第4話 飢餓感
そのまま待っていろ、レン。今から行く。
問われるがまま、わたしはここの住所を教える。
ほんの数分前まで、教えるどころか、恐怖すら覚えていたというのに。
なのに、わたしの口は。
男に命じられるがまま、何の感情の抑揚もなく、答えている。
スマートフォンの電源を切れば、よかった。
嘘の住所を告げれば、よかったのだ。
そうすれば、誰にも逢わずにすんだのに。
何もせず、一時間。
二時間。
陽射しが傾き、空が赤くなる。
茜色と金色の入り混じった夕日が、壁紙を深紅に染めている。
美しい色のはずだ。なのに、わたしは、渇いた唇を湿す。いずれ来るだろう闇を前に、狂おしく燃えさかる最後の色。突き刺した言葉の底から煮こぼれるような色に見えた。
次第に薄暗くなってゆく部屋の中で、わたしは、待っている。
テレビをつけた。県が違えばローカルニュースも違う。知らないアナウンサーが、知らない地元のニュースを読んでいる。テレビをにぎわせるタレントも知らない顔ばかりだ。変わらないのは、季節のニュースだけ。
今となっては、どうやって大学に通ったのかすら記憶が定かではない。わたしは、ひとり、過去に取り残されている。
わたしと、この世界を繋ぐ絆はもうない。
わたしの家族はみんな死んだ。わたしだけが、記憶の闇の迷宮に連れ込まれ、あてどなくさまよい、放り出されて。
いや――あの電話の主だけが、わたしを知っている。
もしかしたらその言い方は正しくないかもしれない。今のわたしは、壊れた人形だ。
三時間。
四時間。
外は、とっぷりと暮れている。
来るはずがなかった。
わたしは、何を待っているのだろう。
何もせず。
何も考えず。
座って、ただ、待っている。
食事すら、朝からずっと取っていない。
大学に通っていたときは、人間らしくふるまうために、つとめて食事を取った。食べなければという義務感で、わたしは毎日、同じ時間に、同じ学生食堂のテーブルに座り、毎日同じメニューを注文した。
皿に盛ってある食事を口へと運ぶ。片付ける。ごちそうさま。決められたプロトコルで、パートの女性に頭を下げ、微笑む。おいしかったです。ありがとう。
何かを食べたい、などと思ったことはない。
身体が空腹感を訴えることも、ない。
感じるのは――
飢餓感。
暗闇の中、壁のインターホンのランプが緑色に光った。二回、鳴る。マンションの外から、部屋番号を直接、指定して押されている。
モニタに映っているのは、はっきりと映りきらない灰色の影。おそらくはスーツ姿だ。
それ以外は暗くて、よく、見えない。応答する。
「誰」
――レン。開けろ。
解錠のボタンへと伸ばした手が、なぜか、押すのをためらう。
最後の砦。
最後の理性。
――レン。俺だ。開けろ。
その声が。わたしをうずめてゆく。
わたしは、解錠ボタンを押した。
インターホン越しに、機械的な音――オートロックの解除されるモーターの音が聞こえる。
エレベータが上がってくる間。わたしはずっとインターホンの画面を見つめていた。
誰も映さないモニター画面が、赤外線画像のように色を失い、灰色に光っている。マイクがノイズめいた風の音を拾った。エントランス前に植え込まれた、とがった葉の植物が、ふと、ゆらゆらと、左右に揺れる。首を横に振ったみたいに見えた。
風が止む。
何の予告もなく、ドアが開く。
わたしは、振り返る。
恐ろしいほど背が高いスーツ姿の男が立っている。その影が、ドアのすぐ外、共有部の廊下を照らすオレンジ色の明かりを、黒く切り取っている。
わたしは無言でインターホンのパネルボタンを戻す。
わたしと、外の世界とを繋ぐ唯一の絆――モニタ画面が、消えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます