世界のてっぺん、そこは、

 少しずつ、でも確かに陽が傾きつつあるのがわかって、でもそんなに時間が経った実感はなかった。

「いやいや慎っちゃん、だって着くまでの間、けっこう寝てたからね慎っちゃん」

 だよね、という確認と、そして「うむ」という言葉。ぐうの音も出ない、気がついたら目的地に着いていたような感じだ。

 ショッピングセンターを後にして、そしてそれからしばらくの道のり。山道に差し掛かったところまでは覚えている。すぐ後ろを走るちょろみさんのバイクに、神さまが手を振るのを眺めていた気がする。

 麗らかな春の昼下がり。長距離移動の車の中は、下手したらお布団よりも寝心地がいい。あるいは少し疲れていたのか、少なくとも傍目にはそう見えていたみたいで、

「いやいや慎っちゃん。起こさない方がいいって言ったの、神っちゃんだからね」

 という、その一言で少し安心した。ただ車で移動するだけの時間、神さまにとってはおそらく暇というか、隣に座っておいて勝手に寝ていたら、きっと手持ち無沙汰なんじゃないかと思ったから。

「いや、そんなことはない。充分だ。こう、なんだ。とても、よかった」

 なにがだろう。

 尋ねようとして、あくびが出た。よく寝た。なんだか体が軽くなった気がして、どうやら本当に疲れていたらしい。まあ当然といえば当然というか、確かにここ何日の間、毎日がやたらとせわしなかった気がする。

 神様との、突然の再会。そしてその池田荘への入居と、あとなんだっけ、文芸部。

 他は、ええと――なんだろう。特にない。というか、どうも、思ったより少ない。しかもそれらのほとんどはすんなり解決したような気がして、つまり事実上なんにもしてないのだけれど、でも、こう、なんというか。

 濃かった。毎日が。

 よくわからない何かがぎっしり詰まって、なんだか目が回るような感じというか。別にこれまでの毎日が薄かったとか、そういうわけではないと思うのだけれど。

 昔から、あちこちを渡り歩いてきた。それはそれで結構忙しかったはずの日々で、でもどれもこれもいまいち印象が薄い。思い出を、これまでの過去を振り返ろうとして、真っ先に浮かぶのはいつも同じだ。

 神さま。夏が来るたび繰り返した出会い。なるほど印象も濃くなろうというもの、何度引っ越しを繰り返しても、夏の風景だけはずっと一緒だ。

 様々な土地を見て、出会いと別れを繰り返して、そしていま辿り着いた終着点。

 車から降りて、駐車場の外へ。黒部でないのは残念だけれど、僕らの『どこか』はダムだった。

 少なくともいま現在、今日の時点での終着点はそうで、でも道はどこまでも続いているのだけれど。その先がどこなのかは、でもまだ行ってみたことがない以上はわからない。とにかく、僕らはダムにいた。どうにかダムまではたどり着くことができた。


 たどり着いた、どこか。

 それは、見たことのない光景だった。


 それどころかまず、想像だにしない。『ひたすら水をたたえた巨大な建造物』、そんな剛健かつ荘厳なイメージはでも、一目見た瞬間に崩れ去った。

「ただの池だこれ」

 何もなかった。あるのは自然と、水だけだ。田舎の風景と大差なくて、たまたま行楽シーズンだったおかげでどうにか人影は見えるものの、そうでなければ本当に何もない。皆無だ。虚無だ。ただ広くて、どこまでも大きくて、でもそれが今この瞬間、なぜだか無性に気持ちがよかった。

 ――こんなに気持ちがいいんだから仕方がないよね。

 そう言い訳する暇もなく。いや、そも言い訳自体必要ないのだけれど。


 走った。

 意味もなく。何も考えず。神さまと一緒に、なんか気がついたら駆け回っていた。


 遊んだ。本気で、いっぱい、気づいたら息が上がっていたくらい。なんだか広場みたいなところがあって、そこにはアスレチックみたいな遊具があって、ひたすら登ったり降りたりを繰り返した。大きな滑り台をふたりで滑って、芝生の上をごろごろ転げ回った。何でもやったし、何でもやれる気がした。なぜだか無性に楽しくて、神さまはずっと笑っていた。きっと僕も。

 傾きかけていたはずの日が、でもどこまでも真っ白く輝いていた。

 頭上にあった。全然、思っていたよりずっと、遠かった。もうそろそろ落ち始める頃かと、赤みを帯びて来るかと思っていたそれは、でもこのまま永久に落ちてこない気がした。太陽は白い。初めて知った。当たり前だ、だって直接見たら目が潰れる。見ることができるのは赤い太陽だけで、でも本当は白かった。真っ白で、どこまでも暖かくて綺麗な光が、辺り一面を包んでいた。

「しんたろう!」

 神さまが、大きな声で僕を呼ぶ。あるいは真っ白い太陽を、晴れ晴れとした顔で呼びつける。

 アスレチックの一番高いところ、この世界のてっぺんに僕らはいた。ふたりでいたのだ。隣にいる僕を呼ぶのなら、そんな大声なんて必要なかった。僕も呼んだ。めいっぱい、大きな声で彼女を、太陽を。「神さま!」思い切り旗でも突き立ててやりたい気分で、つまりこの大声は旗の代わりだ。

 駆け回って、遊んで、息が切れても笑い続けて、まるで子供みたいだったと思う。

 あの頃と同じだ。田舎には何にもなかったから、基本的に駆け回ることが多かった。僕は神さまの手を引いて、村のあちこちを駆け回った。いろいろあった。一緒に三弥がついて来ることもあったし、コバヤシに呆れられることもあった。他の友達もいた。知らない犬が混じっていたこともあった。あの頃、神さまはそこにいた。

 やっとわかった。

 夏が終わり、別れが来て、そしてすっかり忘れている間も。

 真白い太陽は、ずっとそこに。

 何千何万年も昔から、この世界の一番てっぺんにいたのだ。


 辿り着いた場所。ダム。というか、ここ。ダムという以外になんにもわからないのだけれど、でも僕たちには充分だった。

 ――来てよかった。

 そう思った。芝生の上、ふたり並んで大の字になって、白い光に目を細めながら。

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