案山子

サンダルウッド

「案山子」

 酔狂と言うべきか、愚行と言うべきか。

 三十九度を超える異常とも思える暑さの中、水ひとつ持たずに目的もなくひた歩くという行為は、およそ賢い人間のとる行動ではない。


 駅前は、コンビニエンスストアやらファミリーレストランやら高層ビルやらが所狭しと建ち並び、大量の男や女がそれらに吸い込まれたり吐き出されたりしている。

 そこには、日々を遣り繰りするために必要なものはすべて用意されている、と言っても過言ではないくらいに利便性に富んでいた。傍目にも、それらとうまく付き合う人は、生を満喫しているように見えた。

 私は、でも少しの充足感も覚えない。そんなの「幸福の虚像」だ、と思った。

 あと一秒でもそこにいたら取り返しのつかないことになってしまう気がして、思わず飛び出した。

 駅前通りの掲示板には、いかにも嘘っぽい笑顔を浮かべた選挙ポスターが、場違いのように駐在している。


 滴る汗はとめどなく、それをまた律儀なほど適度に拭くものだから、ハンカチがすぐに湿ってしまう。

 駅前から三十分ほど歩くと、住宅地に入り込んだ。

 恐ろしいほどの静寂に歓迎され、一歩ずつ、慎重に踏み出す。

 行けども行けども、静寂は続く。田中やら加藤やら中村やら、多種多様な生物の暮らしを横切る。それぞれがどんな暮らしを営んでいるかなど知る由もないが、彼らの世界にほんの一瞬だけ触れたような気がして、私は満足感を覚えた。

 暑さはとどまることを知らず、刻一刻と熱中症へと誘う。


 住宅地を抜けると、鬱蒼と茂った木々が立ち並ぶ小径に突入した。

 変わらず静寂は維持されているものの、そこにはもはや人の気配はなかった。誰一人、もう何十年も立ち寄ったことがなさそうな淋しげな小径。

 周囲の田畑は荒れ地になっており、つぎはぎだらけの案山子だけが無防備に佇んでいる。

 私は、さっきまであれほど掻いていた汗が、すべて引いていることに気付く。

 空は相変わらず、嫌味なほど太陽が照りつけていた。


 昨日、夢を見た。

 白丸の山奥を散策していたところ、熊に出くわし―あの辺りは本当に熊が出没するらしい―襲われる夢だ。

 襲われてからどうなったかは覚えていないが、正夢になってほしいような、不可思議な感情が芽生えた。


 いま歩を進めているところは、でも全くそんな気配はない。熊どころか、鼠一匹出てきそうにない、戦慄さえ覚えるほどの静けさに覆われていた。

 小径に入って、もう五時間は歩いたような感覚に襲われて腕時計を見ると、まだ一時間しか経っていない。

 一体何処へ向かっているのだろう。何処へ行き着くのだろう。

 そもそも、辿り着く場所などあるのだろうか。

 延々と続く細道を歩きながら、これらの難問に思考を巡らせた。

 でも、何も浮かばない。と言うより、まともに脳が機能しない。この暑さの中、二時間以上も飲まず食わずで歩いていれば当然である。

 次第に意識が朦朧としてきたが、私は足を止めなかった。

 止めると、永久に歩き出せないような気がした。


 無限上空から放たれる光線は休むことを知らねど、強くなりさえしている。

 身体は燃えてしまいそうに熱く、心は何を見る余裕もなければ、感じる余裕もない。

 でも、意識だけは途絶えぬまま、この現実とは思えない空間に存在していた。

 生き地獄だ。

 この逼迫した状況ではなく、この状況から抜け出したいと思わない自分自身こそが生き地獄だった。

 何処へも辿り着きたくない。これが先の難問に対し、私が導き出した答だ。

 時計を見る気力はとうに無くなっているが、辿り着くことを拒絶した今、時間の経過を知る意味はなかった。


 しかし、突如、果てしなく続くかと思われた小径が途切れた。

 ふと顔を上げると、目の前に、だだっ広い公園が映った。

 一体何が起きたのか、状況を飲み込むまでに数分を要した。辿り着いてしまったらしい。

 広大な敷地に、手入れの行き届いた草木。果ては噴水まで備え付けられ、理想的な公園という条件を満たすために必要と思われるものはすべて揃っていた。先ほどまで延々と続いた殺風景極まりない細道とは、何もかもが対照的だ。

 公園には、様々な人間が生息していた。子供と戯れる者、マラソンに没頭する者、ベンチに腰掛けて会話を楽しむ者など、思い思いの時間を過ごす。

 必要十分な物々が存在し、そこで多くの人々が生を満喫する。散々辟易した駅前の風景と変わりないものであった。

 私は、でもここに到達してしまったことに満足感を覚えていた。不思議な感情だった。


 この公園に、私が求めるものなど何もない。

 何もありはしないのに、微塵も負の感情が湧いて来ないのはどういうことか。

 水晶体に映る景色や色彩、耳に入る一音一音、花々や木々がもたらす匂いたち。

 それらが見事なまでに調和し、我が魂を浄化していることに気付いた。

 私の心は、確かにこの空間によって癒されている。

 こんな気持ちになるのは、さっき捻り出した答を覆すようで、きまり悪く感じた。

 それでも、認めざるを得なかった。


 荒れ地に佇む、やつれた案山子を想起する。

 自由に動かすことの出来る肉体が、まだ私には残されている。


 黄金色の空に包まれながら、水道水を勢いよく流し込む。

 その直後、私は意識を失った。

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