6
「
車の窓が開き、中から怒鳴り声が飛び出してきた。鹿立はユウの姓、真野はヨサリの姓だった。聞きなれた担任の声に、ユウは安堵した。
「おお、北村先生、遅かったじゃん」
「お前ら……橋のとこで待ってろって言っただろ」
最初の怒鳴り声から一転、疲れた声で北村は言った。
「寒いじゃん、突っ立ってたらさ」
「だったらせめて、家の方に戻れよ。なんで遠ざかってるんだよ」
ヨサリは小さく、すみません、と言った。それで、北村は何かを諦めるように、深々とため息をついた。
「いいから乗れ。真野は前な」
ヨサリに向かって、助手席の背もたれを軽く叩いてみせる。
「なんで」
「お前は声でっけえから、後ろでいいだろ。真野は横に座ってくれないと、聞こえないんだよ」
ヨサリは黙って頷き、助手席に乗り込んだ。ユウは、二人の間から顔を出すように後部座席の真ん中に座った。
「Uターンできんの?」
「無理に決まってるだろ、こんな狭い道で。遠回りするけど、勘弁な」
「うちに電話した?」
「したした。真野も一緒だって言っといたよ」
それから、ヨサリに向き直った。
「あのな、中学生のガキがこんな雪降ってる夜中に歩き回るってのは、けっこう危ないんだぞ」
ヨサリは、静かに頷いただけだった。
「で、なんでこんなとこまで来たんだ? かなり歩いただろ。アホか」
「歩きたかったんだよ」
お前に聞いてんじゃねえよ、と北村は言う。それで、ユウはヨサリの方を見た。
「いや、なんていうか、うまく説明できないので、アホだからってことでいいです」
ヨサリは、どこか居心地悪そうに言った。
「ああ、うん、うまくなくていいから、もうちょっと具体的に説明してくれ。諦めんな。幸い、着くまでは遠回りしないといけねえからな」
それで、ヨサリは天文台が無くなっていたことを思い出して動物園に向かい、結果として自殺の名所に辿り着いたことを話した。北村は納得したというように頷いていた。エスパーかもしれない。
「ああ、あったな、天文台。博物館の近くの、確か西公園の端に建ってた」
「先生、行ったことあんの?」
「大学のときに、よく行ってた。ここだったから、大学。ほら、近いだろ。ふらっと抜け出して、遠足の小学生に混じってプラネタリウム見てた」
「授業、サボってんじゃん」
「サボリじゃねえよ、自主休講だ」
「ジシュ……何それ」
「いや、サボリなんだけどな」
生徒二人に白い目で見られて、いささか居心地悪そうに頭を掻いた。
「プラネタリウムが、だいたい四十分くらいだったんだよ。昼寝にはちょうどいい」
「もったいない」
ヨサリが呟くと、北村は苦笑した。
「本当にな。今思うと、俺の人生最大の贅沢だ」
「贅沢」
「満天の星空の下で昼寝するなんて、贅沢だろ」
遠くを見るような目で、そう言った。
「天文台って、本物の星は見えねえの?」
「見えるぞ。そういうイベントもやってる。新しい方の天文台で」
「夜だろ」
「そうだな。それに、この辺りから行くには、ちょっと遠い。車がないと不便なところに移転しちまったし」
「乗っけてってよ。車あるんだし」
「そうしたいんだけどな、本当、面倒くせえんだよ。お前らを連れていきたいところが沢山あるんだけど」
「そうなの?」
「そうなんだよ。お前らが一緒だと、どこ行くにも、何やるのも面倒くせえ。事故に遭ったらどうするとか、服が汚れたらどうするとか、迷子になったらどうするとか、行けない子が可哀想だとかな。面倒くせえ」
それからふと言葉を切り、今のはオフレコ、と呟いた。山道から、いくらかひらけたところに出た。道路の両側に広い歩道があり、沿道にコンクリート造りの建物が並んでいる。大学の施設だろう。ぽつぽつと明かりのついた窓が見える。連れ立って出歩く人の姿も見えた。寒そうに肩を縮め、眠そうに目を擦り、それでもどこか楽しそうに見える。
「でも、それはそれとして、お前たちを連れて行きたいところなら、いくらでもあるんだよ。あんまり早く見捨てないでほしいね」
それはたぶん、学校に来ないヨサリに対する、一番重要で、一番身勝手な本音なのだろう。
「だから、北村が車出して、連れてってくれればいいじゃん」
「鹿立、お前は少し黙れ」
はーい、と適当な返事をしながらも、ユウは身を乗り出したままだ。
「俺の仕事は、教科書を黒板に書き写すことじゃねえからな? 俺がお前らくらいの時はそう思ってたけど」
「思ってたんじゃん」
「当たり前だろ。プラネタリウムで授業サボってたようなクソガキだぞ」
揚げ足を取られながらも、北村はどこか楽しそうだった。彼らを車に乗せたことで、安心したのかもしれない。あるいは、単に雪に浮かれているのかもしれない。
「まあ、真野も元気そうだし、よかったんじゃねえの。というわけで、真野からも一言どうぞ」
「無茶ぶりだろ」
「真面目な話は苦手なんだよ。……なんでもいいから、今日の感想でも言ってくれ。学校だと、あんまり喋れねえだろ、お前」
それで、ヨサリはしばらく、何かを深く考えているように、じっと沈黙し、ガラス越しに空を見つめていた。
「海の底みたいだと」
ぽつりと言う。
ふむ、と北村は興味深そうに、相槌を打った。
「マリンスノーか」
フロントガラスごしに、空を見上げた。
「じゃあこいつは、潜水艦だな」
ハンドルを、軽く叩く。
「でも、寒かっただろ。真っ暗だしな」
そろそろ水面に上がるか、と緩やかにブレーキを踏んだ。
いつの間にか、彼らの住む団地に戻ってきたらしい。行きは一時間もかかったのに、帰りはあっという間だ。
「ほら、着いたぞ」
停まったのは、小学校の前だった。
「うちまで送ってくれねえの?」
ユウは、不満そうに言った。北村は、わずかに口角を上げた。
「そうしようと思ったけど……まあ、そうするべきなんだろうけどな」
車は徐々にスピードを落とし、停まった。
「真野」
北村は、ヨサリに向き直った。
ヨサリは、顔を上げた。
きちんと、正面で目が合ったのを確認して、北村は小さく頷き、言う。
「鹿立の家に寄っていけ。鹿立の母さんにも心配かけたんだ、顔見せてから帰れよ」
「……はい」
「お前の母さんは叱ってくれないかもしれないけど、代わりに鹿立の母さんに叱られとけ。こええぞ」
「……いや、うちの母さん、ヨサリには優しいんだよ」
それを聞いて、北村は堪えきれないというように吹き出した。
「ま、気を付けて帰れよ。もう、今日はさっさと寝ろ。直ちに、可及的速やかに寝ろ」
「かきゅ……?」
「家帰ったらすぐに、ってことだ。おやすみ」
ヨサリは、深々と頭を下げた。
「ご迷惑をおかけしました」
北村は心底呆れたというように、苦笑した。 そして、ヨサリの頭を乱暴に掻き回した。
それから、ふと表情を緩めた。
「楽しかったか?」
「…………?」
「俺はけっこう楽しかったぞ。雪で、夜だ。危なっかしいが、楽しいものは楽しい」
そして二人を降ろし、車は闇の中にゆっくりと消えていった。エンジン音は、低く穏やかに響いていた。見えなくなるまで見送って、ユウは不意に、ヨサリの髪を掻き回した。先ほど北村がやったのと同じだ。
「髪、ぐちゃぐちゃだぞ」
「そう?」
首を傾げるだけで、触って確かめることもない。
「やんだな、雪」
ヨサリは、小さく頷いた。
「歩くか」
また、頷いた。
「ああ、これ、バレてんな」
「何が?」
ヨサリが、首を傾げた。
「俺らが、ここで学校サボってたこと」
「サボっていたのは、ユウだけだよ」
「そうだった」
現在、盛大にサボり記録更新中だろ、とは言わないでおいた。
ユウは、ヨサリの手首を掴んだ。剥き出しの手首は、細く骨張っていた。それは冬枯れの木を思わせた。大昔の生き物の化石のような、冷たい枝だ。
「ユウ、今、何を考えた?」
ユウは答えず、掴んだ手首をぐい、と引き、歩いた。
「ユウ、俺は、化石じゃないよ」
「ああ? ……知ってるよ、バカ言ってんじゃねえ」
「帰ろうか」
「そうだな」
ユウは頷いた。なぜか、深い悲しみをくぐり抜けてきたように、重く湿ったものが胸の底に溜まっていた。それを吐き出すために、何度か、こっそりと深呼吸をした。
「まだ、化石にはなってねえよ。まだ息をしてるし、まだ心臓は動いてる。瞬きも出来るし、言葉を話すこともできる」
手首を掴んだまま、言う。すぐ傍で、ヨサリが微かに頷いた。
「だからまあ、大丈夫だろ」
雪はやみ、風もない。どんよりと重たい雲だけが、まだ空を覆っていた。
「ここは地上だし、俺らは肺で呼吸してる。ちゃんと、地上に戻ってきたんだよ」
ヨサリは頷き、ふと立ち止まった。それで、ユウも立ち止まった。ヨサリは、空いている手でユウの手に触れた。ヨサリの細い手首を掴んでいる手を包むように、乗せる。
「ただいま?」
「おかえり? で、いいのか?」
ユウは、今目の前にある細い身体が、化石になってしまわないようにと願った。皮膚も心臓も、どうか留まり続けることのないように、と。
できることならば、骨のひと欠片まで、融けて流れていけばいいと思う。そうして彼を形づくっていた粒子のひとつひとつが、深海を泳ぐ魚や、芽吹く草や、砂漠の虫になり、海を渡る鳥となり、あるいは、遠い誰かの細胞になればいい。孤独がひとところに留まらないように、と。
ヨサリが望んでいるのは、たぶん、そういうことなのだろうと、ユウは思った。
<了>
夜さりどきの化石たち 佐々木海月 @k_tsukudani
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