうにもならない。だから、留守番としてエステファノの代わりに大公宮の奥の警備に当たっているはずだった。
「前に先生が言ってたけど、普通の格好をしていると、本当に普通に見えるんだなあ。……ちょっと驚いた」
カイエンがそう言いながら、見上げた先には、くそまじめな冷たい顔。
濃い灰色の髪をきっちりと撫で付けているのはいつも同じだが、その頭にあの褐色の長い筒型のアストロナータ神官の帽子がないだけで、彼の顔はその真っ青すぎる目以外、目立つところもなく、豊かな商人の家の勘定係の番頭のようにしか見えなかった。
いつぞや、マテオ・ソーサとともに、国立大学院のマルコス・イスキエルドの研究室へいった時と同じような服装だ。
「……恐れ入ります。この度は、相手が相手、話が話ですので、本当に経験な信徒かどうか確認できる、アストロナータ神官が一緒でないと困るのですから、仕方がありません」
「まあ、それはそうだ。だが、今度みたいな俗な場所は初めてだろう? 大丈夫か」
もうカイエンは読売りの醜聞記事の常連だし、仕事でもアルフォンシーナの身請けの時も、賭場だの娼館だのの水商売の店には数え切れないほど、出入りしている。だが、このこの国の宰相閣下、アストロナータ神官のサヴォナローラはそうではないはずだった。
本当はサヴォナローラは弟弟子で武装神官のリカルドを伴いたかっただろう。だが、彼はカイエンの護衛のシーヴと同じく、古のラ・カイザ王国の血を引く目立つ外見なため、今日の護衛の任はセレステ一人の肩にかかっていた。
これにはまず、「賭場の大広間は薄暗いが、そこに何人も連れ立って来る客はいないので、人数が多いとバレやすい」とメンドーサ側に注意されたことがあった。また、カイエンとしては不安はあったが、ここで大公宮や大公軍団が、がファミリア・メンドーサを「信用している」ことを目に見える形で見せることの利点を重視したこともあった。
「大商人の財布持ちの番頭役くらいなら、ご主人様についていけばいいのですから、大丈夫です」
その、「賭博場にやってきた大商人のご主人様」役のマテオ・ソーサは二人の会話を聞いて、くすくすと笑いを漏らした。
「お二人とも、そろそろ役に入ってくださいよ。そら、案内人が来ました」
この時まで、彼らは金座近くの洒落たレストランテの奥の個室で食事をし、ちょうどデザートまでのコースが終わったところだった。
店の従業員が案内してきた男は、金座の酒場の
だが、カイエン達が見れば、本職とは目の色が違う。もしかしたら実際に
「ちょうどいい頃合いだと思いまして」
そう言う声も明るいが、目だけは笑っていない。もしかしたら、メンドーサ一家の組員なのかもしれなかった。
「賭場はすぐ近くですが、この店の奥から秘密の地下通路で参ります。……一応、申し上げておきますが、
カイエン達は顔を見合わせた。
「それじゃあ、おたくの皆さん専用の通路となっている、と言うことですな」
教授がそう聞くと、男、メンドーサ一家の一員は、しっかりとうなずいた。
「はい。うちの者以外は他のファミリアの者も知らない通路です。湿気っていて気味が悪う御座いますが、ご辛抱ください」
カイエンは教授の横でただ黙っていたし、サヴォナローラも、セレステも黙っていた。ここに、
「では、ご案内いただこうかな」
教授は、装具をつけているので、いつもの杖を持たないカイエンと違い、やや派手な紫檀の杖を突いていた。それでも小姓役のカイエンが教授の空いている方の手を取ったのは、いかにもお小姓らしく見せるためもあったが、彼女自身が杖がないとまだ足元が不安定に感じるからでもあった。
「では、皆様、こちらからどうぞ」
メンドーサの小男はずんずんとレストランテの個室の奥へ歩く。もう、その時にはこの店の従業員は姿を消していた。このレストランテも、元をたどればメンドーサ一家の傘下の店なのだろう。
「さ、こちらです」
小男は部屋の奥の壁の前に立つと、漆喰の壁に漆喰を熱く塗り、奥の壁いっぱいにレリーフのように描かれた女達の列の絵の中の、花をささげ持った女の像の足元の方の一部分をほんの少し押すようにした。
すると、音もなく壁の一部が女の絵の形のまま、くるりと回転し、階下へと繋がる、細い細い階段が現れたではないか。いかなる仕掛けかは分からないが、そこは機械式に決まった場所をちょっと押せば開くようになっているらしかった。
「とても狭いですので、お足元にお気を付けになってくださいませよ。ええ、そちらの足元の危ういお二人を挟むようにしておりていかれたがよろしいでしょう」
小男はそう言うと、さっさと階段をおりていく。いつの間に取り出したのか、その手にはつり下げ式の小さなランプがあった。
男装したセレステ……その姿は人の印象に残らない顔や姿のシモンやナシオにそっくりだった……がすっと立って先頭になり、女の姿のレリーフが半回転して作った狭い隙間をくぐり、教授とカイエンが手を繋いで前後になって続く。自然としんがりはサヴォナローラになった。
サヴォナローラが隙間をくぐって階段にかかると、先導する小男から声がかかった。
「旦那、そこの女の像、左側へ回してください。そう、力を入れる必要はありません」
サヴォナローラが女の像の形をした扉をそっと左側へ押すと、扉は機械式の仕掛けがあるらしく、あとは自分で回って元の平らな壁に戻っていった。
「……足元がまだ見えないでしょう。なあに、目が慣れればこのランプ一つでも見えるようになります。狭いですからね」
小男の言うように、カイエン達はしばらく目を慣らすために階段で立ち止まっていた。すると、やがて男のランプが照らす光だけで、足元の階段が見えるようになってきた。
「そろそろよござんすか。……では、参りますよ」
カイエン達はこうして、狭い階段を降り、レストランテの建物の下、地下へと続く洞穴のような道を進んでいったのだった。
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