きっと神さまのいるところ

 それでも、少しずつ。確実に、過ぎゆく時間。

 微かに陰りを見せ始める太陽。それさえもう、今の僕には何も怖くない。


 あちこち回って、いろいろ眺めて。

 一応旅行らしいこともしておこう、と、僕が撮影したのはダムの水面だ。それは神さまの提案でもあって、いつもの顔でわくわく僕にねだって、つまり自慢がしたいらしかった。携帯電話スマートフォン、メッセージアプリの文芸部のグループ、あと三弥にはメールで送りつける。あいつとのやりとりはいつもメールだ。それ以外だとどうにもせわしなくて、なんとなくメールか通話に落ち着いていた。

『ダムに来ました』

 打ってみて、嘘くさいな、と思う。だって写真を見る限りダムっていうか池だ。

 どう思う? と隣の神さまに訊いてみる。

 ダムのほとり、僕と神さまは並んで座っていた。

 少し遠くにはボート乗り場が見えて、その遠くの空が少しずつ、ゆっくりと赤みを帯びて来ているのがわかる。

 うむ、とひとこと、真顔で考え込む神さま。その膝の上、洋菓子店の小さな紙箱が見えた。

 ずっと持ち歩いていたもので、さっきの大騒ぎのときも頭の上、乗せっぱなしで遊び回っていた。気に入ったのだと思う。つやつやの真っ白な紙の箱、印刷された店名の赤が可愛らしい。それはいつかのジャムパンでもあったし、なにより神さま自身によく似ていた。彼女はこれで自分大好きなところがあるというか、いつも自分に似たものを探していた。

「池だな」

 結論は出た。『池に来ました』。送信。ついでに神さまの写真も送った。さっきの大はしゃぎのときに何枚か撮っておいたもので、厳選するのに苦労した。結構たくさん撮ったのだけれど、そのほとんどに写っちゃいけないものが写っていた。白だった。純白という言葉になんら違うところのない驚きの白さで、小さなリボンが誇らしげに付いているのが見えた。

 一応、最初に決めていたことがある。

 ボート乗り場が見えたその時点で、思った通りに神さまが言い出した。「最後はあれがよい」。異論はなくて、でもさすがにヘトヘトになって、だから池のほとりで一休み。

 みんな結構バラバラというか、流れで適当に自由行動していた。

 例えば、たまきさん。少しアスレチックで一緒に遊んだあと、ちょっと探検してくると言ってそのまま奥の方へ消えた。ちょろみさんは少し遠く、立派な一眼レフのカメラで写真を撮っているのが見える。創さんは一体どこに行ったのか、少し前にお尻をさすりながら、芝生の上で本を読んでいたのは見たのだけれど。

 先輩たちから返事が来た。三通、ほぼ同時だ。彼らはいまボードゲームに興じているとかで、その写真が添付されていた。まったくわからない。見たこともないゲームだからルールを知らない。どういう局面で、誰が優勢なのか想像もつかないのだけれど、でもなんだか楽しそうに見えた。きっと、向こうも一緒だろう。池の写真。ただ大量の水があるだけで、どう見ても意味がわからないというのに、でも「楽しそうだね!」みたいな返事だったから。

 しばらくして、妹尾さんからも反応があった。僕と神さまがボートを借りて、いよいよ水上に出てからのことだ。神さまが選んだのは真っ白いシンプルなボートで、足こぎのアヒルボートを選ぶかと思っていたから意外だった。わたしが漕ぐ、とかまた面倒を言い出して、でもそれを止めようとは思わなかった。

 運動神経、というかバランス感覚のいい神さまだけれど。でもさすがに腕力まではそううまくいかない。

 のろのろと進む、僕と神さまの本日最後の進路。それはどうしてか、ただひたすら岸に沿うばかりだ。

 全然思った方向に行かないみたいで、「なぜだ」といかめしい顔をする彼女。その顔を、僕はただじっと見つめていた。それだけで楽しかったし、そしてその顔もばっちり写真におさめた。時間は流れる。ゆっくりと、今日の終わりが近づいて来る。時は止まらない。どこまでも進む。それは考えるまでもないことで、まるでそれを証明するかのように。

 日が、傾きつつあった。

 斜め横から差す夕暮れ前の日差しが、神さまの少し乱れた前髪、隙間から覗く額をきらきらと照らす。少し汗が滲んでいて、必死な様子がはっきりとわかって、なんとなく「楽しいね」笑いかけてしまった、その瞬間に来たのが妹尾さんからの返事だ。

「――あっ、すごい。ねえ神さま、妹尾さん、ここがダムだって当ててきた」

 どこのダムかも言い当てたほどで、それを報告しようと顔を上げた瞬間。

 ――ちょっと、驚いた。

 厳しかったはずのその面差しが、急に柔らかくなっていたものだから。

「なあ、しんたろう。わたしはだな、もっと真ん中の方に行きたいのだ」

 ぜんぜんだめだ、と笑いながら。そのわりにはずいぶん楽しそうだけど――なんて。

 なんだろう、今更というか。なんか僕、いま相当バカなことを聞いてしまった気がする。

「楽しそうなのはきみの方だ。そんな顔をされては、わたしは降参するしかない」

 足元の紙箱、それを拾い上げる真っ白い手。また膝の上にちょこんと乗せるところを見ると、降参というのはつまり「漕ぐの代わって」ってことだ。

 僕もあんまり自信はなかったけれど、でも神さまよりはうまく漕ぐことができた。思っていたよりはすいすい進んで、神さまはやっぱり負け惜しみを言った。「そこそこうまく漕げたと思っていたが」。そう笑いながら、楽しそうに。

「すごいな、どんどん進む。風が心地よい。見てみろ、岸はもうあんなにも遠い」

 軽く額に張り付いた前髪、それを白い指先で整えながら。よほど一生懸命漕いでいたのか、まだ息が少しあがっていた。頬に差す紅色はでも、あるいは興奮からかもしれないけれど。

 池の、ダムの真ん中。目的地に着いた僕たちを、柔らかい春の日差しが包む。光線の色は、もう明らかに赤みを帯びていた。

 静止するボートにふたり。

 きっと、綺麗な光景だったと思う。はたから見たなら、おそらくは。静かで、穏やかで、まるで時間が止まったかのようで。

 だから。

 神さまの呟きは、あまりにも突然で、不意打ちだった。


「嫉妬だ、しんたろう」


 わたしは嫉妬していた。そう呟く神さまの赤い瞳は、でも真っ直ぐに僕のことを見ていた。

「線路だ。わかるかしんたろう、あれは一方通行の一本道だ。きみは大人になっていく。見えない線路のようなものが、わたしの宝物をどこかに運び去ってしまう。いつもだ。何度も見てきた。全部見送ってきた。結局わたしの手元には、思い出のかけら以外なにも残らない」

 眉尻を少し下げた、どこか情けないその笑顔。大人びて見えた。今更、言うまでもなく、それは何よりも綺麗だった。

「わたしはどこにも行けない。試してみたが、やはり無理だ。こう、思うようには進まないものだな。もしこの水上に線路でもあれば、きっとわたしでも真っ直ぐ進めたろうに」

 まけた、あいつはなかなかやるやつだった。

 妙に晴れ晴れとした笑顔でそんなことを言うから、僕としてはもう何も言えない。元々、言えることなんてなにもないのだ。だって彼女は神さまで、なるほど僕はただの人間、レールに乗ってただ運ばれていくだけの、無力でちっぽけななんでもない存在。


 ――でも。

 ――だけど。だけどね、神さま。


「……な、なんだ、しんたろう。なぜここでそんなムッとした顔をする」

 そりゃあ、する。失礼な話だ。確かに僕は大人になって、いやまだ『大人』というには早すぎるかもしれないけれど、でも少なくとももうあの頃とは違う。

 望んだわけじゃなかった。僕は大人というものを信用していない。でも、それでも、いつのまにか。もう神さまはこんなに小さくて、体は一回り僕の方が大きくて、実際腕力は僕の方が上で、つまるところ何が言いたいのかというと、

「ここまで漕いで来たの、僕だよ。ねえ神さま。線路じゃない。僕だ」

 結構疲れたんだ、だって僕はそんなに力のある方じゃない。それでも必死に漕いで、それは神さまのためだし僕の望んだことでもあって、つまり僕らはふたりでここに来た。どこまで行くのか、そんなの知らない。きっと大人なんかに聞いたって答えちゃくれない、あいつらは基本なんの役にも立たない。だからそれを頼ろうっていう、そこからすでに間違っていたのだ。

 一緒に来たんだ。

 ここがダムだ。神さまの、自分から「見たい」と言った風景だ。

「どこまで行くのかなんて知らないよ。だからどこまででも行くしかない。だからさ、ほら。こうして来たでしょ。みんなの力を頼ったりもしたけど、でも僕らはとにかく、ここに来た」

 子供の頃、夏休みの度に拾った神さま。何度も手を引いてあちこち出かけた。おじいちゃんの家まで持って帰ったのもそうだし、あのパン屋さんだってそうだった。僕は神さまの手を引いて、思いつく限りの場所にあちこち足を運んだ。神さまは文句のひとつも言わず、どこまでもついて来てくれた。

 白くて綺麗な拾い物は、いつでも大人っぽい顔のまま、子供のわがままに付き合ってくれた。

 おじいちゃんちに連れて行ったあの晩、僕が学んだ大事なこと。大人って、思ったほど役に立たない。いやまあ、あるいはそうとも限らないと、その可能性も一応あるのだけれど。

 でも、少なくとも。

 行き先だけは大人に任せちゃいけない。

 櫂は自分の手で握るもの。僕の進む『どこか』は、僕が決めなくちゃいけないもので、これまで彼女の手を引いて何度もそうして、だったらきっと、それは神さまも同じ。

 いろいろ案内はしたけれど。どうしても、不満だったのだ。

 聞いたことがなかった。神さまはただの一度だって、僕に言ってはくれなかった。

 ――神さまの行きたい場所。

「着いたよ。やっとだ。ここが神さまのいるところ。そしてその目の前に、しんたろうがいるんだよ」

 神さまの、彼女の頭に手を添えて。そのまま、こつんと額をぶつける。

 昔はできなかったことだ。小さな子供の体では、少なくとも僕の方からこんなことはできない。目の前に、真っ赤な瞳。横からの日差しが照り返して、いつしか風は凪いでいる。

 綺麗だった。何もかもが。

 世界のすべてが輝いて見えて、そして時間は止まっていた。あまりにも美しすぎるそのおかげで、線路の上の電車は止まらざるを得ない。止まったところが目的地だ。僕らの、『どこか』だ。ここが神さまのいるところ。ここには、確かに、神さまがいる。


 しんたろう、と声がする。

 小さな声。僕を呼ぶ声。

 赤い。いま、彼女は赤かった。白くない。はたして夕焼けのせいかどうか、そんなことは些細な問題だった。赤い彼女も綺麗だと思った。好きな色が増えた。白と赤。紅白。おめでたいな、なんて、なんだか間の抜けたことを思う。

「ひとつだけ聞かせろ。贅沢は言わない。ただひとつだ、いまのわたしの最後の不安だ」

 答えなんか決まっていた。いや、何を聞かれるのかまではわからなかったから、つまり結果論ではあるのだけれど。

 それは最初に思ったことで、なにより今この瞬間に至るまで、もうしつこいくらいに繰り返して来たことだ。

 風もなく、静かなはずのダムの中央。急にバシャバシャとものすごい音が聞こえて、それは僕と神さまの場所から少し遠く、水の上を結構な速度で横切るアヒル。必死の形相、漕いでいるのはあの残念なイケメンで、その隣にはカメラを構えた真っ黒いむちむち。よく見れば向こうの岸、やたらと背の高い人影がぶんぶん大きく手を振り回していて、そのすべてが僕には美しく見える。

 ここは彼女の場所だ。いまはみんなその一部だ。なにもかもが綺麗で輝いていて、その真ん中にいるくせに。

 今更の話。たった九年、なにを怯える必要があるのか。

「いまの君の目から見ても、わたしはまだ、その。なんだ。総合力というか、つまり」

 もじもじと歯切れの悪い、というか、なんかもうものすごい泣き笑いの顔で、しかも指先なんかぶるぶる震わす彼女。なにこれ。なんだろこの表情。正直こんなの初めて見て、いつもの大人っぽい顔や得意げな顔、そのある種の堂々たる威厳がもう見る影もない。

 ――ここに来てそういう新しい顔みたいなの見せるの、ほんと卑怯だと思う。


 神さま。僕の大事な拾い物。その彼女を評するために、こんなことを言ったら怒られるだろうか。でもまあ、構わない。比較される側は不満かもしれないけれど、でも僕は気にしない。仮にそのすべてを敵に回したとしても、僕は自信を持って断言できる。


 ――総合力でいうのなら、きっとこの世界の誰にだって負けない。


「綺麗だよ。保証する。あの時よりもずっとずっと、この世界の何より神さまは綺麗だ」


 ダムの真ん中、真っ赤な夕暮れ。いまの時点での僕らの『どこか』。どこまでも続く線路の途上、再び走り出すその電車の、次の『どこか』はでも、きっと同じ。

 いつだったか、それは彼女が自分で言った通り。

 すでに人のいるところには住まない神さま。人はみな、彼女を狭いところに住まわせたがる。

 定員一名。他人の入り込む余地のないそこは、初めて見た瞬間に決めた場所。


 神さまのいるところ。


 白くて綺麗な宝物は、僕の心の真ん中にいる。


〈もこ神さまのいるところ 了〉

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もこ神さまのいるところ 和田島イサキ @wdzm

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