第6話 人のかたちをした皮

 唇が近づく。

 眼が、近づく。

 吐息が、近づく。

 男の指が、わたしの髪に差し入れられる。色気も何もなく、そっけなく束ねていただけの黒髪に。

 ひとつにまとめていたゴムを振り解かれる。私は後ろに髪を引かれ、頭をのけぞらせる。


 乱れ髪が、黒く、重たく。肩から背中に散らばる。

 いつの間に、こんなに、伸びていたのだろう。

 高校生のころは、肩につくか、つかないかぐらいの幼さだったのに。


 こんなにも。

 狂おしく。

 黒々と、伸び。

 女の髪となって。


 いきなりの唇がわたしを奪う。

 何の、甘やかさもなく。

 ただ、激しく。

 そのするどい眼差しで食い入るようにわたしを睨み据えたまま、深く、深く、唇を重ねてくる。

 強引に口蓋を割って、舌を差し入れ、言葉を、喘ぐ声を殺し。

 吐息でわたしを支配してゆく。

 からめた舌が、濡れた音を立てる。男の味を、思い出させられる。知らないはずの、唇の味。


 そうやって、少しずつ、いつの間にか、わたしの理性を削っ――



 胸元へと這う指がためらいもなく、スーツの下の白ブラウスを引きちぎった。ボタンが床にこぼれ落ちる。

 乾いた音。

 まだ卒業式の装いのままだったことに、わたしはようやく我に返って気づく。こんなに暗くなるまで、誰もいない部屋で、いったい、今まで、何をしていたのだろう。ぼんやりと思い返す。


 あの電話のあと。わたしは。



 左の手首を持ち上げられ、硝子窓に押さえつけられたまま。ゆっくりと前をはだけられ、反対側の肩だけを、露出させられる。

 素肌が硝子に触れる。

 背中が凍りつくように冷たい。全身が粟立つ。


 男の手が、キャミソールの肩紐を掴む。

「どうして逃げようとしない」

 ちぢこまる身体をきつく縛り上げていた下着を、巧妙な指にはずされる。束縛から放たれ、暴かれた乳房が、キャミソールの下で重力に逆らい、揺れる。わたしは愚かな吐息をもらす。もう、そこに、わたしを隠してくれるものはなにもない。

 わたしの足下に広がるのは、深く黒い湖に張る薄い氷。その不安定な均衡が、たまらなく恐ろしい。

 一歩でも足を踏み出せば。

 落ちる。


 恥、という言葉を知らないかたちが、キャミソールの薄い生地にこすれて、つ、と持ち上がっている。

 その、かたちを。

 これ以上、見られたら。

 触れられたら。


 この、身体に。

 気付かれる。


 布越しの指先がわたしの吐息を転がす。

 丸く円を描くようにして、わたしの胸を、男そのものの骨張った手が、掴み、揺らし、持ち上げ、憎むように握り潰す。

 揉み寄せられる力を、次第に強められて。

 男の手にすら余るほどの恥ずかしいふくらみが、キャミソールの胸元から強引に掴み出され、強く、ねたましく、揉みつぶされる。


 こんな、ものが、わたしの身体にあるから。

 こんな、重く揺れる、けがらわしい、肉ですらない狂った感覚器官が。

 からだに、あるから。


 弄ばれる。狂わされる。他人を狂わせる。

 胸が、乳房が、わたしの意志に反して、誘い込むように揺れている。

 白く、赤く、残像のような欲情の爪あとを食い込ませて揺れ、ふるえ、押し潰される。手首を押しつけられた窓のサッシが、嫌な音を立てる。


 冷たいはずなのに。

 窓の軋む音に混じって。


 浅ましい声が、洩れる。


 身体全体が、けもののように揺れて、たわんで、揺れて、揺さぶられる。揉み絞られる。喘ぎ声のキスに呑み込まれる。

 スカートが人のかたちをした皮を剥ぐようにずりおろされる。

 それ以外の、ほとんどすべての肌を剥き出しにされて、カーテンすら引かない、冷たい窓ガラスに、わたしはあられもなく押し付けられている。

 半ばめくりあげられたキャミソール。右半分だけ、完全にはだけられたブラウス。

 心臓のある、心のあるところだけを隠されたまま。


 外から、見られ……


 男の指が、無様に痩せて浮き上がったわたしの肋骨をたどる。

 残酷な指。

 乳房に飽きた指が。

 下半身へと伸びてゆく。

 そこにいきなり触れられそうになって、わたしは、思わず身をよじらせる。知られたくない。知られたくない。知られたく、ない。


 男の眼が、ふと、下へ落ちた。

 いざなうような。

 何の感情も交えない声が。


 耳朶をかすめた。


「忘れろ。全部」


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