2

 ふたりは、橋の上にいる。

 渓谷に跨る、頑丈な橋だ。周囲はぐるりと山に囲まれている。山の大部分は、国立大学の敷地だ。そのため研究所や学舎が点在しているが、あとは森林がそのまま残されている。この時間、しかもこの雪では、車が通り過ぎることもない。

「ここ、自殺の名所なんだろ」

 ユウは言った。別に深く考えて口にしたことではない。この辺りの人間ならば誰でも知っている。心霊スポットとしても有名だ。しかしヨサリは聞いたことがなかったようで、ユウの言葉に、何か合点がいったという風な顔をした。

「どうりで……いや、何でもない」

「え、どうりで、何? そこは最後まで言えよ」

「本当に何でもないよ」

「おい」

 ふたりが歩いてきたこの道は、彼らが暮らす住宅街から、この山を抜け、市街地の中心へと抜けていく。

「よく分かったね」

 ヨサリは、背の高い欄干の隙間から、どこか遠くを見ていた。

「こんなところにいるなんて、たとえ探すのが俺自身でも分からなかったよ」

「……ああ、だよな」

 ユウは頭を抱えたくなったが、寸でのところで抑えた。

「いや、あのな、小学校に行ってみたんだよ」

 呆れたように言う。

「裏の雑木林にさ。お前、よく昼休みに学校抜け出して、そこにいただろ」

「……足跡、まだ残ってた?」

「残ってた。だから、追いかけてきた。なんでこっち来たんだ?」

 ヨサリは俯いた。そして、少し笑った。

「なんだか、何もかも違うみたいだったよ」

 そんなことを言う。

「学校という場所は、昼間だけ存在しているのかもしれないね。あるいは、夜には、まったく違う何かなのかもしれない」

 答えにはなっていなかったが、ヨサリの言うことは、何となく分かる気がした。だから、口を挟むようなことはしなかった。落ちてくる雪を眺めながら、次の言葉を待った。

「……それでね」

 少ししてからまた、ヨサリは話を続けた。

「小学校を出て、どっちに行こうか迷ったんだ。裏門の前、坂になっているだろ」

 ユウは頷いた。左が下りで、右が上りだ。

「天文台はどっちだっけ、って思ってさ。でも思い出せなくて」

「天文台? 閉まってるだろ、どう考えても」

「星が見たいと思って。唐突に。いや、そうでもないかも。ただ、ああいう、途方もないものを見上げる感覚がほしかったのかもしれない」

「どっちだよ……でも確かに、あったな。遠足か何かで行った。プラネタリウムと、でかい望遠鏡があった。行き方なんて忘れちまったけど」

「うん、確かこの道をずっと行ったところに博物館があって、その近くだったんだけどさ、途中で思い出したんだよ。移転したんだ。新しく地下鉄が通るから」

 ヨサリは、歩いてきた方とは反対側の、暗い道の先を指さした。

「今は、もうねえの?」

「ないよ。それで、途中に動物園があったことを思い出して、そっちにしようと思ったんだけど」

 消去法として色々と腑に落ちないものがあるが、とりあえずユウは頷いた。

「でもまさか、動物園が閉まってるなんてね……」

「いや、閉まってるだろ、動物園も天文台も」

 間髪入れず突っ込んでみたものの、ヨサリは聞いていない。

「仕方ないから、動物園を素通りしたて歩いていたら、こんなところまで来てしまったんだ。ほんとうに、参ったね」

 結論まで言葉にできたので、満足したらしい。ヨサリは静かに微笑み、一度だけゆっくりと頷いてみせた。

 ユウはまた頭を抱えたくなった。参ったのはこちらだ。何しろ彼は、ヨサリの足跡だけを頼りに、雪の積もった道を追いかけてきたのだ。しかもこんな人気のない場所だ。寒い晩にこんな場所を歩く人間が、何を考えるのかなんて分かったものではない。気まぐれだと自分に言い聞かせても、やはり焦った。ようやく追い付いたのは、ゆうに一時間は歩いたあとだ。

 追い付かれた方はといえば、このとおりの落ち着きようだ。たぶん、ユウが急いで追いかけてきた理由も、そもそもなぜこんな夜中に自分を探していたのかも、分かっていないだろう。

 きっと、雪が降ったから外を歩きたくなったという程度のことなのだ。ユウだって、この雪の中を歩くことがただ苦痛だったわけではない。そこそこ楽しかったことは認めるしかない。

 ただ、最初に彼を見つけたのが自分でよかった、とは思った。そんなことを考えるのは、おかしいのかもしれない。けれども、ほかの人間だったら面倒なことになっていただろうとは思う。少なくとも、何かしらの意見の食い違いが起こり、誰かが誰かを傷つけることになったはずだ。

 ともかく、そうしてようやくヨサリに追い付いたものの、どういうわけか引き返すことをせず、この橋まで、山に囲まれた暗い道を、滑ったり転んだりしながら歩いてきた。どうにも帰りがたくて、引き返そうとは言えなかった。ヨサリのことばかり、とやかく言うことはできない。

 橋までの道で、ヨサリは歩きながら、落ちてくる雪を飽きもせず目で追っていた。時おり立ち止まり、手を広げては空を仰ぐ。髪や肩に降りかかるのを払うこともなく、立ち尽くす。そこだけがぽっかりと、別の世界のようだった。そのたびに、ユウは彼をこちらの世界に連れ戻さないといけなかった。

「ヨサリ、歩くぞ」

 何度となく、そう声をかけた。

「凍えちまうだろ」

 ポケットから出した両手を、わざとらしく擦り合わせてみせた。

 そうやって、どうにか歩かせて、ここまで来たのだ。

 ヨサリはダッフルコートを着ていた。襟元を見れば、その下にTシャツしか着ていないのが分かる。ふと思い立って、寝間着にコートだけを羽織って出てきたのだろう。筋張った細い首が顕わになっている。見ている方が寒いと、ユウは思った。

 もっとも、本人はこれといって寒がっているようには見えなかった。雪原のタンチョウのように、細い身体をしなやかに伸ばし、空を見上げている。寒さに気付いていないのかもしれない。

 あるいは、今ここにいる彼は抜け殻で、中身は別な場所にいるのかもしれない。

 では、どこにいるのだろう、と思う。

(海の底、だって…?)

 先刻の、彼の言葉を思い出す。

 ここは、海の底なのだ。

 不意に、そう理解した。

 周囲の山々を覆う樹木は、ほとんどが広葉樹だった。今はすっかり葉を落としている。道に被さるように伸びた枝には雪が留まり、白い輪郭を浮かび上がらせている。それは、巨大な生き物の骨のようにも見えた。空に手を延ばしたまま、海底で息絶え、朽ち果てた、可哀想な生き物の残骸だ。

 そんな巨大な海獣の化石の腹の中を通り、辿り着いたのがこの橋だ。まるで長い旅の終着点であるかのように、ほの暗い、優しい色の外灯が照らしていた。くたくたで、身体の芯はすっかり熱く、けれども風は痛いくらいに冷たく感じた。深く息を吸うと、肺の奥が針で突いたように小さく痛んだ。それで、ここは海の底なのだとユウは改めて思った。

 深海魚は、どうやって呼吸をしているのだろう。もちろん、その奇妙な形の身体のどこかに、冷たく重い水の中で生き長らえるための仕組みがあるのだろう。しかしそれがどういうものなのか、想像もつかなかった。


 しばらくふたりは黙っていたが、先に口を開いたのはヨサリだった。

「ユウは、どうして来たの」

 その声には、凍るほどに張り詰めた静寂を、ゆっくりと引き裂いていくような悲痛さがあった。それで、また面倒臭いことを考えているな、とユウは思った。

「お前の母さんから、電話があった」

 降り積もっていく雪を眺めながら、言う。

「……そう」

 どこか迷いのある声で、ヨサリは答えた。

「んで、うちの母さんが、とっとと探して来いってさ」

「こんな雪なのに?」

「本当にな。ていうか、お前が言うなよ」

 ごめん、とヨサリは顔を逸らして笑った。

 夜は、彼らに優しくはなかった。雪は払っても払っても落ち続け、白かった彼らの息も、だんだんと透き通っていく。身体が冷えてきたのだ。

「こっから、どこに行くつもりだったんだ? もう、天文台はねえんだろ」

 ヨサリは、首を横に振った。

「いいんだ。本当は、ただ、歩きたかっただけだから」

「海の底を?」

 冗談めかして言うと、ヨサリがクスリと笑った。そして、静かに目を閉じ、ゆっくりと開けた。

「海にも、生き物がいて」

「ん?」

「小さな生き物の死骸なんかが、こうやって、白く、雪のように、海の底に降り積もっていくんだ」

 その小さな亡骸を愛おしむように、手を差し出し、そこに落ちてきた雪を見つめた。

 ユウは同じように手を差し出して、落ちてくる白い亡骸を受け止めた。

「地上の生き物が土に還るように、長い、長い時間をかけて……海の底で、ほかのものに生まれ変わるのを待つんだよ」

 大切なものを綺麗な箱から取り出して見せるように、ヨサリはいつも、言葉のひとつひとつを丁寧に選び、ユウに差し出した。ユウはそれを、ひとつひとつ受け取っては、そっと内ポケットの中に仕舞った。

 彼らは、本当に、海の底にいるのだ。

 海面は遙か遠く、陽の光も届かない。死んだプランクトンが雪のように落ちてくる。冷たい波が、容赦なく体温を奪っていく。動き続けなければ凍えてしまう。泳ぎ続けなければ、死んでしまう。寂しいところだと、ユウは思った。

 海の底は、こんなところなのか、と。

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