4
「これやっぱ、自殺防止的なあれだよな」
ユウは欄干を見上げた。
欄干を見上げる、という表現がすでにおかしいのだが、三メートルはあるのだから見上げるしかない。まるで鉄格子のようだとユウは思った。よく見ると、もともとは胸の高さくらいだったらしい。後から継ぎ足すように、背の高い柵が不格好に取り付けられている。新しく取り付けられたものは、上の方が内側に曲がっている。容易に越えられないようにという工夫だろう。
「たぶんね。でも、ここで死のうと決めたなら、がんばって登るかも」
「いや、無理だろ。お前、逆上がりもできねえじゃん」
「逆上がりは関係ないよ」
「腕力だよ」
ヨサリは少し考えるように、小さく首をかしげて空を仰いだ。
「じゃあ、死ぬときは別の方法を考える」
「……お前の冗談は分かりにくいんだよ」
「うん?」
ヨサリは、欄干の隙間から、下を覗き込もうとしていた。ユウも、その隣に立ち下を見た。真っ暗で、何も見えない。川の流れる音だけが響いている。降りしきる雪が、その不吉な闇に吸い込まれるように、絶え間なく落ちていくのが見えていた。
「落ちそ」
思わず、そう呟く。隣で、ヨサリが頷いた。
「落ちてみたいような気も、するね」
「なんか、違う世界に繋がってそうだよな」
その時、ふっと、彼らの前を小さな光が横切った。
「ひっ……?」
それは一瞬のことで、何が起きたのか考える前に消えてしまった。
ふたり顔を見合わせ、ごくり、と唾を飲んだ。
「……お前、今、割と面白い声出したよな」
「え、面白かったかな……? 俺としては、驚きを素直に――」
「おい、君たち!」
声が、割り込んできた。
嗄れた声だった。掠れているが、よく通る低い声だ。
遠く、小さな光が揺れている。
「何をしているんだ、こんなところで!」
雪を踏む足音が、早足で近づいてくる。やがて、小柄な老人が、外灯の明かりの中に入ってきた。山登りに持っていくような、大きくてがっしりとしたリュックを背負っている。
老人はふたりの前で立ち止まり、まずユウを、頭からつま先までじっくりと観察した。それから、ヨサリの方に向き直り、同じように、頭からつま先まで観察した。
「うむ、おかしなことを考えて来たわけじゃあ、なさそうだな。ならよい」
「おかしなこと?」
思わず聞き返す。
老人は無言で柵を見上た。
「……登れんの?」
ユウが疑わしげに問うと、老人は厳粛な面持ちで頷いた。
「死ぬ気になればな」
「それ、冗談だとしたら、わりと最低な方だと思うぜ」
しかし老人は、否定するように片手を振ってみせる。
「年に何人かは、おるんだよ。ここを超えて、下の河原まで落ちていく人間が」
ユウは、もう一度、欄干の隙間から下を覗いた。先ほど見たときよりも、ずっと深く見えた。あらゆるものを飲み込み、そして、飲み込まれたものは二度と戻ってこない。これまでも戻ってこなかったし、これからもそうなのだ。何一つ、ほんの一欠片でさえも。ここは、そういう場所なのだと、不意に思った。
ふと横を見れば、ヨサリも同じように橋の下を覗いている。
「おい、ヨサリ」
まるで心をどこかに使いに出したように、じっと佇み動かない。
「大丈夫か?」
「ああ、ごめん……あの、ここ、下りられるんですか?」
後半は、老人に向けた言葉だ。
「はあ?」
ユウは、思わず聞き返した。
「この下に?」
「だって、そのために来たんでしょう?」
ヨサリは、老人のリュックを指差す。
笑い声が響いた。老人は、面白いものを見つけてはしゃぐ子どものように、大声で笑っていた。
「下りられるとも。ちゃんと道もある。明かりのない道だけどな。来るか?」
楽しげに言う。
「え、何それ面白そうじゃん」
横で、ヨサリも頷いている。
「そうか、来るか」
それで、老人はふたりを連れて、細い道を下り、橋の下に広がる深い夜の底へと案内した。
たとえ昼間であっても、注意してみなければ気付かないような道だった。
老人は急な下り坂を歩きながら、気をつけなさい、と何度も言った。こんな夜は、何が起こるか分からないから、と。
「何かって、何?」
ユウは尋ねたが、老人は答えなかった。
坂を下りきったところはまっさらな雪原で、遙か頭上に、ぼんやりと明るく、橋の外灯が見えていた。川の音が周囲の山に反響して、低く、覆い被さるように聞こえる。置き去りにされた流木が雪を被り、そのままの形で真っ白く塗り固められていた。枯れ枝は太古に死に果てた珊瑚のように沈黙していた。
ユウの足元を、不意にぬるりとしたものが通り過ぎていった。
「うぇ……!」
「どうしたの、ユウ」
「いや、何か今……」
足元を見る。
動くものは何も見えない。
「なんかいた、かも」
「そりゃあ、何かはおるさ」
老人が、さも当然というように言う。
「海の底だからな」
「海の底?」
うむ、と老人は頷く。
「ここらは、昔は海の底だった。だから今も、時おり妙な生き物が迷い込んでくる」
「え、今のって、深海魚?」
「……ユウ、どんなだった?」
「いや、見えねえよ、暗くて。ていうか、なんで冷静なんだよ」
「深海魚って、変な形してるよね。泳いでいるところは、見たことがないけど」
老人は、大きな木のそばを選んで、荷物を下ろした。
「少し待っていてくれ、お湯を沸かさないといかんのでな」
まず、ランタンに火を灯す。周囲が急に明るくなった。リュックの中から、アウトドア用の小さなガスコンロと、片手鍋、それにペットボトルの水を出した。慣れた手つきでコンロに火を点け、水を鍋に注ぎ、火にかける。
「何か、手伝おうか?」
「気にするな、ワシにやらせてくれ。ともかく座りなさい」
雪は変わらず降り続いていた。風に煽られ、くるくると舞いながら、ふわりと地面に降り立っていく。彼らのいるところだけは、木の陰になっているためいくらか穏やかで、時間の流れから取り残されたようだった。
まるで大事な客をもてなすように、老人はふたりをコンロの周りに座らせた。火は小さいが、それでも温かかった。かじかんだ指先をかざせば、痛みのような熱が広がってきた。身体はすっかり冷え切っていたらしい。感覚をなくしていた指が、わずかな温かさに反応して凍え始めた。寒さすら忘れていたかのようだった。
「いつも、こんなことやってんの?」
ユウが尋ねる。老人は、ああ、と静かに頷いた。
「この辺、海だったって?」
「何億年も昔だ。でも、証拠は今も残っておる。簡単に見つかる場所にな」
そして、遠くを見るように目を細めた。
鍋が、くつくつと音を立て始めた。お湯が沸き始めたのだ。
老人はステンレスのマグカップと、紙コップを二つ並べ、目分量でインスタントコーヒーを入れた。お湯を注ぐと、休日の朝の匂いがした。
「すまないが、砂糖はないんだ」
そう言って、ユウとヨサリに差し出した。
「ミルクならあるが」
いただきます、とヨサリが言い、ユウもそれに倣った。ミルクひとつ溶かしたところで、コーヒーは苦く、熱かった。その熱が喉を降りていくと、じわりと、身体の内側から温かくなってきた。
「あなたは、眠らないのですか」
ヨサリが、静かに問うた。
老人は、笑って首を横に振った。
色々な笑い方をする人だ、とユウは思った。不思議な老人だ。
「わしだって、眠るさ。ただ、夜は眠らん。夜が好きでな」
俺もです、とヨサリが言った。
老人は、小さく頷いた。
「家の者は、わしをボケ老人扱いするが……まあ、間違ってはおらんか」
「そうは見えねえけど」
ユウが言う。
「それは、お前さんとわしが、まだ遠いところにいるからだ」
「遠いところ」
「そうだ。鰯と月くらいは離れているかな」
突拍子もない喩えだ。
「互いの存在すら知らない。だが遠く巡り巡って、何処かで繋がっている」
「鰯と月に、何の繋がりがあんだよ」
老人は笑った。
「月の引力で、潮の満ち干が起こる。そこに棲む魚も無関係ではなかろう」
「まじか」
「ワシが鰯で、お前さんたちが月だ」
老人はリュックから小さな巾着袋を取り出した。中で、硬いものが擦れ合うような、乾いた音がしていた。袋の口を開け、指先で摘まむように、中のものを取り出す。小石のようだった。それを、てのひらの上に並べていく。染色体を並べるように、大きい順に置いていく。
化石ですか、とヨサリが問う。
そうだ、と老人は答えた。
「少し行ったところに、切り立ったところがある」
そこで取れるのだという。海の底だった証拠なのだ、と。
「化石って、そんなに簡単に見つかるもんなのか?」
ユウが思い描く化石というのは、どこか遠くの荒野のような場所で見つかるものだった。オレンジ色の岩肌を、炎天下、つるはしで何日も何日もかけて掘る。それらしいものが出てきたら、つるはしを捨てて、丁寧に、丁寧に余計な砂を取り除いていく。
そうして、やっと手に出来るものだと思っていた。
ユウがそんなことを言うと、老人は考え込むように、顎に手を当てた。
「ふむ、そうだな……」
小さい化石を二つ手に取り、ユウとヨサリに、それぞれ一つずつ渡す。
ユウはそれを親指と人差し指でそっと摘み上げ、ランタンの火にかざした。何かの牙のようにも見えるし、それにしては凹凸が多すぎるような気もする。
「どうだね?」
「普通の石ころみたいだ。変な凸凹があるけど」
それを聞いて、老人は満足げに頷いた。
「そうだ、ただの石ころだ」
「化石じゃないのか?」
「化石だ。化石というのは、かつては生きていた石だ。我々は過去を見て化石という。今だけを見れば、石と何ら変わらない」
その目は、化石の向こうの、何かずっと遠いところにあるものを見ているようだった。
「学者の先生ですか」
「昔な」
老人は短く答えた。
それから、首を振って、言い直した。
「いや、そんな大層なものではないな。いかん。年をとると、話を聞いてくれる人間がどんどんいなくなっていくもんでな」
そして、自嘲気味に笑った。
「どんなことを、していたのですか」
「色々なところに行った。外国にも行ったしな。岩と砂ばかりの荒野だ。昼間は焼けるように暑く、夜は凍えるほどに寒かったな。言葉も通じない人たちに手伝ってもらって、一日中化石を掘っていた」
それが当たり前だったのだと、老人は言った。
「若い時分は、そういうものだ。夢中になっている時間は貴重だ。だが、夢中になっているうちは、気付かないこともある」
「例えば?」
「そうだな」
老人は言う。
「わしは、ひとりが好きでな。気取った言い方をすれば、孤独というやつだ」
こどく、とヨサリが呟いた。
老人は、小さく頷いた。
「孤独というのは、化石みたいなもんだ」
小さな化石を、火に翳した。
「土に埋もれて気付かない。その上に、家だの、道路だの、好き勝手に造ってしまう。普段は見えないところに、どんどん埋もれていく。遠くに行かずとも、足元そこらじゅうに転がっているんだが」
それから、ふたりを順に見て、静かに頷いた。
ふむ、と。
「だがな、たまに、いるんだよ。ちゃんと見つけて、拾い上げてしまう奴が。その中にある、何億年という時間と向き合える奴がな」
そしてそれは、集めて並べたところで、本当の姿など見えないのだ。
ユウは、手の中の小さな化石を、じっと見た。その中に流れてきた、長い長い時間について考えた。
ふと顔を上げると、老人は、過ぎた時間を思ってか、悲しげに笑っていた。
「ワシは化石になりたいのかもしれんな。それで、こんなところをうろうろしておる」
「いいじゃねえの、楽しそうだし」
「そうだな。……その化石は君たちにやろう。もとより、それは、かつては命あったものだ。ワシの所有物ではないのでな」
それから右の袖をわずかに上げ、時計を見た。
「さて、新しい一日が始まったようだ」
二人を交互に見て、にい、と笑う。
「この辺でお開きにしようか。ワシも、まだ少しこの辺りを歩きたい。……お前さんたちは、帰るんだぞ」
そして、火の始末を始めた。ユウとヨサリは、荷造りを手伝った。インスタントコーヒーの瓶は、薄いタオルに巻いてリュックに入れた。カップはウェットティッシュで拭いて重ねた。そうやって全て片付くと、また殺風景な河原に戻った。
最後にランタンの火を消した。懐中電灯の明かりだけが頼りだ。辺りは、ずっと暗くなった。風が吹き、山の上の方で枯れ枝がざわめくのが聞こえた。黒々とした影が、空を渡っていくのが見えた。もしかしたら、魚の群れかもしれない。
「海底みたいだな」
ユウは、思わずそう呟いた。
そのとき、コートのポケットの中で携帯が震えた。発信者を確認し、通話ボタンを押す。
「はいはーい」
ヨサリが、不安げな顔で見ている。大丈夫だと、ユウは手を振ってみせた。
『今どこだ? もう帰ったか?』
電話は、担任だった。
「いや。ヨサリも一緒だよ」
『だから先生には敬語を使えと……まあいいや、どこにいるんだ?』
「車乗せてくれるなら教える」
ふざけるな早く言え、と怒鳴られた。
ユウは、橋の名前を伝えた。
『はあ? おい、ヨサリは大丈夫なのか?』
「いや、変なアレでここに来たわけじゃねえし」
その後も二言三言、噛み合わない会話を交わし、そのままそこで待っていろと言われて電話は切れた。
「北村先生?」
ヨサリが、恐る恐る問う。
「迎えに来てくれるってさ。とりあえず待ってようぜ」
ユウは、ヨサリの不安を振り払うように、つとめて明るい声で答えた。
「母さんが連絡したんだよ。こういう天気だから、一応連絡しておいた方がいいってさ」
「窒息しそう」
「地上に戻るか」
「嫌だね。溺れたい」
何を言っているんだ、と背後で老人が呆れたように言った。
「地上まで送ってやるから、大人しく帰りなさい」
そしてぽん、と二人の肩を叩いた。
「お見通しじゃねえか」
「そりゃあ、長く生きておればな」
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