第6章 おやすみ、わたし (2)

 ジェントの近くに彼女はテントを立てて、その脇に大きなリュックサックを置いた。テントは蝶結びを縫解くように、速やかにかつ滑らかに完成した。彼女の手つきは実に鮮やかで、魔法使いのようだった。

 テントを立て終えた後、彼女はたき火を起こした。

「死んだかと思ってた」とわたしはようやく口を開いた。

「生きているからには、死んでないわね」と彼女は簡単に言ってしまう。「タネを明かせば、わたしもクローンなの。ライカちゃんと同じだね」

 彼女はわたしにマグカップを渡した。中にはココアが入っていた。

「わたしのこと知ってるの」

「そう、そのために戻って来たの。ちょっと旅に出てたんだけど、途中で光を見てね。引き返して来ちゃった」

「光?」

「うん」彼女は弾けるように笑う。「あれ。ペンギンさんの光」

 そして彼女はジェントを指差した。焚き火の影がその腹の上で波打っている。

「わたしね、ライカちゃんに謝らなきゃダメなことがあるの」

「わたしに」と言ってから、唇を噛んだ。わたしはミクニ・ライカではないのだ。目の前の彼女がその名前を呼ぶ度に、わたしは混乱は増していた。

「そう、あなたに」でも彼女は強くその名前を呼んだ。わたしの混乱を打ち砕くような強さでもった。「ミクニ・ライカちゃんにね」

 彼女は自分のマグカップに口をつけて、少しだけ飲み、間を置いた。何を言うべきか迷っているという風ではなかった。わたしの記憶が正しければ、彼女はそうして迷う人ではない。

「クローン・サイクルは、わたしとあなた――ライカちゃん――の合同プロジェクトだったの。もちろん、スポンサーはもっとたくさんいたわ。けれど、核になってたのは、わたし達ね」

「プロジェクト?」

「そう。閉鎖環境における技術開発がメインだったかな」彼女はジェントを見上げた。「拡大外殻もその内の一つ。後は義肢とか、それからクローン・システム自体の精度もそうね。あと、そうそう、宇宙船での社会生活がどんな風になるのかを知るのも目的だった。ーーこういうのは、人間がいなきゃダメなことなのよね。人間のためのものだし。クローンは単一の個体だから、理想値的なものが取れるって考えられてた」

 彼女はここで、ような気がする、とつけ足した。

「わたしもあんまり確かじゃないの。興味がなかったというか……」

「それが、きみの謝りたかったことなの」

「ううん、違う、違うわよ!」彼女は手を振った。否定する時、彼女は首の代わりに手を振るのだ。そして、黒い目でわたしを見つめたまま。「それで、あなたがサンプルとして選ばれたの。より正確に言うと、あなたが自分から志願したのね」

「わたしが――」

「そう、ライカちゃんのオリジナルが。といっても、遺伝子情報を提供しただけだけど」

 わたしはココアをもう一口飲んだ。彼女もマグカップに口をつけ、まだ熱いそれで舌を焼いてしまった。わたしは微笑んでしまう。彼女に関する知識はまだ正しいようだった。

「で、ここからが本編ね。そして謝らなきゃならないところも、ここにあるの。あのね、ライカちゃん。わたしはあなたのクローンを設計する時に、あなたの記憶を改竄したの。全部じゃないわ。でも、その核の部分に手を入れた」

「核の部分?」

「うん。わたしの気持ちをインストールしたの。あなたの恋心は、わたしのあなたへのものなんだよ、ミクニ・ライカちゃん」

 彼女は具合の悪そうな顔をした。

 わたしは夜空を見上げた。宇宙で見たものとはやはり違っている。満点の星空だったが、焚き火の灯りがそのほとんどを打ち消していた。薄い雲が月を失った星空を渡っていた。空にも風が吹いているのだ。その皮膜が通り過ぎると、白い小さな点の群れは、心無しか洗われたようにも見えた。

「わたしのオリジナルは――」と彼女は口を開いた。自分の中でも気持ちの整理がついていないような、震えた声をしていた。「――あなたが男の人と結婚するのが本当に嫌だったのね。もちろん、わたし達は友だちだったし、それを祝福すべきだってわかってたと思うわ。でも、それ以上にわたしはあなたのことを愛していたの」

「わかる気はするな」

 とわたしは言った。

「ごめんなさい」と彼女は謝った。「でも、きっとそれはわたしの気持ちがそうだったから、なのよね……」

 全然わからなくなった、自分のことが。わたしの予感は正しかったのだ。あの錯覚は、錯覚ではなかった。わたしはバームクーヘンであり、刳り貫かれたパイナップルだったのだ。わたしは、筒のようなもの。あの地下都市であれば、わたしの上から降り注ぐものがあった。光。しかし今は夜だった。星々は灯りに乏しく、わたしは薪と彼女というプレセンスをその表面で感じ取っているだけである。

「今のあなたなら、わたしがどれだけあなたのことを愛していたか、わかってくれると思うわ。だって、そういう風にわたしは仕組んだから。同じ気持ちよね、同じ切なさよね――でも、それはオリジナルのものなの。わたしのものじゃないの」

 彼女はわたしの目を見た。日に焼けた肌は砂漠を思わせたし、彼女の目はそこに掘られた井戸を連想させた。ずっと深い所に水が湧いていて、それが薪を映しているのだ。

「だから、ごめんなさい」

 ともう一度彼女は頭を下げた。短い髪がぱらりと垂れた。長い距離を歩いてきたせいで、彼女の髪はすっかり固くなってしまっていたのだ。わたしは、彼女の旅路を想った。なぜか彼女が他の人と行動を共にしているシーンが思い浮かばなかった。

「きみは一人だったの」と尋ねる。

 それは彼女にとって予想外の質問だった。

「うん、そうね、基本的には。色んな人と会ったけど、結局一人で歩いていたわ。何代も何代も続けて」

「きみもクローンなんだよね」

「うん?」彼女は質問の意味を少し考えた。「うん、そう、わたしもクローン。わたしのオリジナルにも、良心の呵責ってあったのね。わたしが繰り返し生きてるのは、あなたに謝るためなの」

 でも、と彼女は一息入れて、寂しそうに笑った。

「許してもらえるなんて思ってないわ、本当に。わたしって人間は、本当にひどいことをしたもんね」


「でも、それはここにいるきみがしようと思ったことじゃないんでしょ? きみも、わたしも、もう自由になって良いんじゃないのかな……」

 わたしは自分がそう言ったことに驚いた。でもそれはわたしの本心だった。しかし、それが難しいことだということも、ちゃんとわかっていた。彼女に罪はない、とわたしは思った。少なくとも、ここにいる彼女を責める気はわたしにはなかった。それは筋違いであるように思えたからだ。むしろ彼女こそ、犠牲者なのではないか。

「でも責任を取るとしたら、それはわたし以外にいないわよ」

 と彼女は目を伏せた。

 また少し時間が流れた。カップの中のココアはもうすっかり冷めてしまっていた。夏の夜だった。しかし暑さはすでにどこかへ行っていた。虫が鳴いている。それは秋の声音に聞こえていた。ここには季節があるのだ、とわたしは思った。時は流れる。そしてわたしはその中にいる。もう永遠の夏は終わったのだ。

 焚き火を見つめる彼女は、月のようだった。星の弱い夜を背景に、彼女だけがぽっかりと浮かんでいた。それとも、一人で旅を続けて来た彼女は、切り離されたフランク・プールだった。彼女にはロープを繋ぎ直すものが必要なのだ。手を繋いで踊る人が。そして、それはこのわたし自身にも言えることだった。

 わたしは、だから口を開いた。

「きみのことが好きだよ」

 彼女は顔を上げた。

「ありがとう」と彼女はふわりと微笑んだ。それは瞬間的な表情だった。雲の切れ目は実に狭いのだ。「でも、わたしはあなたにひどいことをしたのよ」

「それは、きみじゃないよ。わたしがミクニ・ライカじゃないのと同じくらい」

 とわたしは言った。今ここにいるのは、本当の名前を失った女の子が二人だけなのだ。

「きみはどう思ってるんだろう、わたしのこと?」

 とわたしは尋ねてみた。

「わからないわ」

「教えて」

 わたしの言葉は少し強過ぎるだろうか、とわたしは少し気になった。後悔が兆したが、わたしはそれを踏んでぐっと前に出た。ここはあの殻の外側なのだ。ちゃんとわたしは進むことができる。そして、そうする必要があった。停滞する時代は終わったのだ。

 彼女は戸惑っていた。目が炎に揺れた。風は吹いていなかった。薪がパチンと爆ぜた。それは唯一の時間を報せる瞬きだった。

「本当に、わからないの。だって、あなたの言うことを信じるなら、わたし達は初対面みたいなものじゃない? わたしがわたしじゃなくて、あなたがライカちゃんじゃないなら――。なのに、どうしてあなたは、わたしのことが好きって言えるの? 根拠なんて何もないのよ」

 彼女の言うことは正しかった。でも、わたしの知ったことではなかった。

 わたしは立ち上がった。焚き火を迂回して、彼女の側に座った。彼女はわたしを見ていた。わたしは彼女に顔を近づけた。すっと彼女は目蓋を下ろした。わたしも目を閉じた。その暗い中で、新しい星の生まれるのパチッという音が聞こえた。

 目蓋を再び開けた時、そこには思っていた通りの星空があった。あまりに近づいていたので、わたしの視界には彼女しかなかったが、ちゃんとその存在を感じることができた。

 ようやくわたしは殻の外側にいるのだ。

 わたし達はどちらからともなく笑った。

 思えば、自分からそうするなんて初めてだった。離れた彼女の顔に、再び灯りが差し込んでいる。彼女の手はまだ冷たい。指は細く、冬の間ずっと放っておかれた木の枝みたいだった。わたしは自分の指先を通して、そこに流れている音を聞いた。それは春に続く支流だった。わたし達の温度が次第に平衡していく予感があった。彼女は拡大外殻とは違っている。だから時間はかかるだろう。けれども、それは、間違いなく来る未来だった。

 彼女の頬には炎の色が染み込んでいった。それは、彼女の瞳に潤いを呼び覚ました。わたし達の中には同じ温かさの光が兆している。それはわたし達のすぐ側に置かれた地上の光だった。答えるようにまた火花が散った。

「あなたのこと、なんて呼べばいいのかな」

 ほどなく彼女はそう尋ねた。

 わたしは少し考えた。でも、やがて言った。

「ミクニ・ライカ――それで良いよ。きみと一緒なら」

 わたしは振り返って、街の方を見た。あと残されている時間で、どれだけの花を咲かせることができるだろう。わからない。けれども、そうして一輪一輪言葉を咲かせていくのだ。やがて星空みたいになることを祈りつつ。

 わたし達はテントに入って、眠った。


 やがて夢を見た。新しい夏の夢だった。それはあの宇宙船で過ごしたものとはまた違った夏だった。でもわたし達はそこに懐かしい響きを聞いたし、それはとても優しい風となって、この大地を渡っていった。

 でも、それが夢であることを、この時のわたしはまだ知らない。眠っている。夢と現の境界線は、目覚めてみるまで、わからない。


(了)

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わたしリボルバー 織倉未然 @OrikuraMizen

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