おいで、ロロ

七町藍路

おいで、ロロ

 卵を拾った。

 夜更けの砂浜に打ち上げられていたそれは、鳥の卵のような形をした金属の卵だった。砂に半分ほど埋もれていた卵を抱え上げてみれば、それはずっしりと重く、月の光を浴びた銀色が金属の冷たさよりもむしろ美しさを際立たせていた。

 十三夜の海はキラキラと輝いて、遠くに漁火が見えた。

 僕はそれを家に持ち帰った。


 八畳の部屋。真ん中に置いた炬燵。閉じたままのグリーンのカーテン。先週末に買ったばかりのゲーム。それを繋いだテレビ。安物のベッド。何年経っても埋まらない本棚。

 十二月も終わりに近づいた部屋は寒々しく、室内だというのに吐く息が白い。

 僕は抱えていた卵を炬燵の上に置いた。洗面所からタオルを持ってきて卵を拭くと、傷ひとつない銀色の卵の表面は鏡のように輝き、僕の顔が映った。目の下の隈が酷い。

 ダチョウの卵。

 小学生の頃に図鑑に載っていたダチョウの卵を思い出した。大きさは記憶の中のダチョウの卵くらいだろうか。

 恐竜の卵。

 海の底に眠っていた恐竜の卵かもしれない。ネッシーのように、今でもまだどこかで生きているのかもしれない。

 クジラの卵。

 そう考えて、けれどもクジラは哺乳類だと、僕は寝惚けた頭を掻き上げた。

 卵を抱いてその夜は眠りに就いた。

 布団の中がじんわりと暖かかったのは、僕の体温だったのだろうか。


 平日の朝は七時に起きる。ピヨピヨと枕元で囀る目覚まし時計。電気屋の福引で貰った物。

 布団から這い出してカーテンを開けて部屋に冬の朝日を迎え入れる。

 卵はベッドの上に転がっていた。

 オーブントースターで食パンを二枚焼く。片方には薄くマヨネーズを塗る。もう片方には薄切りのベーコンを乗せる。年季の入ったヤカンで湯を沸かす。昨夜の残り物の味噌汁に火を通す。その間に顔を洗って着替える。

 テレビを点けると朝のニュースが流れる。

 太平洋の真ん中に隕石が落ちてから一週間。

 焼きあがった食パンに黒コショウをまぶす。沸いた湯でインスタントのコーヒーを淹れる。冷蔵庫から野菜ジュースを出してコップに注ぐ。これがいつもの朝食。

 炬燵に入って胡坐をかく。その上に炬燵布団を。さらにその上に卵を乗せた。

 気温も風も穏やかな冬の一日。

 食べ終わった食器を洗って伏せる。それから歯を磨く。

 卵を布団にくるみ、八時になる前に家を出た。


 アパートから自転車で十五分のところに僕の職場がある。

 ワダツミ海洋研究所。

 海沿いにある二階建て。白くて古いビル。そこから目と鼻の先、白くて古い灯台。それが研究所のすべて。

 仕事は朝の八時半から夕方の五時まで。一時間の休憩。残業はほとんどない。土日祝は休み。

 この海辺の街で、生活に困らない程度の稼ぎ。

 フラスコの海水を愛でている男が所長。無精髭にコーヒーの匂いが絡まっている五十代。

 研究員は二人。背の高い女性が小野塚さん。眼鏡の男性が片山さん。

 僕はつまるところ雑用係だった。出勤したら外を掃除して、中を掃除して、書類を整理して、電話を取って。

 いてもいなくても、きっと何の問題もなかった。僕には勿体ないほどの居場所だった。


 ケイちゃん。

 研究所の人たちは僕をそう呼ぶ。つられて研究所の周りの人たちも、そう呼ぶ。親しみを込めて。

 清い緒と書いて、セオ。景色のケイ。セオケイ。ケイちゃん。

 それを言い出したのは僕の履歴書を見ていた小野塚さんで、その呼び名に僕は些か緊張した。けれども、親しすぎるそれを拒めばもうどこにも寄る辺がないような気がした。

 この研究所で働き始めて、春が来れば三年になる。この二年と九か月ほど、仕事のある日は毎日、昼食の時間になると近所の食堂に全員で出掛けるのが研究所の日課だった。昼を告げる音楽が港に響き渡ると、誰もが自然と支度を始める。四人揃って堤防沿いの道を歩く。

 ケイちゃんはしっかり食べなさいね。小野塚さんは毎日のようにそう言って、たいていカレーを食べる。無口な片山さんは黙々と生姜焼き定食を食べる。味噌汁をすする時にはいつも眼鏡が曇る。所長は壁に取り付けられたテレビを見ながらミックスフライ定食と食後にはコーヒーを注文する。そして僕は日替わり定食。

 年季の入った食堂だった。古い窓ガラスが海風に揺すられてカタカタと震えていた。


 隕石が落ちた。

 それは一週間前の午後だった。地球を半周するような軌道で、燃え上がる隕石は海に落ちた。僕たちも堤防の上に並んで座り、旅する隕石を見送った。遥か上空は熱い炎で引き裂かれたように、いつまでも隕石の軌跡が刻み込まれているようだった。

 それ以来、テレビでは宇宙のことばかりが放送されていた。メカニズムを解説する真面目な番組もあったし、フィクションばかりを取り上げる娯楽番組もあった。宇宙からやって来た隕石は人々の心を焦がした。

 人々がざわめいただけで、海は少しも変わらなかった。


 首に巻いたマフラー。手袋。午後五時。

 研究所の前でそれぞれが家路につくために別れる。所長は灰色のクラシックカー。小野塚さんは黒く光る大型のバイク。片山さんは藍色のSUV。そして僕は中古で買った茜色の自転車。

 凪いだ道を帰る。

 途中、大通りにあるスーパーで夕飯の買い物をする。

 海沿いの小高い丘を家々の灯りが彩っていた。この街の人たちは海の見える斜面を好む。僕のアパートも坂道の途中にあった。

 帰り道は上り坂になる。振り返れば海が夜の闇に溶けていた。


 卵は布団の上に転がっていた。

 卵型の金属か、それとも金属の卵か。初めて見た時に僕はそれを金属ではなく卵だと認識した。持ち帰ったのも、どこかで孵化することを期待していたからだろう。

 温めれば孵るかもしれない。

 僕はバスタオルを巻きつけて、卵を自分の腹に固定した。それだけでは腹が冷えるので上からジャージを羽織った。僕の腹は大きく膨れた。臨月の妊婦のようだ。僕はカーテンを閉めた。

 テレビを点ければ夕方のニュース番組が今日の世界の出来事をかいつまんで教えてくれる。そのどれもが僕にとっては大して重要な事柄ではない。

 台所に立って夕飯の支度をする。米を研いで炊飯器を仕掛ける。半額のシールが貼られた唐揚げはオーブントースターで温める準備をする。キャベツを千切りにして水にさらす。白菜は食べやすい大きさに切って塩昆布と和える。

 米が炊き上がるまで、ぼんやりとテレビを見ていた。いつの間にかニュースは終わり、別の番組が始まっていた。宇宙にまつわる様々な偉業を取り上げるドキュメンタリー。

 僕は卵とふたり、炬燵で夕飯を食べた。


 食器を洗い、シャワーを浴びる。卵をぬるま湯に浸してみたが変化はなかった。話し掛けても反応はない。

 他人からは気味悪がられるだろう。けれど一目見た時から僕の心はこの卵に惹かれていた。

 パジャマ代わりのパーカーとスウェット。炬燵の電源は入れず、暖房に設定したエアコンのスイッチを入れた。テレビに接続したゲームの電源を入れた。

 炬燵の上に敷いたタオルに卵を乗せた。これで卵にも画面が見えるだろう。暗かった画面にゲームのタイトルが表示された。

 陸から海に帰る風が窓を叩いていた。


 ディアドラゴン。

 果てた世界をひとりの少年がドラゴンと共に旅をする、それだけのゲームだ。物語はない。敵もいない。出会いもないし、別れもない。あるのは滅んだ世界と、朽ちた建造物、僅かな生き物、自然。

 旅の目的は語られず、世界の成り立ちも明かされない。すべてはプレイヤーの想像に委ねられている。

 単調なゲーム。映像の美しさを除けば、世間の評価は概ね低い。ゲームの世界を満たす寂寞が一部に受け入れられている。その一部に、僕もいる。

 ロロ。

 少年はそう言ってドラゴンを呼ぶ。ロゥロゥとも聞こえるそれは、名前なのか、おいでという意味なのか。曖昧なままだ。

 ロロ、おいで。

 僕は卵に呼び掛けた。驚くほどに優しい声だった。


 真夜中の散歩は、いつしか僕の日課になっていた。

 遅くまで起きているわけではない。夜は十一時過ぎには布団に入る。けれども決まっていつも、二時ごろに目を覚ます。

 布団から抜け出して首にマフラーを撒く。靴下を履いて、手袋をはめる。

 両腕で卵をしっかりと抱えて、僕は夜へと踏み出した。

 十四夜の月は凍て付いたような青白さだった。陸風に押されて寝静まった坂道を下っていくと、徐々に海の匂いが強くなる。水平線の近くに貨物船の灯りが見えた。

 坂道を下りきると、海沿いの県道に出る。信号で道を渡れば、すぐそこに砂浜が広がる。夏になれば海水浴客で賑わう砂浜も冬の夜は静まり返る。寄せては返す波の音だけが世界の音だった。

 波打ち際に立ち尽くす。およそ五分。歩いてきた体も冷え切った。耳が痛い。

 深く息を吐き出して、僕は部屋へと戻った。

 卵を抱いて布団に入った。

 親鳥とはこんなものだろうか。すぐに眠気がやって来た。

 真夜中の散歩はもう三年も続いていた。


 夢を見た。

 それが夢だと分かっていた。

 大学の講義室に僕はいた。大きな階段教室の真ん中の席に僕は座っていた。教室を見渡しても他には誰もいなかった。開け放たれた窓から入って来る秋風がカーテンを大きく揺らしていた。

『あなたは宇宙飛行士です』

 カーテンを見ていた僕はその声に前を向いた。いつのまにか教壇に人が立っていた。それは大学時代の友人だった。

『月面に降り立つと、そこには一面の花畑が広がっていました』

 がらんとした教室に、友人の声だけが響いた。

『さて、その花の色は何色ですか?』

 友人は落ち着いた声でそう尋ねたが、僕はその声がとても遠くから聞こえてくるように感じた。友人は黙って僕を見詰め、答えを待っていた。

 僕は友人の名を呼ぶために口を開いた。けれど、強い秋風が僕の夢を掻き消した。


 七時。

 カーテンの僅かな隙間から朝日が差し込んでいた。目覚まし時計を止めた。また今日が始まった。

 朝のニュースによると、今夜は雨。散歩には抜け出せない。

 年の瀬。今日が仕事納め。

 卵を布団にくるむ。変化はない。変わらず綺麗な銀色だ。

 雨が降る前に帰るよ。僕は家を出た。


 ワダツミ海洋研究所が何を研究しているのか、二年以上が過ぎた今でも僕にはぼんやりとしか分かっていない。なんとなく、水質を検査しているのは知っている。深海のことも少々。あちこちから届く海水を調べることが主な仕事らしい。そんな仕事をしている割に、研究者は三人しかいない。僕はいわゆる総務だった。

 僕が入るまで、この三人はどうやって研究所を切り盛りしていたのだろうと不思議に思うことがある。研究者としては立派なのだろうし、真っ直ぐな心、公正さ、情熱。それらはもちろん尊敬できる。けれども、備品の管理や掃除については、アテにしてはいけない。僕はこの三年ほどで思い知っていた。

 研究所の三人は優しい。甘えたくなる。でも、甘えてはいけない。優しさに、押し潰されそうになる時がある。

 胸の奥がキュッと痛む。


「この辺りの海岸にも隕石の欠片が流れ着く可能性がある」

 そんなことを言ったのは片山さんだった。欠片といっても微細な物質で、顕微鏡を使わなければそれだとは分からないらしい。片山さんは海洋化学を専門としていた。

「ケイちゃんも気になるだろう? 俺は気になる」

 片山さんはそう言いながら僕に空のペットボトルを渡した。

 僕は片山さんに連れられて浜辺を訪れた。卵を拾った場所の近くだった。言われるがまま、ペットボトルを海水と砂で満たす。二人で合わせて十本のサンプルを研究所に持ち帰った。

 分析の結果は来年になるそうだ。


 午後からは研究所の窓を拭いていた。一年の終わりだ。大掃除とはいかないまでも、いつもより念入りに掃除をしておきたかった。

 友人の夢を見たせいか、いつもより息苦しさを感じる日だった。苦しみを紛らわせたくて、ただ掃除のことだけを考えた。

 ケイちゃんは実家に帰らないの、と小野塚さんに聞かれたので、僕は首を横に振った。男の子ってそういうものよね、と小野塚さんはそれ以上何も言わなかった。

 正月の、あの独特な雰囲気が苦手だった。親戚たちに色々と聞かれるのも嫌だったが、それよりも新年のきっぱりとした潔さと、何でも許容するようなめでたさが、僕を暗い気分にした。鋭い刃を突きつけられているように感じるからだ。

 八畳の部屋で、いつも通りの日々を過ごすだけでいい。それだけで精一杯だった。


 良いお年を。

 僕たちは互いにそう言い合っていつものように別れた。

 小野塚さんはタヒチに行くと言っていた。タヒチのことは写真でしか知らないけれど、小野塚さんにピッタリの場所なのだろうと思った。小野塚さんは姉御肌だった。自分の思っていることはハッキリと言うけれど、他人の意見にもしっかりと耳を傾ける。

 天気予報の通り、西から近付く雨雲が見えた。僕は家路を急いだ。


 卵はベッドの上に転がっていた。

 あれ、と思った。僕は鞄を仕舞い、手洗いとうがいをして、もう一度、卵を見た。

 卵はベッドの上に転がっていた。

 いいや、僕は布団で卵を包んだはずだった。そういえば昨日も、卵は布団の外に出ていた。

 生きている。

 僕の全身を感動が駆け抜けた。溢れ出す喜びを抑えきれずに、僕は卵を抱き締めた。銀色の卵に耳を当てると、確かに何かが殻を破ろうとしている気配を感じた。

 おいで、ロロ。

 僕は夕飯のことも忘れて、卵を抱いていた。


 雨音に目が覚めた。いつのまにかベッドで眠っていたらしい。

 僕は上体を起こした。卵は腹の辺りに転がっていた。まだ孵化していない。

 時計を見ると、午後八時半。二時間ほど眠っていたようだ。僕は先にシャワーを浴びることにした。

 髪を乾かして部屋に戻ると、卵が少し向きを変えていた。僕は胡坐をかいた上に卵を乗せた。そこが定位置のように思えた。

 ゲームを起動した。

 風が強まり、雨が叩き付けるように窓を揺らす。十五夜の月は分厚い雲に隠れて見えず、夜に沈む窓には僕の部屋が映っていた。僕はカーテンを引いた。


 ディアドラゴン。

 この何の捻りもないタイトルに、何が込められているのか。多くの人はこのゲームを一度遊んだだけで飽きるらしい。

 地図のない広大な世界に散らばった十七の遺跡をすべて訪れると、ゲームはエンディングを迎える。少年とドラゴンの旅はまだ続いてゆく、そんな終わりだ。

 ただ、本当の物語は、五周目に始まる。何度も繰り返し単調な世界を旅したプレイヤーだけが体験できる本当の旅が隠されている。

 五周目になると、新しい要素が追加される。それは、少年の成長だった。ゲームの中で月日が流れるにつれて、少年もまた歳を重ねていく。少年から青年へ。

 逞しく成長したしなやかな肢体で大地を走り回る躍動感。だがやがてプレイヤーは気付く。ドラゴンと人間の絶対的な寿命の差だ。

 徐々に青年はプレイヤーの操作通りには動かなくなる。肩で大きく息をして、うずくまることが多くなる。目には見えない何かが青年の体を蝕んでゆく。ドラゴンは困ったように青年の周りをオロオロと歩き回る。

 ロロ、おいで。

 青年が差し出した手に、ドラゴンは頬をなすりつける。


 僕は泣いていた。大粒の涙が頬を伝う。零れた涙は抱えた卵に落ちて弾けた。この涙が誰を想う涙なのかも分からずに、たださめざめと泣き続けた。

 卵が大きく動いた。

 僕は床にタオルを敷き、その上に卵を乗せた。ゲームを一時停止した。ぬるま湯を溜めた洗面器を卵の横に置いた。卵の傍に寝転ぶ。フローリングがひどく冷たかった。

 何が生まれてくるのだろう。

 今になって僕は考えた。鳥だろうか、魚だろうか。それとも、滅んだはずの恐竜だろうか。

 何だっていい。誰だっていい。

 僕は、君に会いたい。


 孵化が始まったのは日付が変わった頃だった。

 銀色の殻に小さなヒビが入った。そこから徐々に亀裂が広がっていった。卵の中で命が必死にもがいている。

 出ておいで、ロロ。

 卵が倒れた。衝撃で亀裂が崩壊し、卵は銀色の砂になった。

 僕は砂の山から覗いている銀色の尻尾のようなものを引っ張った。

 ピー。

 それは小さい産声を上げた。

 卵から生まれたのは、銀色のドラゴンだった。


 あなたは宇宙飛行士です。

 それは友人が好んだ心理テストの冒頭だった。

 答えはよくあるものだった。その人が望んでいるものが分かるという。赤い花なら愛情、黄色は健康といったように。けれどもそのありきたりな心理テストを友人は好んだ。

 大学時代の友人だった。海洋学を勉強していた。僕のマンションの隣の部屋に住んでいた。

 変り者だったが、誰からも好かれるような人だった。その人望は文学部の僕の元にも届いていた。飲み会に、勉強会に、合宿に。友人には多くの声が掛かっていた。友人はそれらの誘いに、適度に応じ、適度に応じなかった。いつも飄々としていた。

 友人にまつわる噂は様々だったが、その殆どが好意的なもので、たとえ悪意のある噂があったとしても、それは友人の人徳を覆すことなどなかった。

 友人は自分の部屋には帰らずに、隣の僕の部屋に入り浸っていた。悪い気はしなかった。

 僕には友人がいた。


 生まれた竜に、ロロという名前を贈った。

 引き出しからメジャーを取り出した。頭の先から尻尾の先まで、47センチ。翼を広げると、35センチ。体重は2キロと少し。

 砂になった卵の殻は空きビンに詰めて、本棚の隙間を埋めた。

 ロロはゲームの中のドラゴンとよく似ていた。色や大きさこそ違うが、造形は殆ど同じだった。翼は背中から生えている。全身が鱗で覆われている。尻尾の形はトカゲと似ている。

 ぬるま湯に浸したタオルで拭いてみた。卵の時と同じように、傷ひとつない銀色が部屋の蛍光灯の下で輝いた。くすぐったいのか、ずっとピーピーと鳴いていた。

 ドラゴンは何を食べるのだろうか。

 冷蔵庫にあった食材をひとつずつ差し出してみた。ベーコンも塩昆布もお気に召さなかったらしい。スンスンと匂いを嗅いでいたが、すぐにそっぽを向いた。魚が好みならば、明日の朝に漁港へ行けなければ。僕は冷蔵庫を漁った。

 その間、ロロはずっと僕の背中にしがみ付いていた。

 色々と試してはみたものの、結局のところロロが食べたのは味噌汁の中の人参だった。


 遠洋実習でしばらく部屋を開けるから、戻るまで鍵を預かっていてほしい。

 友人との出会いは、大学一年生の初夏だった。隣の部屋に住んでいるのが同じ年の学生だとは不動産屋から聞いていた。部屋の管理を家族や不動産屋ではなく、ただの隣人である僕に任せた。会えば挨拶を交わす程度で、今まで一度も面と向かって話をしたことなどなかった。渡された鍵には小さな貝殻のキーホルダーが付いていた。

 日に日に暑さが増していく。湿度の高さ。日差し。僕は奇妙な隣人を部屋に招き入れた。

 互いに名前さえ知らなかった頃。


 僕が布団に入ると、ロロも入ってきた。僕の胸の上で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らした。まるで猫のようだった。

 明日は人参を買いに行こうと考えていた。ドラゴンと暮らすのには、何が必要だろうか。

 幸いなことに、このアパートはペットの飼育が許されていた。僕は顔だけを動かして自分の左側を見た。

 ベッドで無理に塞いでいるそこに、襖がある。襖の向こうにはもう一部屋ある。本来の間取りは1DKだ。だが僕はダイニングで生活していた。八畳あれば十分だ。学生時代のワンルームはもっと狭かった。

 部屋を閉ざしていた。数か月に一度、風を通す、それだけ。閉じた部屋に物が増えることはなかったし、物が減ることもなかった。

 雨が上がれば、風を通そう。

 僕は瞳を閉じた。夜中に目覚めることはなかった。


 ひとつ、言い訳が許されるのならば。

 僕は年に一度は必ず実家に帰っている。それが正月や盆休みではないだけだ。三連休を利用して帰ることが殆どだった。

 家族と過ごす時間は、かけがえのないものだという。その実感はある。祖母と両親と、時々、姉と兄。穏やかで甘く、厳しくも優しい時間が過ぎる。

 それがどうしても、駄目だった。どうしようもなく、息苦しい。

 自分だけが幸せになってはいけないと、誰かが耳元で囁く。心が軋む音が響く。

 ここから救い出されることを望んではいない。何もなかったかのように生きていく未来が恐ろしい。

 怯えて過ごす毎日。淋しさに溺れて息を止める。誰もが諦めた再会こそが、僕を生かしていた。無様に、惨めに。


 ピーピヨピヨ。枕元で囀る目覚まし時計を止めた。しばらくの間、ぼんやりとしていた。止めたはずの目覚ましが鳴っている。まだ夢を見ている。

 顔に冷たいものが当たった。ロロだった。ロロは僕の顔に自分の顔を擦り付けて、ピーピーと鳴いていた。

 僕は起き上がった。夢ではない。名残惜しいが布団を出る。

 台所に立って、いつも通りのパンを焼きながら、ロロの朝食はどうしたものかと考える。人参以外に食べられるものがまだ分からない。だが、味噌汁の中の人参は昨夜のうちにロロが食べ尽くした。冷蔵庫にも人参はもうない。

 僕は服を着替えた。休日とはいっても、仕事の時と服装は変わらない。研究所は私服だ。深緑のVネックのニットセーター。黒のモッズコート。急いで朝食を済ませて出掛ける支度をした。

 玄関でスニーカーを履いていると、ロロが背中にしがみ付いたのが分かった。僕はロロを背中から降ろして、代わりにトートバッグに詰め込んだ。留守番ではないと分かったのか、ロロはバッグの中で大人しくなった。


 自転車で坂道を駆け下りる。雨は上がり、よく晴れた冬の空が広がっていた。年末の空気。

 ロロはトートバッグから少し顔を出して、しきりに匂いを嗅いでいた。

 大通りはまだ人が少なかった。スーパーの客もまばらだった。僕はカレーの材料を買い物カゴに入れた。人参は出来る限りたくさん。リンゴも買ってみた。大丈夫、正月といえばカレーだ。

 自転車のカゴにスーパーの買い物袋を入れた。トートバッグは肩に掛けた。自転車を押して坂道を上る。海から吹く風が僕の背中を押した。

 洗った人参を差し出すと、ロロは皮も剥かずに齧りついた。火を通す必要もなさそうだ。両手で器用に人参を押さえて、ピーピーと鳴きながら人参を食べていた。これでひとまずロロの食事の心配は必要ないだろう。

 僕は冷めたコーヒーを飲んだ。


 ロロの鳴き声は目覚まし時計の鳴き声と似ていた。調べてみると、クマタカに近いような気がした。猛禽類の声だった。

 一度の食事でロロは人参を半分ほど食べた。残った人参を銜えるとキョロキョロと部屋を見渡した。隠し場所を探しているのだろうか。

 僕はベッドの下から畳んだ段ボールを引っ張り出した。それを組み立ててロロの前に置いた。

 ロロは段ボールの中に入ったり、出たり、しばらく落ち着かなかったが、やがて人参を口から離した。しかし、まだ何か満足していないらしい。

 ドラゴンの巣には何が必要なのだろうか。鳥ならば、木々の枝や羽毛だろう。僕はとりあえずフェイスタオルをロロにあげた。ロロはそれを巣に敷き詰めた。


 ロロは飛べなかった。

 それがまだ生まれたばかりだからなのか、それとも飛べるようには出来ていないからなのか、僕には分からなかった。

 空を自由に飛ぶためには、何かを犠牲にしなければならない。鳥はその体重を捧げた。飛行機は膨大なエネルギーを求めた。

 背中に生えた銀色の翼を大きく広げて空を翔ける日が来るのだろうか。

 そもそもロロは、ドラゴンなのだろうか。

 ロロは僕の頭の上に乗った。そこからの景色を楽しんでいるらしい。重たくはないし邪魔にもならないが、落っこちてしまわないか心配だった。


 僕は台所に立った。カレーをつくろう。

 スーパーで買ってきた材料を狭い台所に広げた。具材は小さく切る。煮込んでいる間に形がなくなる。それが好きだった。全部、溶けて、なくなれ。

 鍋で具材を煮込んでいると、ロロが頭から肩に移動した。身を乗り出すように鍋を見ている。

 しっかりと煮込んでからルーを入れた。カレーの匂いが台所に広がった。昼頃に炊き上がるように炊飯器をセットした。

 今日の昼ご飯はカレーだった。


 昼までの間に、僕は年末年始の計画を立てた。

 この一週間をロロと一緒に、どう過ごそうか。

 ロロを外に連れ出したい。けれど、人目を避けなければならないとも思う。

 犬や猫とは違う。ロロはドラゴンだ。少なくともそう見える生き物だ。深い海の底で眠っていたのか、遠い宙からやって来たのか。誰にも分からないけれど、それはつまり、誰にも分からない生命体だということだ。

 人のいない場所に行ってみよう。誰にも邪魔されない場所へ。

 夜の散歩。冬の海。森の奥。街はずれ。


 僕たちは炬燵で仲良く昼食を取った。僕はカレー。ロロは残していた人参。

 ロロは翼をパタパタと小さく動かしていた。嬉しいのだろうか。

 洗い物を済ませてから、ベランダに布団を干した。

 それからふたりで少し昼寝をした。窓から差し込む冬の日差しは朗らかに、僕たちの眠気を誘った。

 ベッドに寝転がって目を閉じた。今までのこと、これからのこと。過去も未来も、色々なことが瞼の裏に浮かんでは消えた。

 ささやかな幸福の中で、この時間の終わりが必ず訪れることを知っていた。いつか、お別れを言わなければならないだろう。

 終わりを描きながら生きるなんて、そんな、虚しい生き方。

 けれども僕にはどうしても信じられなかった。永遠なんてものは、ただの幻だ。絶対なんて、ただの気休めだ。

 スヤスヤと寝息を立てるロロをそっと撫でた。

 この小さな命が、どうしようもなく愛しい。愛おしくて仕方がなかった。


 一時間ほどで目が覚めた。

 ベランダの布団を取り入れた。遠く高く、鳶が輪を描いて飛んでいた。緩やかに吹く風の中に潮の香りが僅かに漂っていた。身を乗り出して見遣れば、広く青い海が輝いていた。

 ロロはまだ眠っていた。

 僕はゲームを起動した。


 夜になってふたりで夕食を取ったあと、ぼんやりとテレビを見ていた。

 世間は十数年振りの宇宙ブームとやらで、今夜のロードショーも宇宙を舞台にした映画だった。

 ロロは尻尾をぶんぶんと振りながらテレビを見ていた。視界の隅で動く銀色がピカピカと眩しかった。どうやらロロは映像を見るのが好きらしい。チャンネルを色々と変えてみた。ロロの好みは映画のようだった。

 僕は明日、映画を何本かレンタルしようと思った。


 翌朝、いつものように目覚まし時計が囀ると、ロロも一緒になって鳴いていた。僕はアラームを止めて、ロロを抱き上げた。

 ロロが成長しているように感じた。

 測ってみると、体長は3センチ、体重は500グラムほど増えていた。

 ロロは人参をボリボリと食べているが、何かを排泄したりはしない。食べたものすべてが体に吸収されているのだろう。人参がどのようにしてこの銀色の体の糧になっているのかは不思議だった。

 神秘的だと思った。

 他の人たちが恐ろしいと怯えても、僕にはロロがとても神秘的な生き物に見えた。


 洗濯機を回してからいつもの朝食をふたりで食べた。カレーに火を通すことを忘れなかった。

 昨日と同じでよく晴れた日だったけれど、風は今日のほうが強い。

 ベランダに洗濯物を干してから、僕たちは出掛けた。

 大通りにあるレンタルショップでDVDを何枚か借りた。好きな映画や、観たかったもの、店のオススメ。この休みの間、困らない程度。

 それから通りすがりの八百屋で人参を買った。威勢の良い店主がオマケしてくれた。

 ロロはトートバッグの中でずっと大人しくしていた。時折、顔を出して辺りを偵察していた。誰もロロには気付かなかった。自転車が揺れるたびにDVDの入った袋と人参がカゴの中でゴトゴトと小さく跳ねた。


 そのまま僕たちは砂浜まで来た。

 誰もいなかった。海岸沿いの道を走る車もまばらだった。砂浜に下りる階段の手前で自転車を降りた。カゴの中に荷物を残し、ロロだけを連れて行く。

 僕はロロを砂浜に降ろした。ロロは歩きにくそうだったが、物珍しさからか、バタバタと這い回り、クンクンと匂いを嗅いで回った。波打ち際では、寄せて返す波に腰を落としていた。

 しばらくすると、手足が濡れたことが不満だったようで、ピーピーと文句を言いながら戻ってきた。

 僕はロロを抱き上げた。ロロはグネグネと体をねじって僕の腕から抜け出し、僕の上着とセーターの隙間に入り込んで、襟元からもぞもぞと顔を出した。カンガルーの親子のようだった。

「ごらん、ロロ」

 僕は呟いた。

「君はこの海から来たんだよ」

 言葉を理解してはいないだろう。けれどもロロはピーと鳴いた。いつもより少し長く、鳴いた。


 潮風が冷たく、少し鼻水が出てきた。

「ケイちゃん」

 僕は名前を呼ばれて振り返った。僕の自転車の傍に所長が立っていた。こんにちは、と挨拶をした僕の首元に所長の視線が注がれていた。

「ロロです」

 僕は咄嗟にそう言った。それ以外には何も言えなかった。ロロはピーピッと元気に鳴いた。所長は呆気に取られたように立ち尽くしていたが、ハッと我に返って階段を駆け下りてきた。

 所長の顔は好奇心に満ち溢れていた。大物のカブトムシを捕まえた夏休みの少年のようだった。僕はこの砂浜で卵を拾ったこと、そこからロロが孵ったこと、人参を食べていることを伝えた。終始、所長は少年に戻っていた。

 年が明けたら研究所に連れておいでと所長は言った。部屋に残して出掛けるよりも安心だろうと。小野塚さんも片山さんも、きっと驚くだろう。驚くに決まっている。

 それからしばらく僕は所長と世間話をした。隕石のこと、タヒチのこと、初詣のこと。

 別れ際に、所長が言った。

「ずっと考えていたんだよ、閉じてしまった君の世界には、また大切なものが必要なんじゃないかってね。それが見つかったようで、よかった」

 僕は坂道を帰りながら、頭の中で何度もその言葉を繰り返した。


 僕は部屋に戻るとベッドを少しだけ移動させた。そして、襖に手を掛けた。

 閉じた部屋の襖を開けた。

 止まった世界がそこにあった。

 深呼吸。そして一歩を踏み出す。

 カーテンを開けて、窓も開け放つ。差し込んだ光の筋の中を埃が漂っていた。

 この部屋に入るといつも、泣きたくなる。声を上げて喚いて、子供のように駄々をこねる。それでこの世界が動くのならば、いくらでも泣き叫ぶ。

 けれども、どうすることも出来ない現実が僕を打ちのめす。心を折るに充分すぎる。

 三年前のあの日、あまりにも呆気なく、容易く、僕の時間は進むことを止めた。


 友人がいた。

 僕は今、その友人の人生を生きている。


 三年前の今頃。僕は初めてこの街を訪れた。

 駅を出て、バスの路線図を見上げた。今にも雨が降り出しそうな暗い空だった。バスは市街地を走り抜けた。街は賑わっていた。十五分ほどで、海と白い灯台が見えてきた。

 バスを降りた僕は海岸沿いを歩いた。迷うような道ではなかった。強い海風が僕の髪を乱した。すぐに二階建ての白い建物が見えた。僕は玄関のブザーを鳴らした。

 出てきたのは真面目そうな眼鏡の男性だった。僕が要件を伝えると驚いた顔をして、棚で仕切られただけの応接スペースに僕を通した。僕はソファーに座らずに待っていた。

 すぐに柔和で大柄な五十代の男性が現れた。無精髭にコーヒーの匂いが絡まっていた。その人は冷え切った僕の手をその大きな手で包み込むような握手をした。

 僕はその日、生まれて初めて土下座した。


 僕に鍵を預けた隣人が友人に変わるまで、そう長くはかからなかった。

 よくよく考えてみれば、普段の生活リズムも通学路も同じなのだから、会わないはずもなかった。学部が違うからキャンパスでは滅多と見かけなかったが、それでも友人の噂は耳にした。

 課題が終わらないと嘆きながら部屋に転がり込んできたし、淋しいと言って玄関ドアを叩く夜もあった。友人の交友関係は広かったが、それでも友人は淋しいと言った。

 僕が室生犀星の本に埋もれている時、友人は海洋物理学の本に埋もれていた。友人のノートは見たこともない数式で埋め尽くされていた。友人が熱く語る海洋学の話は、僕にはあまりにも難しすぎたけれど、熱中している姿は見ていて心地良いものだった。

 友人に連れ出されて何度も海へ出掛けた。熱海へは尾崎紅葉の金色夜叉を持って、伊勢へは三島由紀夫の潮騒を持って。僕は砂浜で本を読みながら、海へ出掛けた友人の帰りを待った。

 人当たりが良く、成績も優秀な友人がその広い交友関係の中で、とりわけ僕を気にかけてくれることが、気恥ずかしさと共に、幼稚な優越感を僕に与えた。

 それは一年生の初夏から四年生の秋の終わりまで、変わらず続いた友情だった。

 僕の人生で、もっとも色鮮やかな日々だった。


 閉ざした部屋には、友人の荷物を詰め込んでいた。

 家具も教科書も服も、友人の持ち物は家電以外すべて、その部屋に閉じ込めていた。ゴミの日に出してしまうのは簡単だった。けれど僕には出来なかった。

 僕には捨て去ることが出来なかった。そんな薄情な人間にはなりたくなかった。

 僕には諦めきることが出来なかった。そんな強い人間にはなれなかった。

 部屋の真ん中で立ち尽くす僕の頭の上で、ロロがピーと鳴いた。僕はうずくまった。覚悟を決めて立ち入ったのに、僕はいつも動けなくなる。

 小さな棚に飾られた写真の中で、海に沈む夕日を背に、僕の隣で友人が笑っている。

 大学四年生の秋の終わり、木々が赤や黄色に染まり、やがて散る季節。

 友人は忽然と姿を消した。


 余る程の単位を取っていた友人が、大学を卒業出来ないわけなどなかった。就職も決まっていた。卒業旅行の行先だって、モンサンミッシェルの潮の満ち引きを見たいという友人の希望でフランスに決まっていた。それについて旅行会社へ一緒に行く予定も来週末に約束していた。僕はサン=テグジュペリの夜間飛行を買っていた。

 僕の部屋でふたり、缶チューハイを呑みながらレンタルDVDの映画を観て夜を明かしていた。ネットで手軽に映画が観られる時代に、友人はレンタルショップまで出掛けることを好んだ。

 要領の良い友人の影響で、僕も単位は既に卒業要件を満たしており、希望していた会社へ就職することが決まっていた。僕たちは残りの大学生活を持て余していた。

 スタンドバイミーを観た。何度か観たことのある映画だったけれど、友人と観るのは初めてだった。少年たちの関係に自分たちを重ねた。切ない気持ちになった。

 その夜がいつもと違っていたのは、普段は自分の部屋に戻るか、そのまま炬燵で寝てしまう友人が、珍しく僕のベッドに入ってきたことだった。友人は映画の中の台詞を真似た。僕たちは頭から布団を被って、十二歳の少年に戻って語り明かした。安物のシングルベッドが二人分の体重に軋んだ。酒が入った友人はいつにもまして饒舌だった。話の途中、息苦しさに笑い合いながら布団から顔を出した。そしてまた笑い合った。

 翌朝、目が覚めると友人の姿はどこにもなかった。


 二日後、友人の家族から捜索願が出された。警察からも、大学からも、僕は色々と聞かれた。けれども僕には友人の行方が分からなかった。

 友人のスマートフォンは僕の炬燵の上にあり、靴は僕の部屋の玄関に、財布は友人の部屋のカバンの中にあった。マンションの入り口に取り付けられた防犯カメラには、夜間に出入りする友人の姿は映っていなかった。僕たちの部屋はマンションの五階だった。とても窓から出入り出来る高さではなかった。

 何よりも、それほどまでして友人が行方をくらませる理由など、誰にも心当たりがなかった。

 友人の両親は、僕のことを責めたりはせず、むしろ自分たちの子供を口汚く罵った。友人の両親は、友人からは想像もつかなかった。

 彼らは友人の部屋を早々に引き払おうとしていたけれど、せめて卒業式までは待ちましょうと言った教授の言葉があって、部屋をそのままにして友人の帰りを待つことになった。

 僕は酷く摩耗した。いなくなった途端に、友人が、本当は僕にしか見えていなかったのではないか、あれは一体誰だったのかと、不安な時間ばかりが増えていった。そんなことはあるはずもないのに、確かに共に過ごした年月があったはずなのに、僕はどうしようもなく怯えていた。


 友人が戻らないままに季節は秋から冬へと移ろい、はじめのうちは心配していた同級生たちも、やがて友人のことを話さなくなった。忘れようとしていたのだろう、それが、仕方のないことだと分かっていたし、そうでもしなければ前に進めないことを僕も感じていた。

 友人の失踪から一ヶ月が過ぎた頃、ポストに封筒が入っていた。差出人の名前はなく、消印もなかった。けれども僕の名前を綴るその字には確かに覚えがあった。

 友人からだった。

 角2の封筒の中に、何枚かの手紙と小さな封筒がいくつか入っていた。僕は手紙を広げた。

  


 景

 お元気ですか。

 別れの言葉ひとつ残さずに、いなくなったりして、ごめん。理由は言えない。ごめん。

 忘れることが景のためになるなら、すべて忘れてしまって。ぜんぶ。だいじょうぶ、平気。

 でももし、もう一度会いたいとのぞんでくれるなら、海の見えるまちで待っていて。会いに行ける。むかえにいく。

 いくつかたのみたいことがある、めんどうだろうけれど、景にしかたのめない。

 ごめん。でも、よろしく。

 ばいばい、また、いつか。

  

 それだけだった。平仮名の多い短文と走り書きしたような右肩上がりの字が、急いで書き留めたことを物語っていた。残りの手紙は言ってみれば指図書で、どこに行って何をしてほしいのか具体的な内容が書かれていた。ささやかな望みもあれば、重すぎる頼みもあった。

 就職するはずだった研究所に内定辞退書を届けてほしい。借りる予定だったアパートの契約を解除してほしい。部屋に残っているものは好きなだけ持っていって構わない。両親のことは気にしなくていい。ベランダの鉢植えの花をどこかに植え替えてほしい。図書館で借りていた本を返却してほしい。しあわせになってほしい。本当は忘れないでいてほしい。

 それからの僕の生活は、友人から託された頼みごとを解決する日々になった。大学図書館で借りた本は返却期限が切れていた。司書は学生課に確認して事実を知り、申し訳なさそうに返却手続きをした。ベランダの鉢植えは友人の私物とともに僕が引き取った。

 帰ってはこないことが分かれば、いくらか気が楽になった。待てば会えるという希望を知って、ようやく前に進める気がした。僕は友人からの手紙を誰にも口外しなかった。

 いくつもの頼みごとを片付けていくたびに、手紙に同封されていた封筒は減っていった。そしていよいよ残ったのは内定辞退書と、就職してから暮らすはずだったアパートの契約書だけになった。

 僕はそれらを鞄に入れて、久しぶりにスーツを着た。就活をしていた頃よりも大きく感じたのは気のせいではなく、友人がいなくなってから僕の体重は減っていた。

 暗い海の底に沈んでいるような感覚があった。何も見えない、聞こえない。誰にも邪魔されない。息苦しい楽園で、僕はただ虚しかった。

 友人の指示通り、僕は電車を乗り継いで海辺の街を目指した。


 研究所の三人は土下座する僕を引き摺るようにソファーへ座らせた。

 途中で放り出すような奴じゃないんです、そんな無責任な人間じゃないんです、海が好きなんです、本当に好きなんです、海のことを研究したいってずっとそう言っていたんです。

 頭が上手く回らなかった。自分が何を言っているのかも分からなくなっていたけれど、どうしても友人を責めないでほしかった。友人がどれほど海を愛していたのか、その情熱を伝えなければならない気がした。

 僕は鞄の中から内定辞退届を取り出して、髭の男性に無理矢理握らせるように渡した。

 そのまま、外へ飛び出した。

 雨が降り始めていた。僕は傘も差さずに砂浜を走った。

 砂に足を取られて転んだ。黒い海が唸り声を上げていた。僕は砂浜に拳を叩きつけた。何度も何度も、振り下ろした。スーツが汚れても構わなかった。水に濡れた砂が重くなる。雨か涙かもう分からなかった。

 激しく降る雨さえも、僕の慟哭を掻き消すことは出来なかった。


 不意に雨が止んだ。僕は顔を上げた。髭の男性が僕に傘を傾けていた。

 つらかったねとか、悲しかったねとか、そんな言葉はもう聞き飽きた。君のせいじゃないよと言われたって、信じられなかった。友人を責める言葉には耳を塞いだ。僕を労う言葉には心を閉ざした。

 髭の男性は自分が雨に濡れることも厭わず、ずぶ濡れになった僕に傘を差していた。

「そんなものはね、たかだか二十二歳が、たったひとりきりで背負っていいものじゃぁないと思うんだよ」

 その人はそう言った。静かな声だった。けれども波音と雨音の中で、僕の元に、はっきりと届いた。

「待ち続けることは、忘れ去ることよりも、うんと苦しい選択だよ。楽になってもいいんだ。それでも君は、待つことを選ぶんだね」

「待ちます」

 僕は答えた。

「待てます、僕が待たなきゃいけないんです」

 僕の答えに頷いた男性は、僕に手を差し伸べた。僕はその手に引き上げられた。暗い海の底から浮上する感覚があった。

 待ち続けてもいいんだよという言葉は、僕を惨めな思いにさせたけれど、その言葉がずっとほしかったのだと気が付いた。


 友人の失踪を研究所の人たちは知っていた。大学から連絡が入っていたそうだ。けれども僕が訪ねてくることは想定外で、まさか友人直筆の内定辞退書を携えているなんて誰にも想像できないことだった。

 研究所のストーブに当たりながら、僕は友人のことを聞いた。残念だと所長は言った。所長は友人の情熱を認めてくれていた。誰よりも悔しがっていたのは片山さんだった。片山さんと友人の専門分野には共通するところが多かったらしい。小野塚さんは僕にタオルをくれた。

「私だったらとてもじゃないけれど、こんなことは出来ない、つらくて投げ出しているわね」

 そう言いながら甘いコーヒーもくれた。

 所長は内定辞退書が入っていた封筒から、真っ白なままの履歴書を取り出した。君さえ構わなければ、と前置きをして、所長はその履歴書を僕に渡した。研究員も必要だが、研究を支えてくれる事務員も必要だからね。片山さんが僕にボールペンを差し出した。

 僕はハッとした。鞄の中から友人のアパートの契約書が入っているはずの封筒を取り出して封を開けた。友人自身の契約書の控え、それから、もう一枚。僕の名前の、あとは署名と捺印だけの契約書。

 普通の人ならば、友人のことを疑うだろう。どこまで用意していたのか、なぜいなくなったのか、何を隠しているのか。もちろん、僕だって疑問は抱えている。

 けれど、理解してほしいとは思っていない。僕はもう普通のレールからは外れていた。今更、戻ることなど出来なかった。あの夏の日、鍵を受け取った時にはこうなることが決まっていたのだろうか、それならば、友人の忍耐強さは、どれほどのものだっただろう。

 見え透いた不自然さに縋りつくしかない僕を愚か者だと笑えばいい。


 ロロがピーと甲高く鳴いた。

 僕は我に返った。開け放ったままの窓から、鳥の鳴き声や表を行き来する人々の声が聞こえた。この部屋の外で、世界は相も変わらず回り続けていた。

 この部屋をもともと契約していたのは友人だった。その契約をそのまま僕は引き継ぐ形となった。不動産屋もアパートの大家も、借り手があるに越したことはないと言っていた。そういうものだろうと思った。

 一人暮らしには余る部屋に、友人の私物を仕舞い込んだ。それは大きな宝箱のようだった。

 僕は台所に戻って蛇口をひねり、マグカップに水を注いだ。その水を持ってベランダに出る。友人から譲り受けた植木鉢の花は、あれからもずっと枯れずにいた。僕は鉢植えに水をやった。

 イカリソウ。名前の書かれたプレートが土に刺さっていた。それで僕はこの植物がイカリソウという名前なのだと知った。耐寒性も耐暑性もあり、花に疎い僕にも育てやすい植物だった。毎年、四月くらいになると薄い紫色の花が垂れた。イカリという名前だったが、その花は船を固定出来るほど頼もしいものではなく、繊細で儚げな花だった。


 カレーを食べながら、テレビで昼のワイドショーを見た。

 海に落ちた隕石の欠片、その一番大きいものをどこかの国の軍艦が回収したらしい。映像が流れた。

 僕は危うくスプーンを落とすところだった。

 隕石の欠片だというゴツゴツとした茶色の岩の中に、銀色に輝く卵が埋まっていた。一目見ただけで分かった、それがロロと同じ卵だということが、一瞬の映像だけで分かった。

 海から来たわけではなかった。僕は炬燵の上で人参に夢中になっているロロを見た。海の底で眠っていた恐竜の卵ではなかった。

 君は宇宙から来たんだね。

 僕がそう言うとロロは人参から顔を上げて、ピピッと短く鳴いただけだった。


 部屋に掃除機をかける間もロロは僕の頭の上に乗っていた。ちっとも怖くはないらしい。

 地球外生命体でも、人参は食べるんだなぁと、僕はロロの体重を感じながら先程見たニュースのことをぼんやりと考えていた。

 ロロがひとりぼっちではないことが、嬉しい。僕だけのロロという僕の醜い優越感よりも、ロロの孤独のほうが僕にとっては大切だった。

 次第に動けなくなってゆく青年をただ見ていることしかできないドラゴン。僕たちもきっと、そうなるのだろうという予感があった。

 地球とは異なる星からやって来た命が、この地球で、どれくらい生きるのか誰にも分からない。卵があるのだから、その命には終わりがあるのだろう。いつか必ず訪れるその日は、いつ訪れるのか。

 人間の肉体よりも、銀色の金属の肉体のほうが、頑丈に決まっている。人参を食べては成長するこのドラゴンは、どれほど大きく育っていくだろう。

 その時、僕は傍にいられるのだろうか。


 さすがにカレーも少し飽きた。

 僕たちはスーパーに買い出しに行って、麻婆豆腐の素を手に入れた。中華料理の気分だった。野菜も食べなければとキャベツを千切りにした。ロロはキャベツを一度は口に入れたものの、すぐに口から吐き出した。お口に合わなかったようだ。何だろう、歯ごたえだろうか。

 その日の夕飯は麻婆豆腐丼にした。夕方のニュースを見ていた僕は、今度こそスプーンを落とした。

 昼間のニュースの続き、隕石の欠片を回収した船が港に戻り、そこで、沈んだ。陸地からの映像があった。真っ二つになった船は炎に包まれ、黒い煙が空を覆っていた。乗組員たちが救命ボートで命辛々、逃げ出していた。それほど深い海ではなかった。大きな船の残骸は海底に突き刺さり、海面から船の先端が出ていた。

 墓標のようだった。

 あれは。心臓がうるさい。銀色の。耳の奥に鼓動が響く。

 人の形をした銀色が、墓標の上に立っていた。

 大きな爆発で画面が揺れて視界が煙に飲み込まれた。黒煙が晴れる頃、銀色の姿は消えていた。

 僕はチャンネルを変えた。


 借りてきた映画を再生した。こだわり抜かれた映像美。壮大なストーリー。感動的な結末。そのどれも、ひとつとして今の僕には響かなかった。

 ロロは僕の頭の上に乗って映画を観ていた。

 ニュースの映像が頭から離れなかった。黒煙の中に佇む銀色。あれは、ロロの仲間なのだろうか。

 卵を拾った。孵化した命を、僕はドラゴンだと思った。けれどそれは間違いだった。卵は隕石とともに宇宙からやって来た。ロロがドラゴンの形をしているのは僕のゲームの影響か。鳴き声は、アラームの音。

 ロロの本当の姿を僕は知らない。何も知らない。何も分からない。

 こんなにもロロを愛する理由さえ、僕には分からなかった。


 あなたは宇宙飛行士です。

 友人が初めてその心理テストを口にしたのは、二年生の夏休みだった。友人に連れられてやって来たのはいつものような砂浜ではなく、ゴツゴツとした岩が転がる海岸だった。

 うだるような暑さ。僕に麦わら帽子を被せると、友人は足場の悪さもものともせずに軽々と進んでいった。潮が引いて岩肌が夏の日差しを反射していた。へばりついた海藻がヌラヌラと光っていた。

 僕たちの旅はいつだってふたりの要望の両方を叶える計画だった。あの時は確か、友人は奇岩を見たいと言って、僕は文豪の資料館に行きたいと言った。その両方を満たす場所を探した。交代でレンタカーを走らせた。

 友人の要望通り、そこには妙な岩の列が本土から沖合の島へと続いていた。海に打たれた杭のようだと観光パンフレットには載ってあった。そそり立つ岩に圧倒された。

 別の惑星に来たようだった。無性に怖くなった。僕は動けなくなった。知らない星で、迷子だ。

 僕が追いかけてこないことに気が付いた友人が駆け足で戻ってきた。

 心理テストはその日の夜、宿の温泉に浸かっている時に友人が言った。


 あなたは宇宙飛行士です。

 月面に降り立つと、そこには一面の花畑が広がっていました。

 さて、その花の色は何色ですか?


 いつの間にか眠りに落ちていた。炬燵に突っ伏して眠っていた。目を開けると目の前に銀色があった。僕の頭の上から転げ落ちたロロだった。ロロも眠っていた。

 僕は立ち上がって伸びをした。無理な姿勢で眠っていたからか、首や腰がポキポキと鳴った。

 再生が終わったディスクを取り出して片付けた。真夜中になっていた。

 僕はコートを羽織って外に出た。

 眠る街は静かで、月は眩しく、星の光を遠ざけていた。

 僕は砂浜まで歩いた。風は殆ど吹いていなかった。波も穏やかだった。

 真夜中の散歩は、友人がいなくなってから始まった。夜中に目を覚ますことが多くなった。暗闇で目を開けて、いるはずのない友人の姿を探した。

 あの夜、僕が起きてさえいれば、友人は今でも海を見ていたのだろうか。

 潮風が鼻をくすぐった。僕は息を吐き出して、砂浜を後にした。

 部屋に戻ると、ロロがピーピーと鳴きながら走り寄ってきた。ひとり置き去りにされたのが悲しかったらしい。僕はロロを抱き上げて頭の上に乗せた。歯磨きを済ませて、ベッドに入った。シャワーは明日の朝に浴びればいいかと思った。


 友人の夢を見た。

 それが夢だと分かっていた。

 僕と友人はレンタルショップにいた。大学時代によく通った店だった。店内には店員も客もおらず、DVDが並んでいるはずの棚は空っぽだった。

 何かを探すように、僕は店の中を行ったり来たりしていた。友人は僕の後ろを付いてきた。

 ふと気が付けば、空っぽだったはずの棚にDVDが何枚も並んでいた。手に取ってみれば、友人の思い出を切り取ったパッケージばかりが並んでいた。教授に連れられた学会。同級生。飲み会。授業の風景。学食。ゼミ。通学路。旅行。

 違和感はあった。喜びや幸せという光が作りだす影の中に、曖昧な不安がずっと潜んでいた。

 友人が自分から家族の話をしたことは一度もなかった。正月も夏休みも帰省しなかった。学費は特待生制度と奨学金で賄っていた。それほど優秀な成績を収めていた。大学院に進学して研究を続けるだろうと、教授も同級生もみんながそう思っていた。けれども友人は頑なに就職を希望した。遠く、遠くへ。

 淋しいと言って泣いた友人に、僕は何と声を掛けただろうか。


 アラームを止めた。カーテンの僅かな隙間から朝日が差し込んでいた。

 ああ、朝だ。

 僕は左目を擦りながら起き上がった。ロロは僕の隣で丸くなっていた。昨夜よりも明らかに大きくなっていた。孵化したばかりの頃は猫ほどだったはずなのに、たった数日で柴犬くらいになっていた。僕はロロを起こさないように気を付けながらベッドから抜け出した。

 いつも通りの朝食を食べてから、シャワーを浴びた。テレビを点けるのが怖かった。あのニュースの続報を知ることを恐れていた。けれども、知らなければならないとも思う。僕は流れて消える泡を見送った。

 僕は、他の人たちのように、忘れて諦めて捨て去って、そうして前に進むことが、僕には出来なかった。

 縋り付いた。目の前にあった将来をすべて擲った。普通の人なら選ばない道を僕は選んだ。惨めで無様。怒られて、呆れられて。それでも僕は待つことを望んだ。

 でも、うまく笑えなくなったのは、苦しい道を選んだからじゃない。

 淋しい。

 あなたがいないから、淋しいんだ。


 大晦日の街は、少しの焦燥感を帯びていた。いつもとは違う空気。見えない何かが翳りとなって街を覆っているようだった。それは不安かもしれなかったし、期待かもしれなかった。何かが変わる、それは確かだった。

 ロロを連れて外に出た。トートバッグにはもう入りきらなかった。坂道の途中、誰にも会わなかった。

 海を見下ろす丘の上の公園。先客は小鳥たちだけ。無造作に伸びた草を掻き分けて、朽ちかけた展望台から海を眺めた。ゲームの中と似ていた。かつて少年だった青年もドラゴンとふたり、朽ちた遺跡から海を見ていた。

 沖合の漁船、水平線の貨物船。白い波。煌く冬の海。何もかもが普段と同じで、怖い。

 ロロは草むらを駆けた。その姿は犬のようだった。黄色や茶色の草の中で時々銀色がキラリと光った。

 遠く宇宙からやって来たロロを、地球は受け入れてくれるだろうか。燃え上がる船が目の奥に焼き付いている。同じ生き物だという証拠はなかったけれど、自信はあった。あの銀色はロロの仲間だ。

 仲間に会いたいだろう、僕は駆けるロロを見遣った。青年がいなくなったあと、あのドラゴンはどうなる。僕がいなくなれば、ロロは、どうなる。

 出来ることならばずっと、ロロと一緒にいたい。でも、仲間の元に帰してあげたい気持ちも本当だ。

 こんなにも、愛しいのに。それだけでは、駄目なのか。

 僕は塗装の剥がれたベンチに座ってロロを見ていた。ロロが成長すれば、こうして外を自由に駆け回ることも出来なくなるだろう。走れ、ロロ。たとえ世界が許さなくとも。

 しばらくすると、コートのポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。所長からの着信だった。


 僕は坂道を駆け下りた。部屋に自転車の鍵を取りに寄り、すぐに戻って自転車を漕いだ。ロロはカゴの中で風を楽しんでいた。

 研究所の前で片山さんが待っていた。片山さんはロロの姿を見ても、さほど驚きはしなかった。所長からロロのことを聞いているのだろう。所長は研究所の中で誰かと電話をしていた。その顔が険しい。点いたままのテレビでは同じ映像が繰り返し流れていた。

 太平洋を横断する貨物船が撮影した映像だというそれには、海面を斬り裂く銀色の物体が映っていた。まるで氷の上を滑るように水の上を移動する。

「今のままの方角にずっと進めば、この街に来る」

 研究所の名前が入ったウインドブレーカーを羽織った片山さんがそう言った。それが片山さんの仕事着だった。戸棚から取り出した航路図を机に広げて、片山さんはたくさんの線を描き込んでいく。

「あれの進路はぶれていない。真っ直ぐにこの街を目指している」

 潮の流れ、海の深さ、天候、風。ノリで取っただけだと笑っていたけれど、片山さんは海技士の資格を持っている。小野塚さんも船舶免許や潜水士の資格を持っている。海と生きる人たちだった。片山さんはペンを置いて息を吐いた。成分分析中の機械がウォンウォンと唸っていた。

「情報が確かならば、明日の夜には着く。その子の元へ、やって来る」


 片山さんはロロを抱き上げた。ロロはピーと長く鳴いたけれど、嫌ではないらしい。綺麗だな、と片山さんは呟いた。ロロは片山さんの眼鏡が気になるようだった。僕はソファーに体を預けるようにして座り込み、テレビを眺めていた。ニュースの内容が頭に入ってこない。

「好きだよ、こういう、未確認生物とか。じゅうぶんに信じられる。だって海にも神秘は満ちているだろう」

 顎を撫でられたロロは翼をはためかせた。片山さんは所長ほど優しい口調ではないし、小野塚さんほどハキハキとは喋らない。けれども、その少ない口数には温かさがあった。


 所長が電話を終えて戻ってきた。その表情で察しが付く。

 海を駆ける銀色がロロを目指しているという確かな証拠はない。けれども、それ以外の理由が見つからない。

 人々は軍艦を沈めた未知の生命体を拒絶するだろう。襲来。それは脅威だ。

 空も飛べない、人参しか食べない。僕がどれほど言ったところで、世間はそれを信じない。ロロだって一緒だと、宇宙からの侵略者だと言われるかもしれない。

 テレビの中のコメンテーターが深刻そうな表情でありきたりな言葉を並べていた。政府は海上自衛隊を派遣すると発表した。沿岸地域に避難勧告が出されるという。専門家だという人たちがいざという時の行動を解説していた。掌を返したように、世間は宇宙の危険を語った。

 ソファーから立ち上がることが出来ない。僕はテレビ画面を見詰めたまま、ただ息をしていた。

 悪だ。

 何も知らないまま、綺麗なまま、ロロは世界の敵になる。


 ロロ。

 青年は宙へと手を伸ばす。その手にドラゴンが頬を寄せる。芽吹く緑。澄んだ青空。深い海。咲き乱れる花。果てた世界に風が吹く。

 これは別れの物語だ。

 ありきたりな、悲しい話だ。


 友人の帰りを待つために、僕は希望していた会社の内定を辞退した。

 勇気があるな、と同級生たちは言った。他人事だったからだ。僕も友人も、彼らの人生の通過点に過ぎなかった。

 両親を説得することは出来なかった。結局、最後に両親が折れたのは、姉のおかげだった。両親は三人の子供を平等に愛そうとしていたが、年の離れた姉は僕を溺愛していた。そんな姉の影響か、兄もまた僕は庇護すべき対象だと思っていたらしい。恵まれた環境だった。だからこそ、つらかった。

 子供の将来を心配する親心は、痛いほどに感じていた。わざわざ困難な道を進むのは、無謀だと分かっていた。けれども僕にも譲れないものがあった。

「忘れろ、諦めろ、その言葉がどれほど景を傷付けていると思うの。景にとって何が一番の不幸なのか、決めるのは景よ。その痛みを私たちには想像することしか出来ないんだから、前を向きなさいなんて言葉、あまりにも無責任よ」

 姉はそう言って僕を庇った。でも、と姉は続けた。

「納得したら、前に進みなさいね。私たちみんな、景は幸せになれるって信じているから」

 幸せとは何だろうか、と思った。ありきたりな幸せじゃなかった。僕自身にとっての幸せを見つけなければ。そして僕は幸せだと証明しなければ。そうでなければ家族もまた、僕と同じように、底のない淋しさに囚われてしまうだろうから。


 家族でも恋人でもない他人に縛られる人生を、愚かだと思うだろうか。

 進むことも戻ることも出来ない停滞した人生を、くだらないと笑うだろうか。

 偽善や独善、所詮は友達ごっこに過ぎないと、中傷するだろうか。

 自分だけは特別だなんて思い込みたいだけだと、非難するだろうか。

 けれども僕は、友人と生きた日々が、友人との出会いが、これから先の人生のすべてを擲ったとしても価値のあるものだと信じている。

 僕にとっては、友人が、生きる理由になる。

 夜の海を進む船を導く灯台のように、今までも、いなくなった今でもまだ、これからもずっと、友人は僕の光だ。僕の切望だ。

 それだけが、すべてだ。


 街の防災放送が響いていた。遠くでサイレンが鳴っている。海鳥たちがけたたましく声を上げて飛び立った。この街にも避難勧告が出されたらしい。

 僕は所長に連れられて自分の部屋に戻っていた。しばらくここには帰ることが出来ない。着替えや貴重品を鞄に詰め込んだ。ロロの人参も。ベランダのイカリソウも。

 そして、部屋を出た。

 この三年間。僕は友人が用意した人生を生きた。けれども、この街で暮らした日々は、不幸ではなかったと思う。いつだって淋しさの中にあったけれど、それでも僕は、この日々に意味を感じていた。

 夢かもしれない。今でも時々、そう思う。全部、ぜんぶ。目を覚ませばあの秋の日の朝で、友人はそこにいて、僕たちはまだ大学生で、それぞれの未来が待っている。ただの、夢だ。僕はひとりだ。

 特別であり続けたいと願ったのは、本当のことだ。独り善がりだと分かっていた。それでも縋り付いていればいつの日か、報われる気がした。帰ってきた友人の一番でいられる。そんなことを考えた。

 なんて醜いんだろう。なんて、惨めなんだろう。


 途中、スーパーに寄って食料品を買い込んだ。レトルトやインスタント。仕方がない。年末年始でいつもの食堂は閉まっているし、研究所の給湯室は調理に向いていない。ロロの人参も買い足した。

 街の人たちはノロノロと逃げる準備をしていた。実際のところ、逃げろと言われても、どこへ逃げればいいのか分からないし、そもそも何から逃げるのか、理由も分からない。世間話の中、街は少しずつ静かになっていった。

 海沿いの道にはパトカーや消防車の姿があった。漁業組合の人たちも心配そうに海を見ていた。波は穏やかで、やっぱりいつもと何も変わらないような気がした。

 ロロは研究所で賢く待っていた。片山さんがいてくれたから、少しは安心できた。人参をあげた。喜んで食べた。一度に半分しか食べられなかったのに、今は三本も食べる。明日になればまた大きくなっているだろう。

 大きくなれ。

 逞しくなれ。

 僕はロロの背びれを指で辿った。冷たさの中に、確かな命の息遣いがあった。


 まさか研究所で年を越すことになるなんてね、という所長の呟きに僕は顔を上げた。

 所長はそう言いながら髭を触った。三人で昼食を取ってから、片山さんは二階の研究室に籠っていた。僕はロロを膝に乗せて、所長と話をしていた。ロロのこと、今後のこと、向かってくる銀色のこと、僕自身のこと。

 僕が初めてこの研究所を訪れた雨の日のことを聞いてみた。今まで一度も聞いたことはなかった。怖くて聞けなかった。

 秘密だったけれどね、と所長はコーヒーの入った橙色のマグカップを傾けて続けた。

「ケイちゃんが来ることをね、みんな知っていたんだよ。ケイちゃんが来るひと月ほど前に、手紙が届いたんだ」

 その言葉は思ったよりも素直に僕の心の中に収まった。

 ああ、と僕は小さく息を吐いた。

 友人の狡猾さには呆れる。何もかも見透かして、僕がこの街に留まるようにと、あらかじめたくさんの準備をしていた。そのすべてをひとことも、僕には漏らさなかった。

 その企みの真意は定かではない。友人のことだ、突然ひょっこりと戻ってくるだろう。海を愛する友人に言わせれば、潮時という時期が、その時なのだろう。だから今は、瀬戸際という時期なのだろう。

 友人は、僕の名前の清という漢字を、やけに気に入っていた。流れる水の音だと言って喜んだ。

 立ち回りの上手い人間だった。その抜け目のなさを、周囲には感じさせないところが、唯一、友として悪いところだった。あまりにも隙が無く、本当の心の内というものは、誰にも明かされることがなかった。

 そんな友人が姿を消してなお、僕の人生に干渉してくる。この今を、誇らしく思っても、格好悪く縋り付いても、自惚れても、僕は赦されるだろうか。


 午後三時過ぎ、研究所に警察が来た。玄関先で所長が対応に当たっている間、僕はロロとその様子を窺っていた。しばらくやり取りが続いていると、消防、自衛隊と、次々に人が集まってきた。僕たちは終始、息を殺していた。

 やがて、静かになった。

 所長はやれやれと、億劫そうに戻ってきた。疲れが顔に出ていた。

「逃げなさいと言われても、ケイちゃんは逃げないだろうね」

 困ったように所長が笑うので、僕も困ってしまった。僕は、と口を開いたものの、続く言葉が見つからない。僕は口を噤んだ。

「けれどケイちゃんが逃げたところで、あれは追いかけてくるだろうね。どこまでも。ロロと一緒にいる限り」

 その言葉に、僕は無意識のうちにロロをギュッと抱きすくめた。ロロは僕の腕の中でピーと甘えるように鳴いた。

「ケイちゃんを責めているわけじゃないんだ、ロロと離れ離れになんて、させない。ただ、現実問題として、どうしてものかと思案に暮れている」

 所長は無精髭を撫でた。


 僕が借りていたDVDをみんなで観た。グリーンマイル。三人揃ってボロボロと泣いた。

 それからインスタントの蕎麦を食べた。ロロは相変わらず人参を食べていた。ずっと一緒にいたのに、いつのまにかロロはさらに大きくなっていた。それでもロロは、ロロだった。さすがにもう僕の頭の上には乗れない。僕の膝の上に顎を乗せて、ゴロゴロと気持ちよさそうに目を瞑っていた。

 海辺の小さな研究所。大晦日。迫り来る銀色。一年最後の夜に、呑気なものだと呆れられるかもしれない。けれども僕の心はひどく穏やかで、外で光る赤色灯も、響くヘリコプターの音も、まるで遠い世界の出来事のように思えた。

 現実味がない、そう言ってしまえばそれだけのことだった。

 それでも年は明けて、朝は巡るだろうし、銀色はやって来るだろう。

 そのままソファーで眠った。ロロは僕に乗っかってきた。大きくなって体重は増えていたけれど、苦しくはなかった。


 けれども目を覚ましたのは、妙に息苦しかったからだろう。

 薄明りの中で目を開けると、目の前にロロの顔があった。一段と大きく成長していた。僕の上で丸くなっているけれど、僕からもソファーからも、もうはみだしてしまっている。さすがに少し重い。

 呻いていると、ロロも目を覚ました。ピーという鳴き声は体が大きくなってもそのままだった。僕の顔に自分の顔を擦り付けて甘えてきた。ひんやりとしていて心地良かった。

 ぼんやりと明るいのは、所長と片山さんがテレビを点けていたからだった。見慣れた景色が映っている。

 時刻は朝の六時前。新しい一年の始まり。

「おはよう、ケイちゃん。あけましておめでとう」

 僕が起きたことに気が付いたふたりと新年の挨拶を交わした。片山さんが続ける。

「銀色の移動速度が上がっているようだ、昼過ぎには着くかもしれない」

 テレビの中では、沿岸部の住民の避難をしきりに促していた。確かに、外でも防災無線が流れている。けれども風の向きが悪いのか、何と言っているのか聞き取れなかった。

 おせち料理の代わりに、食パンに色々な缶詰を乗せて焼いた。いつものベーコントーストと別のものを食べるのは、何年振りだっただろうか。所長と片山さんは専門的な話をしていた。話の内容は理解出来なかったけれど、海の話をする時、いつも少年のような顔になる、研究所の三人の好奇心と情熱を傍で見ているのは心地良い時間だった。

 僕は、ふたりは逃げなくていいのか、と思った。僕がふたりを引き留めているのではないか、と。僕が逃げないから、ふたりも逃げられないのだ。

「それは考えたこともなかったねぇ」

 所長はトーストの上に乗せた納豆を落とさないように気を遣いながら答えた。

「こんな機会、もう二度とないだろうから。この目でしっかりと見て、耳で聞いて、心に焼き付けておかないと。研究者冥利に尽きるよ、ねぇ片山君」

「そうですね。ヅカさんには悪いですけれど、楽しいですね、今までのどんな研究より」

 片山さんはそう言ってシーチキンの缶詰を開けた。ロロは人参を何本も食べた。

 それにしてもロロは大きくなった。僕の細腕ではもう持ち上げられない。

 相変わらず銀色の体はキラキラだった。銀細工に息を吹き込んだようだった。

 

 それから僕は防波堤に座って、実家に電話した。海鳥たちが僕の周りに集まってきた。

 家族は随分と心配していたけれど、研究所の人たちと一緒にいることを伝えると安心したのか、他愛のない話を少しした。

 海沿いの道を自衛隊の車やパトカーが通り過ぎていく。

 電話を切った僕は海鳥たちに囲まれて、徐々に明るくなっていく空の下、テトラポットに当たって弾ける波を見ていた。

 心の水面は穏やかで、朝の風が海の香りをまとったまま、街に吹いていた。

 

 友人に出会う前も、友人がいなくなった今も、海のことをそれほど愛しているわけでもない。友人にとっては特別なものだけれど、僕にとってはそうでもない。こうして海を眺めていても、海の神秘に思いを馳せたりはしない。

 ただ思い出すのは、友人のことばかりだ。

 友人に導かれるままに、この街で過ごした年月。半分は友人の所為で、残りの半分は僕の意志だ。

 時の流れの中で、友人の姿が徐々に曖昧になっていることを感じていた。思い出が遠ざかる。少しずつ綻びていく。友人はすべて過去のもので、新しい変化が訪れるわけでもない。静かに、ただゆっくりと、自分の心の中が見えなくなっていく。

 どんな話をしただろうか。一緒に何をしただろう。友人は、どんなふうに笑っていただろうか。

 僕だけは忘れまいとして、それだけが僕にとっての矜持であり、僕を縛り付けていた。再会の約束と期待、僕だけは特別でありたいという拙い願いを支えにして、欠落感や虚無感をどうにかして生き抜いてきたのだ。

 海に来れば、友人を思い出す。瞼の裏を鮮やかに走り回る。潮騒の中に、声が聞こえる。気に入っていた柔軟剤の香り。砂を踏む音。照りつける日差しを反射する波間。差し出された麦わら帽子。

 それらがすべて遠い幻だとしても。

 僕にはこれしかない。無様に縋り付くほかに、もう進む道標がない。


 再会を待ち望んでいても、いつか終わると信じていても、そのすべてが報われずに潰えるということを、ずっと前から気が付いていた。頭の中では、無惨に散る未来を描いていた。

 けれども心は終わりを恐れていた。


 研究所に戻って、窓から外を見ていた。昼食時だというのに、街は静まり返っていた。誰もいなかった。通り過ぎるのは警備の車ばかりだった。物々しい雰囲気になってきたね、と所長が心配そうに言った。僕と片山さんは頷くだけだった。ロロは座っている僕の頭に顎を乗せて、ピーピーと囀った。

 そうしてしばらく外を見ていると、配備された緊急車両の間を縫うようにして、黒いバイクが現れた。僕たちにはそれが小野塚さんだとすぐに分かった。警察官たちが慌てて小野塚さんを追いかけていた。うわ、と片山さんが小さく呻いたのを僕は聞き逃さなかった。やれやれ、と所長が外に出ていった。

 やがて所長と小野塚さんが戻ってきた。小野塚さんは少し日に焼けていた。


 小野塚さんはロロを見ても驚かず、やはり所長や片山さんと同じように楽しそうだった。

 座っているロロはすでに僕の胸あたりまで成長していた。街で見掛けるどんな犬よりも大きい。小柄な熊ほどありそうだ。それでも変わらず僕に甘えてくるし、人参しか食べない。

 点いたままのテレビでは、銀色の到着予報や、避難時の注意など、正月とは思えない緊迫した内容ばかりだった。

 対する研究所は異変が嘘のように落ち着いていた。のんびりしすぎているとも言えるだろう。けれども研究者三人の話の内容は、どんなテレビ番組よりも具体的だった。

「ロロとあの銀色が同種の生物だとして、その外見の違いはどう説明しようか?」

 所長が議題を提示した。すかさず小野塚さんが僕に尋ねる。

「孵化時から完全なドラゴンの姿で生まれたの?」

 僕は頷いた。それから、ゲームの中のドラゴンの姿に似ていることを話した。片山さんがゲームの画像を検索してみんなに見せた。鳴き声はゲームのものではなく、目覚まし時計の音に似ているということも伝えた。

「ロロがゲームを模倣したと仮定しよう。ケイちゃんが遊んでいたゲームを卵の中にいる時から見ていた、だから真似た。鳴き声も、目覚まし時計の音を聞いていたから」

「孵化する前の情報に基づいて、卵の中で変態しているとしたら、たいした適応能力ね。じゃあ人参は?」

 人参については、僕にも全く心当たりがなかった。僕は首を傾げた。

「そうなると、銀色は人間に囲まれていたから、人の形になったと考えられるな」

 問題は、と片山さんが続ける。

「あっちが随分と攻撃的な性格だということだ」

 僕はテレビで流れる銀色の姿を思い出した。海に突き立てられた軍艦に立つ姿。

 あの銀色は。

 黒煙の中、振り向きもせずにただ海の彼方を見詰めていた。

 ああ、と僕は両手で顔を覆った。あの子は、どんなに怖かっただろうか。


 迫る銀色の姿を自衛隊のヘリコプターが捉えた。残り時間はもう1時間もない。

 そしていよいよ、研究所も強制的に避難せざるを得なくなった。外の緊張感が伝わってきた。

「色々考えてみたけれどね、逃げるしかないと思うんだ」

 所長は僕に研究所のロゴが入ったウインドブレーカーを着せた。背中に大きく描かれた錨。所長の両手が僕の両手を大きく包み込んだ。

「ケイちゃん、逃げなさい。少しの足止めくらいなら出来る。怒られる時は、一緒に怒られよう。一緒に謝ろう。でもそんなこと、後からだって出来るんだよ。だから今は、ロロを連れて、逃げなさい」

 僕が言葉に迷っていると、所長が僕の頬を両手で包んだ。

「少しくらい報われたって、いいんじゃないかな」

 研究所の裏口から外に出た。裏口には表に回らなくても研究室に戻れるように、海に続く桟橋と、砂浜に続く階段がある。

 よく晴れた元日の空。風が強まり、波は少し高くなっていた。僕の隣にロロが並んで立つ。

 玄関の方から押し問答が聞こえてくる。振り返ろうとした僕の背中をロロの頭が押した。

 僕は一歩を踏み出した。


 僕は砂浜を走った。ロロが横を走る。海の方を見れば、水平線の近くに太陽の光を反射するものが見えた。

 砂に足を取られて転びそうになりながらも、僕たちは走り続けた。研究所のみんなのことを想っていた。家族のことを考えていた。友人のことを思い出していた。

 銀色が攻撃してくるかもしれない。危険は承知だ。でも、だからといって何もしないまま、逃げられるわけがない。

 ロロを仲間に会わせてあげたい。それがたとえ異なる形に生まれていても。ロロをひとりぼっちには出来ない。

 止まりなさいと警察官や自衛官が叫ぶ。その声を置き去りにして、僕は駆けた。海鳥たちが群れを成して、僕たちの周りを飛んだ。

 僕はもう戻れなかった。

 

 乾いた発砲音のすぐ後に、金属がぶつかり合うような音が響いた。目の前が突然暗くなったかと思った次の瞬間には目の前に砂があった。転んだ僕の上にロロが重くのしかかる。

 ロロ。

 僕はロロの下から這い出した。ロロが動かない。高くなった波音、海鳥たちの羽ばたき。何が起こったのか分からなかった。ただ、銀色に輝く綺麗な体が何も言わずに横たわっていた。

 ロロ。

 顔についた砂も払わずに僕はロロを抱きかかえた。ロロ。名前を呼ぶ。ロロ。何度も名前を呼ぶ。

 起きて、ロロ。

 冷たい体から、生命の温もりが消えていく。途方に暮れた僕はただロロを抱き締めるしかなかった。溢れ出した涙がロロの顔に落ちて、ようやく僕は自分が泣いていることに気が付いた。

 ロロがゆっくりと僕の頬に自分の頬を寄せ、弱々しく鳴いた。僕はロロに泣き縋った。他には何も見えなかった。


 青年が手を伸ばす。

 ドラゴンが頬を寄せる。悲しげな鳴き声。

 少年時代の思い出が風の中に蘇る。

 嘆くように、歌うように、ドラゴンは友を呼ぶ。


 近付く気配に、僕は顔を上げた。

 銀色の人が音もなく傍に立っていた。顔がなかった。銀色のマネキンのようだった。

 体が強張った。喉がヒュッと鳴った。鼻の奥がツンと痛んだ。

 銀色は手を伸ばした。その手を僕にかざし、ロロにかざした。綺麗な腕だと思った。銀色はロロを優しく撫でた。ロロはピィと鳴いた。仲間だと分かっているのだろう。翼がほんの僅かに揺れた。

 そして、ロロは本当に動かなくなった。

 動かなくなったロロを銀色は優しく撫で続けた。僕は子供のように泣きじゃくった。

 こんなのあんまりだ。こんな別れ、あんまりだ。

 卵を拾った。遠い場所からやって来た、銀の卵。太陽のように輝き、月のように静かで、海のように美しい。

 声も抑えられずに僕は泣いた。


 やがて銀色は額をロロに合わせた。親が子供にするように。愛しさが伝わるように。

 ロロの体が溶け始めた。溶ける、と言っていいのか分からない。形を失い始めた。合わせた額から、銀色に吸い込まれていくようだった。僕はただ見ていることしか出来なかった。

 海鳥たちの旋回の向こう側から、たくさんの人の声が聞こえていた。僕を呼んでいるのだろう。でも僕は砂浜に座り込んだまま、ロロと銀色から目が離せなかった。

 ロロの形がなくなった。ロロがいた跡だけが砂浜に残っていた。

 銀色が形を変え始めた。顔に、背中に、変化が現れる。

 ほんの数十秒で、銀色の背中に翼が生えた。ロロと同じ翼だった。そして人間と同じように、顔のパーツが出来上がった。髪も銀で再現されていた。精巧な銀細工よりもずっと、綺麗だった。

 僕は小さく息を吐いた。

 神様がいるのだとしたら、きっと、こんな姿をしているのだろう。僕はそう思った。


 銀色は口を開いた。

『あなたは宇宙飛行士です』

 どこか遠くから響いてくるような声だった。僕はその声を知っていた。

『月面に降り立つと、そこには一面の花畑が広がっていました』

 波の音も、鳥の羽音も、叫び声も、もう聞こえなかった。僕はその質問を知っていた。

『さて、その花の色は何色ですか?』

 僕はその顔を知っていた。あの夜、何色と返したのか、僕は自分の答えを鮮明に覚えていた。


 ああ。

 僕に終わりをくれるのか。


 僕はよろよろと立ち上がった。

 痛む心が打ち震えた。待ち続けた日々が色褪せる。過ぎ去った日々が色を取り戻す。

 もうこれ以上、望むことはない。

 もうこれ以上、失うものもない。

 僕は両腕を大きく広げ、友人を迎え入れた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

おいで、ロロ 七町藍路 @nanamachi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説