第2話 わたしを呼ぶ声
長かった。
やっと卒業だ。わたしはわたし自身から自由になった。
今まで大学生だったわたしは、これからは、何者でもないただのわたしになる。
同級生はみな、華やかな袴姿。男子は茶髪に黒いスーツだ。腕いっぱいに花束を持ち、お互いじゃれあうようにしてスマートフォンで写真を撮り合っている。
笑い声が響く。
その横を、わたしは黙って通り過ぎる。同級生たちの視線が背中に突き刺さった。
卒業式にコサージュさえない地味なツイードスーツで出席したのはわたしだけだ。先ほどとはトーンの違う、低い笑い声が聞こえた。
目の前にタクシーが止まった。乗り込む。
久しぶりにかいだ排気ガスの臭いに嬉しくなり、わたしはつい、くすりと鼻を鳴らして笑った。その声が聞こえたのか、ルームミラー越しに見えた運転手の顔が微妙に引きつる。
わたしは肩をすくめた。マスクをしてはいるがさらにハンカチで覆う。もちろん、善良な市民であるタクシー運転手を怯えさせるつもりは毛頭無い。
咳込んだ素振りをして、笑いをごまかす。
「ごめんなさい、この住所に行ってもらえますか」
封筒から折りたたまれたコピー用紙を抜き、一枚目、二枚目と分けてから、一枚目を運転手に示す。
A4用紙。そっけないゴシックで住所と氏名が印刷されている。きっちりとゆがむことなく折られた紙には几帳面さと同時に真摯な安心感をわたしに与えた。
S県K市。続く番地はおそらくマンション名だ。名前は天野恋。名前のところには、レン、とふりがなが振ってある。
運転手は、白い手袋を嵌めた手で、おずおずとメモを受け取った。どうやら彼はわたしに直接接触することを恐れているか、あるいは嫌悪しているらしい。
当然だろう。わたしも、もし、自分がタクシーの運転手で、いきなりとなりの県まで行けと言われたらかなり怖いだろうと思う。
でも、わたしはもう、正常。
否――正常であろうと努力し続けることができるようになった。
身体の傷も、こころの傷も、もう、癒えた。
”犯人”から加えられた忌まわしい陵辱行為の数々も、記憶には、もう、ない。
高校生の時、わたしは、記憶喪失と診断された。
警察から知らされたこと以外、なにも覚えていない。
家が火事になって、両親が死亡した。それだけがわたしの知る事実だ。
何者かが強盗に入って両親を殺したと警察は結論づけた。事件は迷宮入り。残されたわたしがあまりにも異常であったが故に事件の詳細が表沙汰にされることもなく、わたしはたった一人で世界に放り出された。
記憶もなく。感情すら壊れてしまったまま。
わたしたちが住んでいたという家は、もう、ない。更地にされ、分割されて売られたと当時の弁護士に聞いた。今はその土地に建て売りの狭小住宅が五軒建っていて、事件のことなど知らない人たちが住んでいる。
そこへ戻っても、おそらく何の記憶もよみがえらない。
死んだ父には、今の母、つまり死んだ母との間に、もう一人の子がいた。腹違いの兄弟だ。当時、他県の中高一貫校へと通い、寮に入っていたため、関与を疑われずに済んだと聞いている。
その彼は今、どこにいるのか。何をしているのか。おそらくは母方の実家に引き取られたに違いない。もしかしたら資産分与の場に居合わせたかもしれないが、それから一度も顔を合わせたことはない。
だが、言えることは一つ。
もう、あの家には帰れない。
わたしのことを知る人はいない。
わたしは、一人で、生きながら死んでゆく。
わたしは記憶喪失などではない。
あの夜、わたしは確かに見たのだ。
犯人を。
すべてをめちゃくちゃに崩壊させたあと、わたしの前から忽然と姿を消した――犯人を。
ぼろぼろになるまで、犯された。薬をかがされ、閉じこめられ、縛られ、狂わされて。そして、誰かの死体を見た。
死体?
犯人?
いや、それすら狂気の妄想が見せるただの幻影かも知れない。自分でもよく分からない。誰が、何をしたのか。わたしが、何をしたのか。誰に、何をされたのか。
分からない。
分かるのは、あの日から、わたしは壊れてしまった、ということだけ。
誰に何を聞かれても、まったく思い出せなかった。病院に刑事が来て、何度も、何度も尋問された。強姦致傷。殺人。放火。自殺? いくつもの罪名がわたしの上を通り過ぎる。誰が、いったい、何をしたのか。
思い出せない。
覚えているのは、誰かの赤い手だけ。
うめきながら迫ってくる、黒く、赤い、巨大な手。
あの手は――いったい、誰のものだったのだろうか。
わたしを殺したあの手は。
わたしを、レン、と呼ぶ、あの声は。
思い出すたび、頭の奥に重い痛みが走った。だから、思い出さないようにした。迷惑を掛けたくなくて。そんな自分が嫌で。
だが、もう、大丈夫だ。
わたしは、正常。
あの日以降の恐ろしい記憶は、消えた。消した。
今なら思い出せる。
わたしは幸せな家庭に生まれ、恵まれた環境で育った。かけがえのない家族とともに生きてきた。何かの記念に家族写真を撮って残すような、そんな、満ち足りた家庭。
威厳のある父。
優しい母。
聡明で、愛おしい弟。
絵に描いたような幸せの日々。
だがそこにわたしはいない。もう、その家族の輪には決して戻れない。わたしの存在が秩序を、輪を、壊した。
わたしの身体に突き立てられたおぞましい欲望の記憶が。
今も、なお、下腹部に残っているから。
今でもこみ上げてくる。わたしの中で狂ったように滾っていた男の身体。
わたしの身体、穴という穴に、白くねばつく悲鳴を流し込み続けていた、あの異常な快楽だけが、なぜか、いつまでたっても、消えない。
でも、それでいい。もう過ぎたことだから。
わたしは、忘れた。そして戻ってきた。
――人間の世界に。
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