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(自尊心とか、まあ、下らねえよな)
ユウは脈絡もなく、そんなことを考えた。
彼は中学に上がってすぐ、授業にろくに出ない生徒として知られることになったが、その理由のひとつは、同年代の人間と一緒にいることが耐えられなかったからだった。どうにも馴染めなかったし、馴染みたいとも思わなかったのだ。昼間、気が向いて授業に出るとき以外は、近くの河原で魚や虫を捕まえて時間を潰していた。完全に夏休みの小学生だ。幼い頃から一貫して、生き物には興味があった。それについて真面目に勉強してみれば、何かしらひらけるものがあるのかもしれないが、ともかくこの段階ではただのサボり魔でしかなかった。
そういうわけで、入学して三か月くらい経った頃にはすっかり不良認定され、周囲も彼を避けるようになっていた。
(うん、下んね)
橋に辿り着いてからしばらくの間、彼らは動かなかった。
空を見たり、橋の下を覗き込んだり、時折ユウが大きな声を出し、ヨサリがそれを聞いて笑ったりした。ここに来るまで、雪道を長いこと歩いている。どこに行くにせよ、少し休憩したかった。
ユウがはじめに足を運んだ小学校の裏の雑木林は、彼らにとってはそれなりに意味のある場所だった。感傷的になるほどではないが、ヨサリを探すとき最初に思い浮かべる程度には、意味のある場所だ。
というのも、ヨサリと出会ったのが、その雑木林だったのだ。
ユウは家を出てからヨサリに追い付くまで、ずっと、その時のことを思い返していた。
あのときユウは――簡単に言うと、ヨサリを、雑木林の池に突き落としたのだった。特に悪気があったわけではないが、当然ながら同意の上でもない。なぜそんなことをしたのかと聞かれても困るが、幸い、誰にも聞かれたことはない。
あのときは昼休みで、ユウは昼寝でもしようと思っていたのだ。
いい天気だったし、五時間目は数学だった。英語だったかもしれない。どちらでもいい。ともかくそれで、いつものようにこっそりと学校の裏門を出て、坂を下り、小学校の裏の雑木林に忍び込んだのだ。人が滅多に通らないし、静かだ。授業をサボるにはちょうどいい場所で、ユウはよくそこで昼寝をしていた。
けれどもその日、雑木林には珍しく先客がいた。同じ制服を着て、ネクタイの色も同じだった。中学校の制服のネクタイは、学年ごとに色が違う。だから、同級生だということは分かった。相手はこちらに気付く様子もなく、池の縁の石に腰を下ろし、手元の本に目を落としていた。
さて、とユウは立ち止まり、遠くからしばらく彼を見ていた。
気に食わなかったわけではない。いつもとは違う光景に、少しばかり調子を狂わされただけだ。
だから、悪意もなければ、ほかに目的があったわけでもない。
ただ、ユウは無造作に相手に近づき、そこにいた彼の肩を、とん、と――池の方に、押してやったのだ。
怒るだろうか、それとも、泣くだろうか、と。
それはもう派手に水柱が立って、さすがに誰かが気付いて駆けつけるのではないかと思った。けれども、ユウはこれといって何をするでもなく、ずぶ濡れになった相手を見ていた。夏に片足を踏み入れたような日差しの強い日だった。だから、風邪を引くこともないだろうと気楽に考えていた。
そうしているうちに相手は無言で池から上がり、本が濡れていないことを確認した。ワイシャツもズボンもびしょ濡れだというのに、そんなことは気にしていない様子だった。
その様子に、ユウは面食らってしまったのだ。
まず本かよ、と。
それが、ヨサリだった。
ヨサリは何も言わなかったし、ユウの方を見ることもしなかった。本が無事だと分かると、それを脇に挟み、ようやくズボンの裾をたくし上げてきゅっと絞った。靴を脱ぎ、靴下を脱いで、裸足になった。足の裏が汚れることなど、気にしていないようだった。決まり切った手順を厳粛に守っているかのように、ヨサリの動作には迷いがなかった。無言で、衣服を絞って水分を落とす作業に没頭していた。
「悪い」
思わず、ユウはそう口に出した。
どんな罵声も怒号も適当に受け流せる自信があったが、この沈黙は堪えた。
「大丈夫か?」
そのまま逃げることもできただろうが、どういうわけか、謝罪しないわけにはいかなかった。ヨサリの沈黙には、何か、まっさらな正しさのようなものがあった。
ヨサリは、驚いたような顔でこちらを見た。
「……ええと、何?」
抑揚のない声だったが、わずかに戸惑いのようなものが感じられた。あとで聞いたことだが、彼は自分を池に突き落とした人間に、本当に、気付いていなかった。
ユウは丁寧に謝罪したが、ヨサリはなぜ自分が謝られているのかも理解していなかったかもしれない。
第一印象は、ただの鈍感なバカだ。
のちに、彼が成績のいい生徒だということが分かると、その印象は、勉強の出来る鈍感なバカに修正された。
この経緯が、ほとんど唯一といっていい友人との出会いとして、好ましいものだったのかは分からない。けれどもともかく、ユウはこうしてヨサリと出会った。
あのときは、平気だと言い張るヨサリを言いくるめて、無理矢理ズボンを交換した。ヨサリはユウよりも頭半分くらい背が小さく、ズボンは裾が少し余った。
その時に交わしたいくつかの会話から、ヨサリがクラスメイトであることを知った。入学して三か月になるが、互いの名前に覚えがなかった。ユウはあまり授業に出ていなかったし、ヨサリは目立たない生徒だった。そしてふたりとも、他人に全く興味がなかった。
けれども、一応名乗りあったことによって、この雑木林を共有する人間として互いを認めることになった。ヨサリはこの一件があってから、たびたび姿を見せるようになった。たいてい昼休みにやって来て本を読んでいたが、ユウが話しかけると真剣に耳を傾けた。クラスメイトとのいざこざについての愚痴だったり、捕まえた昆虫や釣った魚の話だったり、テスト前には勉強の話も少しはした。ともかく内容が何であれ、ヨサリは決して話の腰を折ることもなければ、途中で自分の話を始めることもなかった。
それで、ユウも、ヨサリが何か話すときには同じようにすることにした。ヨサリは話すのが決して上手くはない。話題はいつも唐突だったし、喩えは分かりにくく、起承転結もメチャクチャだった。何より、言葉を紡ぐのに時間がかかる。同年代の少年に混じれば、一言も話すことはできないのではないかと思った。そして、たぶんそれは事実なのだろう。
「実を言うと、俺はあまり話すのが得意じゃないんだ」
いつだったか、ヨサリは言いにくそうにそう切り出した。
「……今さら過ぎるだろ」
「そう? でもそういうのって、見ていて苛々するし、馬鹿みたいだろ?」
「それはそうかもしれねえけど、悪いことではないんじゃねえか」
経緯や事情はどうあれ、彼らは互いに、ほとんど唯一の話し相手だった。
一緒にいるということは、同じ速さで呼吸をするということだ。人は呼吸の速さでものを考え、呼吸の速さで言葉を紡ぐ。隣に誰がいようと、あるいは大勢に囲まれて暮らしていようと、呼吸が合わなければひとりと同じだ。
彼らは、孤独というものをよく知っていた。
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