5

「化石になったような気がしていたんだ。ずっと」

 ヨサリが言った。

 ユウは、ヨサリの数歩後ろを歩いていた。

「冬だからじゃねえの」

「そうかな」

「そうだよ」

 待っていろとは言われたが、寒いのはどうしようもない。歩けばいくらか温かいだろうと、ふたりは橋をはなれた。

「じいさん、風邪引かねえのかな」

「さあ……元気そうな人だったけど、心配だね」

 老人は橋の上でふたりを見送り、また細い道を下りていった。

 朝までこの辺りで過ごすという。雪の降る音を聞くのが好きなのだと言っていた。どんな音かと、ユウは尋ねた。老人は笑うだけで、答えてはくれなかった。

 雪はいくらか弱まって、その代わり風が強くなっていた。

「最近は、ちゃんと授業に出てるの?」

 ゆっくりと歩きながら、ヨサリが尋ねた。

「ん? ああ。冬は、つまんねえからな」

「外に出ても、虫も魚もいないからね」

「そうそう。みんな死んじまうのな」

 ヨサリは、振り返らない。

 たぶん、気づいているのだ。その細い背中が、何か言いたいことがあるんだろ、と言っているような気がした。

 このまま黙っていれば、と、ユウは思う。

 何事もなく、この夜は終わるのだ、と。

 あと少しすれば、担任が彼らを見つけてくれるだろう。こっぴどく叱られるかもしれないし、呆れられるかもしれない。それから、家の近くまで送ってもらって、今夜はおしまいだ。

「あのさ、ヨサリ」

 ユウは、胸の底の鉛を吐き出すように、ヨサリに呼びかけた。

 ヨサリは立ち止まり、肩越しに振り返った。顔に降りかかる雪を、払うこともしない。ユウの次の言葉を待っているのだ。急かす素振りもなく、ただ、待っている。

 ヨサリは暗い海の底に立ち、髪を波に委ねながら、流れ去ることなくそこにいた。

 待ち続ける人が持つ、静謐な気配だ。

 ユウは、言葉を探した。

 本当は、とっくに見つかっていたのかもしれない。

 そして、それを口に出すことに、ずっと、ずっと迷い続けていたのだ。

「なんで、学校に来ねえの」

 目を逸らし、俯き、そして小さく吐き出すように、言った。

「……うん」

 ヨサリは、小さく頷いた。ユウの問いを受け取ったという、合図のようなものだった。その問いを胸に仕舞い、少しの間、黙っていた。そして少し歩いてから、ようやく立ち止まり、顔に付いた雪を払い、肩に積もった雪を落とし、絶え間なく降り続く雪を見上げた。

「悲しいことがあったんだ」

 そう言った。

「それで、悲しくてしかたなくて」

 何が、とは、ユウは尋ねなかった。

 代わりに、小さく頷いた。

 それで、終わりだった。

 そうして、また歩き続けた。ふたりとも、黙り込んでいた。

 道には、ひとり分の足跡が残っていた。先程の老人のものだろう。あとから降り積もる雪に、消えていこうとしている。

 ふたりは真新しい雪の上を歩いた。降ったばかりの雪はふわりと柔らかく、波に揺られるような心地がした。 それでいて新雪は滑らない。しっかりと靴底を受け止めてくれる。

「俺は、化石にはなりたくないんだ」

 長い沈黙のあと、ヨサリはそんなことを言った。いつの間にか距離は縮まり、ふたり、並んで歩いていた。ユウはヨサリの手に、自分の手の甲を触れさせた。ヨサリの手は、石のように固く強張っていた。

「あんなふうに、何億年も同じ形で残るのは、嫌か?」

「うん」

「博物館に飾られるかもしれねえぞ」

 ヨサリは、小さく吹き出した。

 それから、おかしくて仕方ないというように、随分、長いこと笑っていた。

「……その博物館を訪れるのは、人間ではないかもしれないね」

 そんなことを言う。

「人間はもういなくて、そうだな、ほかの霊長類とか、あるいはゲッシ類とか……」

「イグアナとか、カワウソとかは?」

「ああ、は虫類が、人類みたいに進化することもあるかもしれないね」

 ふたり、目が合った。

「死んで、骨になって、化石になったとして」

 ヨサリはもう、笑っていなかった。

「今、こうしている俺はどこにいくんだろうね。形だけが残ってさ」

 しんと、音が消えた。

 彼らはまだ、海の底にいる。

 黒々とした波が、彼らの間をすり抜けていく。深海の冷たい水が、ふたりの髪を激しく揺らす。ユウはよろめき、どうにか踏みとどまった。

 凍えた深海魚が足元を泳ぎ回り、闇のなかに消えていく。流木の残骸、かつて生きていたものの骨の欠片、波に巻き上げられた小石、そういうものが、彼らの周りを絶え間なく通り過ぎていく。

 空を見上げた。太陽は遙か頭上、光はここまで届かない。

 そしてまた視線を落とし、ヨサリの姿を探した。隣にいたはずなのに、手を伸ばしても触れない。

「ヨサリ」

 名前を呼ぶ。

 急に、不安が押し寄せてきた。冷たい波に、耳が引きちぎられるような気がした。足は氷柱になったように重かった。

 頭上を覆っていた巨大な骨に、何かがぶつかって低い音を立てた。流木か何かだろう。骨は粉々に砕け、暗い波に攫われていった。積もったマリンスノーが、ふわりと舞い上がった。

 応える声はなかった。

 ただ、代わりに、求めるような手がユウの腕を探り、しっかりと掴んだ。

「……いるよ」

 波が、次第に穏やかなものに変わっていった。

「ちゃんと、聞こえたよ。でもさ―――」

 ヨサリは、何かを言おうとした。

 それを、ユウは遮った。

 分かるよ、と。

 ちゃんと、分かっているよ、と。

 そう言う代わりに、ヨサリの手を掴み、引き寄せた。とん、と、額が、ユウの肩にぶつかった。冷たくなった頬と頬が、触れた。そこから、ヨサリは動かなかった。

 ヨサリが息をするたびに、吐息がわずかに首筋にかかる。それは冷えた身体にはあまりにも温かくて、ユウは微かに身震いした。

 やっぱり、とユウは思った。

 やっぱり、あそこから飛び降りるつもりだったんだろ、と。

 それも、いつもの気まぐれで。ちょっと散歩に行こうかと、こんな夜にふらりと出かけたのと、同じくらいの感覚で。


 低く、エンジンの音が聞こえた。見上げた坂の向こうに、カーブを曲がってこちらに向かってくる車が見えた。

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