第6章 おやすみ、わたし (1)
地球にも街はあった。ただし人は少なかった。
自動化された浄水施設と発電プラントが稼働を続けている御陰で、わたし達の生活はどうにか維持できているみたいだった。
養われている。街に住む誰もがそう言った。彼らは皆、同じようなサイクルを繰り返す生活を送っていた。朝、日が昇りはじめた頃に起き、同じ朝食を取り、そして職場に向かう。そして日が沈む頃に職場を出て、真っすぐ家に返ってくる。彼らの多くに家族はいない。誰もが俯いて歩く。
まるで、太陽と連動した絡繰り仕掛けのようだった。わたしは、彼らに突き刺さった透明な糸を見たような気すらする。彼らは巨大な天体を核とした、機械の集合体だった。
その街には、一つ大きな図書館があった。街の住人はそこで働くことになっているみたいだった。彼らは、一日中そこに閉じ込められ、何かを読み、何かを書いていた。
「情報の生産だけが人類に残された仕事である」――そういう垂れ幕が、図書館の大広間には下がっていたのを覚えている。
わたしには、その垂れ幕の意味がいまいち分からなかった。でも、彼らはそういう仕事をしている時が一番楽しそうだったし(それは本当に些細な変化ではあったが)、誇り高い様子でもあったから、わたしはそれ以上考えないことにした。
ただし、寂しさを感じていたのも事実だった。ここには、わたし以外の人間がたくさんいた。街
の人口は少なく、立ち並ぶアパートのほとんどは空室で占められている。一日中歩きづめて、二三人としかすれ違わないこともある。しかし、それでも、わたしの人生の中では一番多く他人がいる場所だった。
それなのに、会話がなかった。
ジェントが街の外れに下りてから、すでに二週間が経過している。この間、わたしには友だちが出来ていなかった。それは多分、わたしの方の問題ではなかった。というのも、わたしは彼らに話しかけようとしたのだが、彼らは地面を見ながら独り言を繰り返すばかりで、一言も答えてくれなかったのだ。
これには堪えた。わたしは、何のために地球に帰って来たのだろう。もちろんそれがわたしの選択だからだったが、わたしは大事なことを忘れていたのだ。想像だにしていなかった問題――聞く耳を持たないロボットみたいな彼らに、わたしはどうやって自分の存在を伝えれば良いのだろう? またしても幽霊みたいな気分だった。住んでいるレイヤーが違うのだ。
わたしは、この街で生きていくことを諦めた。
そして、ある晩、わたしはジェントを着て、図書館の屋根を蹴破った。月の眩しい夜だった。大広間を塞ぐ硝子の天井が雨となり、夜空の灯りを散らかす中を、わたし=ジェントはゆっくり降りていった。浮遊機構の展開する領域が、硝子の欠片を重力から守っていた。それは雪のようだった。美しい風景だった。多分、生涯忘れない。
わたしは広場の真ん中にある端末に介入して、あの子の墓の場所を探し出した。それまで、わたしは三キロメートル四方はあるかというこの広大な図書館の中で、彼女の死を探し求めていたが、それはすでに意味のない情報として処分されていたのだ。埋没していた。だから発掘の必要があった。それで、ジェントの力を借りた。でもどうだろう、わたしは単に気に入らなかっただけかも知れない。あの子の死をそうして捨ててしまった、生気を失ったこの街が。
彼女の墓の場所を掴んだわたしは、硝子の雪片を置いて、割れたドームから飛び立った。ふと意識を翻せば、そこに立っていた少年と目が合った。星の映った暗い瞳をしていた。彼もここで人形のように死んでいくのだろうか。わたしには、興味がなかった。
それから三日ほど飛び、ようやくわたしは彼女の最後に住んでいた街に着いた。その街の状況は、最初の街よりずっと酷く、ビルの群れはほとんど廃墟と化しており、挙げ句の果てにはほとんどが砂に埋まっていた。砂漠とはちょっと違う。ジェントはそれを塩だと言った。
わたし達は地球の歴史について無知だった。
「海が溢れて全部蒸発したとか?」とわたしは自分に問うてみる。
「まさか」とわたしの中で答えが浮かんだ。
どちらでも良かった。少なくとも今は。
街の外れ、赤茶けた塩の砂漠と反対側、まだ平地の残っているところに、墓石が並んでいた。わたしはその近くに降り立って、徒歩であの子の名前を探した。
それには長い時間がかかった。一ヶ月ほど経ったろうか。その間に、わたしは街での生活をはじめた。街にはまだ少しの住人が住んでおり、彼らは遠くの街から食料を引っ張って来ていた。
わたしとジェントは彼らにとても重宝された。ここには図書館がない代わりに、会話があった。
ある日、わたしは彼らに尋ねた。
「花の種が手に入りませんか」
「花の種?」肌の焼けた老人は言った。「そんなのどうするんだ」
「植えるんですよ」
「そうだったな。でもどうしてだ?」
わたしはペンギンのヒレを墓場の方に向けた。
「あれじゃ寂しいだろうと思いまして」
「ははん」と老人は笑った。「死んだ奴に悪い奴はいない。良いだろう。任せなさい」
そうしてわたしは花の種を手に入れた。あの子の墓を探す間、わたしは目しるし代わりに花を植えていった。わたしはその作業を素手で行った。ジェントのヒレは大き過ぎたし、自分の力でやることのように思えたからだ。
それで、そう、一ヶ月。わたしはまずあの人の墓を見つけた。わたしの前からあの子を連れて行った男の人の。
それまで綺麗にしてきた墓石と同じように、その墓石にも塩の結晶がこびりついていた。わたしはヘラとブラシで慎重に結晶を落としていった。
そうして彼の名前がようやく出て来たのだが、その下にはもう一列名前が彫ってあるようだった。わたしはまた同じ作業を行った。
誰の名前だろう、とわたしは思った。きっとあの子のだ。もしもわたしが彼だとしたら、あの子と同じ墓に入りたいだろうと思った。わたしは小さな嫉妬を覚えたが、けれどもそれを受け入れることができた。全ては遥か昔の出来事なのだ。
しかし、彼の名前の下に出て来たのは、別の人間の名前だった。聞き覚えのある名前だった。そこにはこう書いてあった。
ミクニ・ライカ。
それは、わたしの名前だった。あの子を連れて行ったはずの男の人と、わたしの名前が並んでいた。わたしは震える手で、半ば乱暴に、残りの塩を剥がしていった。わたしの名前の下には、わたし達が結婚していたことが書いてあった。
「結婚?」
足に力が入らなかった。わたしは何度も石を擦ってみた。しかしそれ以上、何も剥がれることはなかった。
わたしが、結婚した、あの人と、あの子ではなく?
記憶と現実がかけ離れていてた。背後で地面が崩れていくのを聞いた。わたしの通ってきた道の下に隠れていた水路に、がらがらと音を立てて。内蔵が全て抜け落ちたような喪失感があった。わたしという存在は、わたしの経て来た歴史の積み重ねから成っている。そう思っていた。でも、今、それは大きな危機に立たされている。
わたしは、一体誰なんだ。
わたしの知っているミクニ・ライカは、あの子のことが好きだった。しかし、あの子は男の人と結婚してしまい、わたしの前から消えた。あるいはわたしの方があの子を離れたのかも知れない。でもそれは今は良い。
ミクニ・ライカには後悔があった。それは、あの子に愛してると言わなかったことだ。その一言がどれほどの効力を持つものか、彼女は知らなかった。でも、そのせいであの子を失ってしまった――ミクニ・ライカはそう考えていた。彼女は、あの子の答えを求めていた。しかし、実際に問うことはしなかった。行かないでくれ、と言うべきだった。彼女は、自分の欲しい未来のために、行動を起こすということを避けてきたのだ。
宇宙船のクローン・サイクルを維持して来たのは、彼女なりの抵抗だった。でも答えなんて決まり切っているのだ。
ミクニ・ライカは、あの子を、愛してる。
それが真実だった。
そう思っていた。
しかし、今わたしの前に立っている事実は、わたしから、ミクニ・ライカという名前を奪おうとしていた。同じ名前の下に、二人の別人がいる。本物のミクニ・ライカは死んでしまった。わたしは偽物だ。間違った記憶と共に生きている。
影が差した。
後ろに誰か立っているのがわかった。
「久しぶりね、ライカちゃん」
懐かしい声だった。わたしの耳を撫ぜ、そのまま女の子の腕が伸びて来た。わたしの首もとを抱きしめて、彼女は胸を押し当ててくる。柔らかな、温かい胸と、リュックサックのベルトが彼女の実在を伝えて来た。
「百年経っても変わんないのね。ライカちゃんのにおいのまま。懐かしいな」
彼女は言った。
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