子貢と老人
周荘
子貢と老人
子貢は楚の国で旅をしていた。
彼がたずさわっている事業の関係でこの国に用事があったので、魯の国からはるばる南方までやって来たのである。
子貢は元来、明敏な頭脳の持ち主だった。今回の件で楚へ来たのも、外交を主にした国の事業を一身に任されたからである。
だが、かつての彼は貧賤の身であり、他者から使われる立場の人間であったので、その才覚を発揮する機会には恵まれなかった。
しかし今回はその思いもしなかった機会に恵まれ、彼は任された仕事を見事に成し遂げ、悠々とした気分で帰国しているところであった。
帰路の途中、ある川に差し掛かったところで子貢はある老人の姿が目に入った。老人は畑仕事の一環なのか、井戸の水を汲み上げて瓶に入れ、それを畑まで持って行き、一々と注いでいた。
その作業は非常に地道で、効率が全くといっていいほど良くないものであった。
(何故あのような作業をしているのだろうか。あの者以外はもっと良い方法で畑に水を注いでいるのに...)
周りの畑を見まわしてみると、老人以外にも幾人かの農夫がおり、彼らは川の水を自分達の畑に入れて灌漑をしていたのに、その老人だけは何故か井戸から水を取って畑に注いでいたのだ。
子貢はふと、その老人に興味を持ち、少しばかり話をしてみたくなった。彼は御者に馬車を止めるように指示し、降りて老人の方に近づいていった。
そばまで来てみたが、老人の身なりには特徴的な部分は特になかった。ただ、子貢の目を大きく引いたのは、老人の畑に水を注ぐ一連の動きには、野暮ったさや雑さがまったく無く、一種の美しさすら感じる部分があったのだ。
(普通の農夫ではない。隠者であろうか)
子貢はますます老人に興味を持った。そして彼は失礼のないように、
「御老公、申し訳ないのですが少しお時間をよろしいでしょうか」
と、役人が農夫に対するにはいささか丁重すぎる言葉を使って声をかけた。
子貢の問いかけに対して、老人は作業を中断し、持っていた瓶を降ろして彼の方を振り向いた。その顔や体格は、他の農夫のような素朴さや力強さは無かったが、どこか気品のある、聡明な顔立ちをしていた。
「なんでしょうかな」
子貢に対し、老人は笑顔で返事をした。子貢は老人の顔立ちに少しばかり驚いたが、それを面に出さずに、
「私、旅をしている者なのですが今夜泊まる宿を探しておりまして...」
「ああ、それならあの道を真っ直ぐに進んで二、三里のところにありますよ」
そう言って、子貢が先ほど馬車に乗っていた道を指さした。
「ありがとうございます」
子貢がお礼を言うと、老人は再び作業の方に戻ろうとした。子貢はあわてて、
「あの、先程あなたが井戸から水を引き上げて一々それを瓶に入れて持ち運んでいました。周りの者は川から水を引き入れているのに、あなたがそうしないのは何か理由があるのでしょうか?」
「いや、特にはないよ。わしがやりたいようにやっているだけさ」
老人は地面に置いた瓶に視線を向けながら、さも当たり前かのように答えた。
子貢は意味が分からなかった。特に理由が無いのなら、効率の良い方法を選ぶのが普通ではないのか。それなのに、この老人はわざわざ手間のかかる方法を選択しているのだ。理由が無いはずがないだろう。子貢がそう考えながら当惑していると、
「特にない、と言うと少し違いますな。わしは楽しいからこんなことをやっているんです」
「楽しい?」
「はい。こうやって水を一杯一杯と畑にかけてやるんです。そうしていると何だか楽しくなってくるんです。なんと言えば良いのか...こうやって手間をかけたり、じかに畑の土を触ったりすることで、わしの心が躍ってきて一切の事が楽しくなってくるんですよ」
「はぁ...」
子貢はやはり老人の言っていることが理解できなかった。彼自身も貧賤の時期に少しばかり農業に従事したことはあったが、このような面倒な作業が楽しいと思ったことは一度も無かった。むしろ、自身の能力を生かす事ができないこの仕事を呪ったことすらあった。そういったこともあり、彼は老人の言葉にいよいよ混乱してきた。
「あなたは北の方から来たんですかな?」
子貢が何も言わずにいると、老人は突然そんなことを聞いてきた。
「分かるのですか?」
「えぇ、服装がうちの国のものではなかったからね。それに、そんな文化的...というか整った礼服を着ているのは楚の人間の中にはいない」
子貢は老人の言葉に驚いた。自分の事を楚の人間ではなく北の方の国の人間だと考えたのは、子貢が道に迷うほど地理に疎かったから、とかではなく、服装によるものだと判断していたのだ。このような視点を一介の農夫が持つのは不可能である。
彼はやはりこの老人がただの農夫ではないと確信した。おそらくは昔、大夫(上級役人のこと)あたりの高い身分にいた人間ではないかと考えた。
(政治の抗争に巻き込まれて身分を落とした者かもしれない)
そう考えた途端、子貢は自身の師である孔子を思い出した。孔子もかつては大司冦という司法の最高責任者を務めていたが、彼も魯国内の政権争いに負け、十四年もの間、他国を放浪せざるを得なかったのだ。
子貢もこの旅に同行し、師と共に辛酸を味わったこともあり、先程とは別の、この老人に親近感のようなものを覚えた。
「先程、旅をしていると言いましたな。何の用でこちらまで来られたんですか?」
「魯から頼まれた外交関係の仕事で来ているんです。とはいっても、もうそれも済んだので今から帰るところでして...」
「ああ、あの国の...」
そうぽつりと言って少しだけ顔をしかめた。
「そちらの国も最近は難しい情勢でしょうな」
子貢は何も答えずにただ苦笑いをした。
「しかし、見たところあなたは政治向きの人間だ。わしと違って身を滅ぼしかける事も無いでしょう」
「あなたも昔は国の役人だったのですか?」
「ええ、この国のね。しかし派閥争いに巻き込まれましてね。最後はこのように百姓に身を落とすはめになりましたよ」
そういって老人は、はっはっはと笑った。
「でも今は百姓に身を落として良かったと思ってるんです。派閥争いの中で死ぬ思いをしながらあくせくと立ち回るよりも、土の匂いを嗅ぎながら他の農夫たちと一緒に楽しく畑を耕す方がわしには合っていました」
「それならば他の者たちと一緒に他の方法で畑を耕せば良いではないですか。わざわざ手間をかける理由にはならないと思いますが...」
「さっきも言ったようにわしは楽しいからこの方法でやっているんです。役人の頃に忙しく働いていた反動が来ているんでしょうな」
老人はにこにこしながら冗談交じりに答えた。
子貢は老人に一種の得体の知れなさを感じた。とはいっても、決して暗く怪しいものではなく、彼が今まで出会ったことのない類の人間であったので、素直に興味を持ったのだ。
(子路のような政治家気質の人間でもなく先生や顔回のような求道者でもない。だからといて他の者とも違う、不思議な人だ)
「私のことを政治向きの人間とおっしゃられていたのですが、どうしてそのように考えられたのですか?」
「あなたは魯から任された仕事を無事に終わらせて、今から帰るところでしたよね。魯に限らず、昔から国は外交を重視しています。その外交に関する仕事を任されるということは国から信頼されているということです。国から信頼される事ほど政治家にとって大切な事はありません。だからそう言ったんです」
子貢は最初、老人の言っていることが正に的を射ているものだと思った。が、実際考えてみると、今回の仕事は師である孔子の推薦によるものであった。かつて、国の重職に就いており、君主からの信頼も厚かった孔子の推薦する人間なら、という理由で子貢は抜擢されたのだ。
そこまで考えると、彼は老人の言葉に対し苦笑いを浮かべざるをえなかった。
そんな子貢の思いを知ってか知らずか老人は続ける。
「そして何よりもあなたは今やっている仕事に誇りを感じているように見えます。わしが役人をしていた時には少なくともそんな気持ちになれた事は一度もありませんでした。常に日々の仕事に追われて、その上同僚や上司の権力争いに気を使わなくてはいけませんでした」
子貢は老人の自分に対する、仕事に誇りを感じている、という言葉に何故か一瞬だけ肌寒さを感じた。しかし、彼は強いてそれを問題とせず、老人の話に聞き入った。
「気の弱い自分にとってはそんな状況が嫌で嫌で仕方がありません。しかもその中で生き残っていくには、人の間を器用に立ち回る要領の良さが必要になってくるのですが、残念な事にわしにはそのような力がありませんでした」
子貢は老人に対して哀れみに似た感情を持った。彼自身、今回の件以外に直接政治の仕事にたずさわったことは無いが、孔子を通して魯の国情を知ることはできた。
そこから見えてきたのは、権力争いで生き残ることができるのは、上の立場の人間に取り入るのが上手い者であった。取り入るのに成功すると、その立場を利用して政敵を罪に陥れるのである。
そしてそのような事を可能にしていたのは、彼らの持つ立ち回りの力や弁舌の力によるところが非常に大きいのである。
逆にそのような力の無い者は、政治の場から追放されたり、ひどい場合には殺されたりするのである。
子貢はしかし、政治から身を引きたいとは思ってはいなかった。彼自身の明晰な頭脳により処世の力は他よりもはるかに抜きん出ていたし、また、弁舌の力も決して負けないものを持っていた。
だから、子貢はいずれ政治家として高い地位に昇ることができたなら、国政を乱すものに対して正面から対抗するつもりであった。それが、孔子に対しても、そして自分の良心に照らし合わせみても、最も良い方法であると思ったからである。
そんな事を考えながら子貢は老人の次の言葉を待った。老人はしかし、何も言わずに目を閉じてじっと何かを考えている様子であったが、しばらくするとふと目を開き、
「しかし何よりもわしに足りなかったものは、人を生かそうとする心だったのかもしれません」
「人を生かす?」
「先程も言いましたように、わしは毎日仕事や権力争いで自分のことだけで一杯でした。その頃は生きることだけを考えていて、他人を思いやる余裕なんてまったく無かったんです。でもここの農村に来て、他の村人と一緒に畑を耕してみて、そんな考えが何よりも大切だと感じたんです」
そして老人は他の農夫を見まわしながら、
「川の水を畑に引き入れる方法もわしが教えたんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、一人で欲張って自分だけ得をするよりも、皆に教えてあげて一緒に耕作をした方が、結局は彼らにとってもわしにとっても良い事だと思いましたので。彼らも早く耕作を終わらせることができて、余った時間をわしの畑の手伝いにまわしてくれるんですよ」
そう言って老人は笑った。
子貢は老人の、人を生かす、という言葉に引っかかった。政治にたずさわる者であるならば、嫌でも人を使う立場にならざるをえないのである。老人が役人として働いていた時も、いくら権力争いに奔走していたとはいえ例外ではないはずだ。
その上、子貢はその方面における、人を使う力に関しても大きな自信を持っていた。孔子からも日頃からその重要性を口酸っぱく言われていたので、彼も意識せざるをえなかったのだ。
「あの、先程あなたは人を生かすと言いましたが、もう少しだけ詳しく聞かせていただけませんか?」
「いえ、別に特段変わったことをするわけではありませんよ。ただ人の長所を見つけてやって短所を守ってやるだけです」
子貢はまったく同じことを孔子も言っていたことを思い出した。老人は続けて、
「わしが役人だった時はあくまで人を使うだけでした。その人の長所を見つけることはできても生かすことまでは無理だったんです」
「人を生かすことはそんなに難しい事なんでしょうか」
子貢は素直にそう疑問に思った。彼の言葉を聞いた途端、老人は真剣な表情になった。
「これほど難しいことはありませんよ。長所を見出すことができても、それを本人に自覚させることが難しい。自覚させることはできても、それを日々の生活に役立たせることが難しい。日々の生活に役立たせることはできても、それを本人自身で練らせるようにするのは本当に困難なことだと思います。でも、人を生かすというのはそこまでいかなければ本物にならないと思うんです」
老人の声は次第に熱を帯びてきた。子貢は少し気圧されたが、
「そこまでしなければならないものなのでしょうか。仕事に役立たせるだけでも十分だと思うのですが...」
老人は寂しそうな表情になり、
「しかしそれでは本人が可哀想ですよ。あくまでも他人の力で役に立たせられてるだけなんですから。もし役立たせる人がいなくなったら、その人はもしかしたら以前よりも悪い状況になってしまうかもしれません。他人に役立たせてもらってる状況を自分自身で手に入れたものだと勘違いしてしまうかもしれないですからね」
「しかし、あなたの考えを実行するとなると相当な苦労が必要になると思うんです」
「そうですね。だからわしも役人の頃はまったくと言って良いほどできなかった。今だってわずかながらに出来てるような状態ですよ」
「あなたはそれで満足なのですか?」
「満足もなにも、そうすることが最善の道だと思っています」
子貢は途方もない話だと感じた。それに彼にとって老人の言う事はあまりにも卑近すぎるものだとも思った。
勿論、老人の言う事が子貢の政治に対する考えよりもはるかに高いのは分かってはいたし、そしてその理想が孔子のそれと極めて近いものがあることも感じ取れた。しかし理想は理想、現実は現実であって、そこの住み分けをわきまえなければならない。もしそれを間違えると単なる現実主義者よりも悪い結果に陥る可能性があることを、子貢は孔子と共にした十四年間の放浪でまざまざと見せつけられたのだ。
(この人の言っている事はよく分かる。だが、そんなのんびりした方法なんて取っていたら政敵に足元をすくわれてしまう。あっちは私欲にまみれた無遠慮な団結力を武器にこちらに攻めてくるのだ。そんな考えだからこの老人も政権争いに敗れたのではないのか)
子貢は次第に皮肉めいた気分になってきた。それに伴って、老人の痩せこけた体がいかにもみすぼらしく見えてきた。先程は高貴に見えた老人の顔立ちも、その体格と相まって一種の可笑しさすら感じ始めた。子貢は老人に対して言いようのない不満を抱いた。
「あなたの考えは大変素晴らしいと思います。私もあなたのおっしゃっていることを政治の場で生かそうと考えてはいるのですが実際は上手くいかないものでして...。やはり現状はあくまでも人を使う、という考えでないと仕事をまわす事ができないので、不本意ながらもそうしているのです」
子貢は今回の仕事の成功もあって気分が上がっていた。老人に対して婉曲ではありながらも、その考えが迂遠であることを示した。
老人は一瞬だけ目を見開いた。しかしすぐに真面目な表情になり、一呼吸だけ置いてから、
「君子は自分が器でないと共に、他の人のことも器として扱うことはしないと思うんです」
子貢はかつてないほど体が強張るのを感じた。
君子は器ならず。孔子が言っていた言葉である。加えて子貢は孔子から自身の事を『瑚璉の器』に例えられたことがあった。
瑚璉―――最上級の素材で作られてはいるが、結局は器という定まった型があって一つのはたらきしか出来ない人物。そのように評されていたため、子貢は老人の器という言葉に極めて敏感に反応してしまった。
そして、老人の言葉から察するに、今まで子貢の考えていたことは、自分のことだけを考えている点で、器としての考え以外の何物でもないと思えたのである。
彼は老人の言っていることに関して真剣に考え始めた
(自分はこれまでに人を使う事について色々と考えてきたつもりだ。先生からの言葉も素直に実行したつもりで、他人の長所を見つけて仕事で生かしてきてやったはずだ。それに間違いはない)
だが、それはあくまでも自分自身の仕事を成し遂げるために人を利用しただけであった。心の表面では人のためだと考えていても、奥底をたたいてみると、結局は人を使いこなしているつもりである自分に満足していたに過ぎない事を、子貢は悟ったのである。
混乱しながら考えていると、老人は心配そうな表情で子貢の方を見た
「どうかしました?」
「いえ、何でもありません...」
子貢は平静を装いながら言った。しかし、混乱しながらも彼の中にはどこか、寂しい想いが湧いてきた。
「でも、だからといってわしはあなたに政治家は器の仕事だから止めてしまえ、と言っているのではありませんよ。さっきも言ったように、あなたは政治の才能が豊かな方だと思うんです。それを無理してわしみたいに農夫なんてやったら、あなた自身が殺されてしまいます」
そして老人はぽつりと、
「結局は自分と自分以外のものをどれだけ生かすことが出来るかどうかだと思うんです」
子貢は老人の言葉を聞きながら、嬉しいような悲しいような気持ちにつつまれた。
「そろそろ暗くなってきましたな。今日の仕事はこれで終わりにしましょう。あなたもこんな老いぼれの話を聞いているよりも早く宿に向かった方が良いですよ」
子貢は返事をしなかった。黙って地面の方を向いたままであった。
老人が引き上げた後、彼は先程の老人との会話について考えていた。そして小半時ほどたってから、馬車を待たせていることを思い出して急ぎ足で戻った。
彼の背中には、孔子と老人の真意の一端を知ることができた喜びと、自分の中に存在する大きな問題が眼前にあらわれた重圧の両方が重なり合っていた。
その後、子貢は着々と政治家としての地位を上げ、最終的には魯と斉の宰相を歴任したとも言われている。その中で、彼は果たして瑚璉の殻を破ることができたのかは、残念ながら今の私達が知る術は無いようである。
子貢と老人 周荘 @syuso
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