第3話 残酷な王

 今、わたしは、メモに書かれていた場所に立っている。

 シンプルで機能的なエントランスロビー。ポストには名前を書く欄すらない。部屋番号のみ。いかにも女性が独り暮らしするに相応しいオートロックマンション。


 ここへ来る前に、近くのショッピングモールへ寄ってもらい、着替えと一日分の食べ物を用意した。今まで住んでいたアパートはとうに引き払っている。

 家財の殆どはレンタル。処分するのに手間は掛からない。まるでわたし自身のように、あっけなく、それはわたしのものではなくなる。



 数日前、卒業を祝う手紙と共に、弁護士事務所から送られてきた荷物。


 中身は、わたし名義のスマートフォンと、目も眩むような残高が記された通帳と印鑑、クレジットカード、そしてこの住所を記載したメモと、わたしの名前が書かれた玄関の鍵だった。


 スマートフォンには登録もされていない相手からのメールが一通、入っている。

 改めて読む必要もない。わたしは中を読みもせず、メールを削除する。


 鍵を開けて中に入る。押しピンの跡ひとつない、真っ白な壁紙がまぶしい。わたしは部屋を見て回った。

 カーテンにテーブルにソファ、ラグ、クッション、小さめの収納家具、ベッド、2in1タブレットノートにレンジにトースターに冷蔵庫、IHコンロや照明器具、水回りのこまごまとしたものまですべて、新品。


 無いのは、生活感だけ。


 すでに幾通か封筒がとどいている。光熱費の引き落としなど、あたらしい生活を始めるのあたっての手続きはだいたい終わっているらしかった。あとで区役所へ行き、住民票を移動させなければならない。国民年金の手続きと、それから。

 わたしはひとりで微笑んだ。手続きで忙しくなる、などと、まるでこれからの新しい生活に希望を抱いてでもいるかのようだ。


 ここは、わたしの牢獄だ。誰も知らない。誰も、来ない。


 わたしはまた、笑った。

 本当によくしてくれる顧問弁護士だ。きっと有能な人物にちがいない。


 記憶をなくしたのをいいことに、手切れ金よろしくマンションを与え、体よく縁を切って、誰も知り合いのいない別の街へ放り出せば、親戚の誰にも迷惑は掛からない。

 わたしは弁護士に感謝し、一族も満足する。

 地元の名士としての一族の名が、何よりも大事なはずだ。スキャンダルに汚れた姉より有望な弟を生かすほうが大事に決まっている。


 わたしが入院していたとき、世間でどのような報道がされていたのか、わたしには全然分からなかった。

 何のゆかりもない大学に入学し、誰とも接することなく卒業する。

 そんなことができたのも、一族の誰かが優秀な弁護士を雇ってくれたおかげだろう。わたしという邪魔な存在が、世間の好奇の目にさらされずにすんだだけでも、今となっては驚きを感じずにはいられない。


 わたしのために? わたしを護るために?

 いいや、違う。一族にそれだけの奔走をさせる価値は、わたしにはない。

 わたしの存在を消せば。事件をうやむやにしてしまえば。そうすれば。


 だけは救われる。

 すべてにおいて完璧だった、わたしの弟。父の家業を継ぎ、いずれは医師に、代議士になるべき、大切な御曹司だ。


 もう、これ以上、彼の人生を――未来を踏みにじりたくないから。

 わたしは、ここで、生きながら消えてゆく。




 しばらく、ぼんやりとソファに座って、窓から外の景色を眺める。

 灰色のビル。灰色の屋根。聞こえるのはバイパスを通る車の音だけだ。クラクションと、ダンプトラックの走る振動。見晴らしはまあまあだ。良くはない。

 緑も、川の音も、山の遠景もない。

 知らない街並みだった。

 でもわたしは一人で生きてゆくし、生きてゆけるはずだろうし、少なくとも人間の仮面をかぶってそれらしく生きるすべを最小限、身につけられるだけの理性を持っている。

 明日になったら、仕事も見つけにハローワークを探して登録してこよう。何ならアルバイトでもいい。そのためには移動手段が必要だ。まずは自転車を買おう。

 すこし楽しくなった。


 記帳された通帳の残高を見れば、数年ではとうてい使い切れない単位、下手すれば百年以上、急ぐ必要などないことは分かっている。それでも。


 使えない。

 この金に手を付けるのは最後のとき。

 ここではないどこかへゆくために、この金は残しておかなければならない。


 この金は、もう二度と逢わないと誓った――今は、もう、家族ではない弟の前から、完全に姿を消すために必要な金だ。



 高校一年生だったわたしには、将来を約束された銀行員の許婚いいなずけがいた。そのとき弟はまだ中学生だったはずだ。

 あれから何年たったのだろう。わたしの入院が長きにわたったのは、世間の目からわたしを隔絶する必要性があったからでもある。

 その間に、彼はわたしのキャリアを追い抜いたはずだ。今はもうとっくに医者になっているか、他の代議士か銀行家の娘と婚約でもしているに違いない。


 わたしのことは、一族の記憶からも、歴史からも、もう、過去の汚点として抹消されているはずだ。日々流れる小さなニュースの一つ。殺人事件が報道され、残された娘はどこかへと消えた。

 わたしは、もう、誰の心にも存在しない。



 そのとき、テーブルに放り出してあったスマートフォンが、ぶるっと振動した。

 非通知の着信。

 青白くディスプレイが光る。不愉快なバイブレーションがいつまでも続く。

 光り続けている。

 留守番サービスに繋がる。

 唐突に通話が切れる。

 そして、再び、振動し始める。

 非通知。

 いつまでも鳴りやまない。


 止まらない。


 わたしは、光るディスプレイを見つめた。背筋がざわりと毛羽立つ。見知らぬ相手に、土足で部屋に踏み込まれたような冷たさを感じる。

 出ない、という選択肢もあった。

 出れば、きっと。

 二度と戻れぬ過ちと分かっていて、犯した――

 かつてと同じ罪を。


 また、犯す。


 左手でスマートフォンを強く握りしめる。人差し指が震えた。受話器のアイコンを押し、滑らせる。

 つめていた息を吐く。耳に押し当てたガラスが、火傷するように冷たい。


 ――レン。


 知らない男の声だった。


 ――今、どこにいる。


 スマートフォンを握る手が震える。この番号は一族の顧問弁護士以外、誰も知らないはずだ。ならばいったい、誰が、どのように、どうして調べ出したのか。

「誰なの」


 電話の向こうで、相手が大きく深呼吸するのが聞こえた。


 ――答えろ。レン。今からそちらへ行く。


 冷ややかに命令するその声は、まるで残酷な王のようだった。


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