白い海
ゆきさめ
白い海
は、は、と短い呼吸の音と獣のにおいがする。耳と鼻はよく利く方だった。
続いて花屋の軒先のような柔らかな、主張のない甘い香りがした。
「失礼、お嬢さん」
その人は犬の散歩でもしていたのだろうか、小柄な人と軽くではあったが肩がぶつかってしまったようで、私は小さい声で気づかいの声を上げた。お嬢さん、と声をかけてからだが、しまった、男性であったらどうしようかと不安になった。
「あ。いえ、お気づかいなく。すみません」
帰ってきた声は、柔らかい音だった。
まだ若い女性だろうか、鈴の鳴るような美しい声をしていた。ああよかった、ぶつかった上に重ねて無礼を働くところであった。
吠えない犬はしかし人懐こいわけではないのか、どうやら彼女のそばをじっと守っているようだ。人懐こい犬というとすぐに人に飛びついてくるので、私はどうにも苦手だった(私の友人にも犬を飼っている男がいるが、これがまたキャンキャンと喜んで私に飛びついてくるのだ)。
利口な犬だ、と思わずこぼしてしまうと、「ふふ」と吐息のような控えめな笑声。
「お利口ですってよ、良かったわね」
絹のように滑らかなその音は、すんなりと私の耳へと入ってくると、そこで落ち着いてしまったようだった。まさかこれが世にいう一目惚れか、などと馬鹿げたことが頭の片隅をよぎっていく(一目惚れとは、全く、字の如しであれば私とは縁遠い!)。
犬を連れたその人はまだその場に留まっている。私は白杖をすっかり地につけてしまった。
「散歩ですか」
「ええ、まあ」
「良い子をお連れですね」
「本当に。この子がいなくっちゃ、わたし、困ってしまうくらい」
「おやそれは、本当に素敵な子だ。どうか気をつけて」
「ええ。貴方様も、どうぞ、お気をつけて」
犬の爪が地面を引っ掻く音がする、ああ、行ってしまうのか。
「お嬢さんはここを、よく?」
「ええ、わたしの散歩道ですから」
そんな事を聞いてしまってからというもの、私の散歩が変わってしまった。
本当に恥ずかしいことではあるのだが、私を見てあまりに普通に接してくれたのが、きっかけだった。それだけが、きっかけだったのだ。この胸中にあるのが恋であるとは言わないが、少なくとも友人、いいや知人でも構わない、彼女と話がしたかった。
お辛いでしょうだとか、苦労なさったでしょうとか、そんなことはどうでもいいのだ。幼少期から既に視界は不明瞭であったので、白く霞んだ今が辛いとは思わない。そんなことで同情するくらいなら、仕事でも寄こして欲しいものだ(いや働いてはいるのだが、私のように欠けたものがない人の方が、よっぽどいい稼ぎをしているのだから)。白い杖を持っているのに加えて、濁った眼をしているものだから、そういう同情か、あるいは笑いものにされるのが大抵だった。そういうのをしない彼女は、本当に、珍しかったのだ。
白杖で叩きながら進む道、しかし毎日彼女に会うことはなかった。
「おや、こんにちは」
「あら。こんにちは」
名も知らない私達は、それでも時折すれ違い様に世間話を少しだけして、別れる。
犬の呼吸と爪が立てる音、そして甘く微かに香る彼女の匂い。ああ、こんなにも胸中が穏やかであるなんて、こんな私でも普通であれるなんて。そう思うと舞い上がるようだった。
「ごきげんよう」
しばらく経つと、彼女の方から声をかけてくれるようになった。
いつでも犬を連れた彼女はとても落ち着いた声音で私を呼びとめる。
「あの。失礼でなければでいいんです、よろしいかしら」
「ええ、なんでしょう」
「呼びとめるのに、ちょっと不便なもので」
「はい」
「お名前を、お伺いしても……?」
恥じらう様子を声音に滲ませて、少し言葉に詰まりながらもそう言った彼女。その日の私の舞い上がりようといったらない(後日友人に聞いたところによると、終始緩んだ口元をしていて、本当に幸せそのものの顔をしていたらしい)。
出会った頃から季節が二つほど変わったか、あの頃はまだ肌寒い春の初め。今はもう桜も散って、葉桜も茂り、終わる頃である。ここでようやく私達はお互いを知ったのだ(男から名前を聞くべきではなかったかとも思ったが、怪しい者とは思われたくなかったのだ)。
彼女は、れい子さんは、私と並んで散歩をするようにまでなってくれた。いつもの散歩道を、私とれい子さんと、彼女の飼い犬であるクロと歩くのだ。
夏の終わる頃、秋の虫の声が徐々に出てきた頃に、れい子さんは言った。
「藤志郎さん、わたし、海が見てみたいわ」
あまり自己主張をしない彼女の言葉を叶えないわけにはいかなかった。
ここらには生まれた時から住んでいる、海へ行く道も知っていた。この体も慣れてしまっているので、砂浜を歩くことなど容易い。私は二つ返事で返したのだった。
れい子さんはこちらへ越してきてから、海へ出られるところがあったことも知らなかったらしい。今まで海というものを見たことがないという彼女に、(私も同じものが見られたらいいのだが)是非とも海というものを見て貰おう。
昼間の海はきっと人が多いから、夜に行きませんかと提案したのは彼女の方だった。昼でも夜でも私にしてみれば同じだが、波の音がよく聞こえるのはきっと夜だ。そうだそうだそうしよう、と彼女の手をとって約束を交わした。
私は約束の夜まで、指折り数える子供のようであったと思う。
「こんばんは、藤志郎さん」
「こんばんは、れい子さん。行きましょうか」
犬の爪の音が私を追う。隣をれい子さんが歩くのだが、体温が感じられるほどに近くて、少年のようにどきどきと胸が高なってしまって何を話して歩いていたかよく覚えていない。それでもれい子さんの笑い声がころころとしていたので、きっとうまく話せていたのだろう。
砂浜を踏むと、犬の足音が消えた。
波の音がよく通る。れい子さんが深く息を吸う音も、はっきりと耳に届いた。
「着きましたよ、れい子さん」
「ここが海ですか。これが、海ですか」
「はい。そうですよ。今は夜だから、きっとあっちのほう、月が反射して空と海とで二つ昇っているでしょう」
砂浜を並んで歩くと、きゅ、きゅ、と足元が僅かに沈む。
隣でれい子さんも歩きづらそうで、ややふらふらしながら進んでいるようだ(私の肩に何度かれい子さんが触れているので、そう思ったのだが)。
「きっと、きれいでしょうね」
「ええ。れい子さん、貴女と同じものを見られたらもっとよかったのですけれど」
「いいえ。きっと、きっときれいですよ。同じものを見ているのだから」
きっと暗がりの紺碧に、月が浮いているだろう。空にも瓜二つのものがあがっていて、月明かりで明るいはずだ(今日を約束にしたのは、満月の日だったからというのもある)。
あっちかしら、とれい子さんが声をあげる。
「何かお探しですか」
「ええ、月を」
「月ですか? 海にも空にもありましょう」
「言ったでしょう、同じものを見ているって……あら、もしかして、お気づきでなかったのかしら、ごめんなさい」
急に焦ったようにれい子さんが立ち止まる。私も足を止めて、白杖を砂浜へさした。
れい子さんの足元、決して私の方へはやってこないクロの息遣いが聞こえる。
「藤志郎さんと、きっと同じものを見ているの。ごめんなさい、黙っていて、だってわたし、あなたがあまりにも普通に接してくれるものだから、最初は気付かなかったの。騙すつもりではなかったのよ、ええ、違うのよ、でも」
「いや、いや、いいんだ、いい。まったく気にしないことだよ」
泣きそうに揺れる声に、私も焦って彼女の言葉を遮った。
そんなことは、もはや、些細なことだったのだ。
「それならば、ええと」
言葉を探す。
慎重に、言葉を、音を、探した。
「一緒に月を、探そうじゃないか」
有名な文豪の残した言葉を言うのはあまりにも恥ずかしくて、そんな気取った男とは私は全く正反対でもあったので、そんなことを言って夜の海に顔を向けることしかできなかった。隣で聞こえた小さい「はい、藤志郎さん」という返答に安堵すると同時に、こみ上げる感情のまま抱きしめてしまいたいとも思ったが、やはりそんな気障な男とは縁がないので、私達は一緒に白い海を眺めることにしたのだった。
白い海 ゆきさめ @nemune6
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