第7話 夥しい罪のゆらめき
男の手が、わたしの身体を這っている。
動けない。
耳元に吐息が吹きかかる。
「お前は何も見なかった。何も知らなかった。そうだな?」
知っているくせに。
男がわたしに命じる。何を問われているのかわたしには分からない。いや、違う。答えられないのではなく、声にならない。
罪に、心が、触れる。
男は、ハンカチを取り出してわたしの目を覆った。視界が闇にふさがれる。何も、見えない。自分も。男の顔も。部屋の中も。血のような赤い夜景も、何も。
見えなくなる。
聞こえる、だけ。
感じる、だけ。
男の指を。
かすかに荒くなる息遣いを。
触れる頬。整髪料の香り。頬に触れる唇。男の臭いを。
目ではなく。肌だけで。記憶のなかに、思い出す。
ふいに、ぞくりと首筋が寒くなった。わたしは力なくもがく。目隠しされているせいか、自分の髪が肩から流れ落ちて胸元をかすめる、そんなわずかな感触さえもが、まざまざと感じ取れた。
「レン」
耳元に低く、男の声が入り込む。吐息が耳朶から首筋を伝う。熱い。
「返事しろ。分かったな?」
なのに、氷のような指が。
……ぁ、あ……
わたしの、命を掻き分けて。
必死に自分自身を閉じ、抗おうとする、わたしを。
あからさまに。
あらわに、してゆく。
最後の拒絶を押しのけられ、剥きだしにされて。
触れるか、触れないか……まだ、きっと、本気で触れられてすらいない、はずなのに。ほんの少しだけかすめるその感触に、全身がふるえて、止まらない。
ろくに立ってすらいられない。膝が力を失って、無様にゆるぐ。
記憶の底から何かがもう、熱く染み出してしたたる。
知っている。この後何があるのかを。ともすれば男に身を預けようとして、あさましくも、わたしは闇におぼれる。
誰が、泣いて、いるのだろう。
歓喜のうめきを、惨めにも洩らして。
何も、見えない。自分が、どこにいるのかも、分からなくなりそうになる。
黒い繭に閉じこめられたみたいに、真っ暗だった。
……こわ……くて……
たまらない……
違う。
鮮明な意識が、唐突な光の矢となって舞い戻ってくる。
後悔にも似た痛みが、わたしの理性を突き刺す。
分かっている。わたしが怖れているのは、わたしの身体だ。あらがいもせず、ただふるえるだけ、ただ喘ぐだけの、今、ここにいるわたし。肉体の闇に、快楽の檻に閉じこめられたわたし。見ず知らずの男の眼に、みだらで浅ましい姿をひらいて晒しているであろう、別のわたし。
この
すぐに、何もかも怖くなくなってゆく。
わたしは、わたしではなくなってゆく。
あの、赤い手に。
連れ出されるまで。ずっと踊っていた。
糸でつながっただけの色のない木偶人形みたいに。ばらばらに、壊れた。わたし。では、ない、今の。
ふと。
「泣くな」
頬に、男の唇が当たった。
心に伝い入るような、優しすぎる、痛いぐらいに愛おしい感触が、冷たく頬をぬらしていた涙をぬぐう。
押し殺されたささやき。ふるえが、とまらない。やさしくしないで。
「泣かなくていい」
後はもう声もなく、触れる唇の動きだけが、わたしの名のかたちをいつまでも繰り返している。
その、声を、聞いただけで。
自分が、例えようもなくおぞましいものに変わってしまうのを感じる。身体から流れ出るのはそこに存在してはならない何か。引きずり堕とされる赤い血。糸を引いて粘る赤い血。水面をどす黒く染めてゆく夥しい罪のゆらめき。わたしの愛の残骸。
違う。愛してなど、いない。
わたしは決して、涼眞を、弟を愛してなどいなかった。そんなことをすればわたしのすべてが否定されるから。愛されることも、愛することも、何もかも。だから、この男は、決してわたしの弟などではない。わたしは姉として、弟と血の繋がりを越えることなど望んでもいなかったし望もうとも思っていなかった。そんな汚れた感情は、弟の名を傷つける。弟の未来を、汚す。弟の立場を、窮地へ追い込む。それだけは誰も絶対に望まない。父も、母も、社会規範のすべてが倫理が道徳が理性が絶対にそんな汚れたけものの存在を許さない。女の臭いをさせた臓器を、持つことを、絶対に、許さない。
だから。
わたしは。
消えようとした。
声が、わたしの中をまさぐる。肉の音が私を支配する。
支配され、押し広げられ、掴まれ、潰され、耳朶に首筋に凶暴なしるしをつけられ、欲望をかさねられる。
身体の中にあるすべてをだらりと放出しながら、なのに、そのすべてが闇の中に取り残されている。わたしは、ここにいるのに。
捨てていいものは、どうでもいいものだけだ。なのに、身体ばかり大きなこどもが、泣きじゃくりながらしがみついてくるのだった。
恋獄 上原 友里@男装メガネっ子元帥 @yuriworld
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