第5話 冷たいガラス窓


 影だけでは、誰か分からない。

 男もまた、無言。

 鍵を掛ける金属の堅い音が高く響く。


 男は玄関を上がり、わたしに近づいてくる。わたしは、カーテンを引いてすらいない窓辺に逃げる。

 足音が近づく。影が、近づく。男は部屋の明かりがついていないことに対して何の躊躇もしない。


 わたしが見えているのか。


「誰?」

 たずねるわたしの声は、白々しくかすれている。


 ひどく、似ている。

 でも、きっと、違う。そんなはずはない。


 背が高くて、わたしと違って聡明で、中学から大学まで一貫教育を行う有名な私立校に通い、多彩な才能を発揮し。


 彼の母に似て、甘く、優しい顔立ちをし。

 父に似て愚かなわたしとは何もかも違っていた――弟の、涼眞と。

 似ている。でも。


「レン」


 窓から差し込む月の光が、濡れたような青灰色の光をフローリングに反射させている。

 遠くに見える高架道路を行き交う車が、テールランプの軌跡を無数に、赤く、曳く。

 闇に鮮血の帯が流されたかのようだった。

 けたたましいダンプのブレーキ音。続けざまに叩き鳴らされるふざけたクラクション。我が物顔に走る巨大な鉄の塊。


「レン」


 男の低い声が、わたしの名を呼ぶ。

 わたしは、窓を背に、後退る。

 知らない声。

 知らない顔。

 乱暴にネクタイをゆるめ、黒いスーツを脱ぎ捨て、理性も激情もまとめてソファへと叩きつけながら、窓際にまで一気に踏み込んでくる。

 かすかな夜の光に浮かび上がった男の顔。

 やはり知らない男だった。


 男の手が、わたしの肩を、冷たい硝子窓へと押し付ける。

 挨拶も、笑みすらも、ない。

 見覚えのない、大人の、男。


 その男が、なぜか。


 優しかった、甘い顔立ちの弟と。

 ときに頑なだった一途なまなざしの弟と。

 面影が重なり、ゆがみ、あわゆきの幻想となって霧散する。


 完璧すぎる、酷薄さすら漂わせる顔立ちと。

 感情のない突き刺すようなするどい眼光に。

 かき消されて。


 その眼がわたしを見つめる。

 わたしの目を。わたしの髪を。わたしの唇を。わたしの身体を。

 見つめている。

「近づかないで」

 男の顔が、虚をつかれたような表情に変わる。

「俺が誰か分かるか」

 肩に、手を置かれる。


 びくり、と。

 身体の奥底がすくんだ。

 ――あるはずもない子宮が。


 男の手が、わたしの頬へと触れる。

 そのぬくもりが、ひどく懐かしく。

 そして、怖い。


 記憶が、ぼんやりと甦る。


 目隠しされ、手足を縛られて。

 すべてを、奪われた。

 すべてを、壊された。


 わたしの身体のどこにも、あの男の知らない場所はない。


 あの男が。すべてを。奪ったから。

 わたしを、壊した。

 わたしを、狂わせた。

 わたしを、つなぎ止めた。


 今もなお残る、わたし自身をつらぬいたあの、狂わんばかりの感覚に。


 忘れられるはずがない――


 手が、わたしの顔を乱暴に上向かせてゆく。月の光、罪の光を浴びた男の、冷ややかな激情がわたしを見下ろしている。

 心の欠けた眼。

 二度と、笑わない眼。

「触らないで」

 わたしは、どうにかそれだけをうそぶく。


 それ以上言ったら。

 それ以上、近づかれたら。

 気付かれる――


「レン」

 手首を取られ、冷たいガラス窓に、身体ごと強く押し付けられる。

 わたしの手を見つめる男の瞳の中に、獰猛な憎悪にも似た赤い光が映り込んだ。

 それは過去に似た、夜景。どこまでも連なるテールランプの色。赤い、赤い、血のように赤く反射して、流れてゆく、赤い光。

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