彼女に「月が綺麗ですね」と言われたときの心情を三十字以内で説明しなさい(句読点等は一字に数える)

神楽坂

彼女に月が(以下略)

「月が綺麗ですね」

 なんの前触れもなく、僕の横を歩いていた彼女、飯島しおりはそう言った。

 僕はその言葉を耳にすると、前方の山の端にぽっかりと浮かんでいる満月を認識した。時刻は十八時半をまわったところ。姿を表した望月は少し黄色がかっていて、綺麗というよりは迫力すら感じる。山の端に近いせいか、目の錯覚によって南中している満月よりもだいぶ大きく見える。

 うん、綺麗だね。

 そう普通に返事をしたところで僕の口は反射的に閉じられた。

 今、なんて言った?

 月が綺麗ですね。

 ちょっと待てちょっと待て。落ち着こう。

 確かに、前方には綺麗な月が浮かんでいる。眼前にその光景が広がっているのだから、彼女の発言は偽ではない。確かに「綺麗」という単語は主観的なものであって、写実的な情景描写とは言えないかもしれないが、否定するほどの表現ではない。僕にも、前方の月は綺麗に輝いているように見える。

 問題は彼女の発言が真か偽かというところではない。

 彼女が「何を意図して」この発言をしたか、だ。

 僕や飯島しおりのように大学院の国文学専攻に所属していないとしても、ちょっと小説をかじったことのある人間であれば「月が綺麗ですね」という言葉を聞いて夏目漱石の有名な逸話を思い浮かべるのは容易である。

 それこそ真か偽かわからないものの、漱石は「I love you.」という文章を「私はあなたを愛している」と訳すのではなく、「月が綺麗ですね」と翻訳したという逸話。

 僕だって知っているし、もちろん飯島しおりだって知っているはずだ。

 だとするならば、彼女は「どっちの意図」で言ったんだ?

 いや、まさか。

 一旦落ち着こう。状況を整理するんだ。

 日付は二〇一八年三月八日、木曜日。時刻は十八時半を回ったところ。来年度から博士課程に進む僕と、修士二年に進む飯島しおり。大学院生というのは学校関係の雑務が多い。僕は自分の卒業式が今月末に控えていながらも、卒業式に発行するための学内学会誌の編集に携わっている。今日をもってやった校正もすべて終了し、印刷業者に原稿を納入したところ。その手伝いを飯島しおりに行ってもらっていて、あーぁ、やっと終わったねー、じゃあ帰ろっかー、と研究室を出て、校舎の扉が開いたところで飯島しおりから件の「月が綺麗ですね」発言が飛び出したのである。

 以上現状報告終了。僕は一体誰に報告しているんだ。

 普通に考えれば、いたって一般的に考えれば目の前に浮かぶ望月に対する小さな感動を言葉にしたにすぎない。日本人であれば、なんていうナショナリスト的発言は研究者の卵として不適切かもしれないけど、いや、でも日本文学に携わるものであれば満月というものに対する思いいれは格別だ。「秋風にたなびく雲の絶え間より」に代表される平安和歌文化にも月は登場する。彼女が満月を見て、恍惚のため息を漏らすのは仕方のないことだし、非常に自然極まりないことだ。

 いや、でもしかし考えてみろ。彼女は大正に起きた関東大震災に関連する文学を研究テーマとしている。田山花袋の震災文学から、新聞、雑誌にとりあげられた様々な「震災文学」を非常に実証的に考察している。研究の手法が、かなり歴史学に近いところもあるし、大風呂敷を広げすぎて小さな論文が描きづらいというデメリットを抱えているとはいえ、この研究が体系的になったらかなりおもしろくなる。僕や、指導教官であるカシミヤ先生、もちろんあだ名、も期待している。

 何が言いたいかというと、大正文学を主戦場にしている彼女が安易に「月が綺麗ですね」という言葉を使ってたまるかということである。彼女の頭の中に「月が綺麗ですね」という言葉が去来した途端、同時に漱石先生の顔も浮かぶはずなのだ。そして「あぁ、漱石が言ってもない言葉が後世で一人歩きしていてなんて不憫なのかしら」とわざとらしく言ってみせて僕などの先輩院生から笑いを誘うに決まっている。そんな彼女、飯島しおりが、大真面目に「月が綺麗ですね」なんて言うか? 彼女がその言葉を使うということは、明らかになんらかの意図を内包しているに違いない、と考えるのも自然と言っては自然だ。

 じゃあ、もし仮に、万が一「愛している」という意味で「月が綺麗ですね」と言ったとしよう。いや、仮によ。調子に乗っているわけじゃなくてね? 僕だって研究者の卵ですから? 多角的に物事を考えなければならないわけですよ。ようし、みんなで考えてみよう。

 考えられるのは、僕に恋心を伝えたということだ。

 いや、実際言葉にして考えてみるとめっちゃ調子乗ってる。そんなわけないだろ。彼女が僕のことを愛しているわけがない。

 そりゃ、僕が飯島しおりを愛していないかって言ったら嘘になりますし、ぶっちゃけめっちゃ愛しているわけです。月なんかより飯島しおりの方が何百倍も綺麗ですしね? 満月なんてただ丸くて光ってるだけじゃないか。LEDの機能と同程度じゃないか。その点、飯島しおりは光る上に動く。自走式の月といっても過言ではない。そんな飯島しおりから「月が綺麗ですね」なんて言われたら、いろいろなことを勘ぐっちゃいますよ、僕としては。

 いや、でも彼女はそういう陳腐な言い回しが大嫌いだ。ゼミの中でも飯島しおりは僕の論文に対して「久太先輩の論文って言い方がまどろっこしいくせに内容がないですよね。なんていうか、カミソリで無駄なところをさっさっと梳いていったら六行くらいで終わりそうじゃないですか?」なんて言ってくる。一年違いとはいえ、後輩に対してそこまで言われたときには一瞬かっとなったが、家に帰って読み直してみると本当に六行にまとまった。

 そこまで言い回しに厳しい彼女が、よりにもよって日本文学史上、もっとも陳腐でチープな、しかも客観的な根拠のない、漱石を愚弄しているとも言わんばかりの逸話を使用して僕に対して愛を打ち明けてくるか? そんなことをするんだったら、どちらかと言えば床の間のある部屋にいる僕に対して次ぎの間からさっと登場し、切ない恋心を打ち明ける方がよっぽど文学的だし叙情的だしおしゃれちっくで最高じゃないか。

 そこまで考えるとわけがわからなくなってきた。飯島しおりを横目でちらりと見る。 

 かわいい。

 視線が吸い込まれるってこういうことを言うのだろう。決して派手な女性ではない。目がぱっちりしている、とか、スタイルがいい、とかそんな部品部品で成立している美ではない。全体が統御された美だ。容姿、服装、言動などをトータルコーディネートして一つのテーマで存在を統一している。まるで、一見全く関係のない言葉たちを繋ぎ、組み合わせて、まったく新しい幻想的な詩を完成させるような、そんな美。「月が綺麗ですね」発言によって俄然かわいく感じる。なんて単純な生き物なんだろう、男って。差別的発言。

 だめだだめだ。こんなにじろじろ見ていたら怪しまれる。品詞分解をして落ち着こう。月、名詞。が、格助詞。綺麗、形容動詞。です、丁寧を表す助動詞。ね、詠嘆を表す終助詞。いや、待て。「綺麗」と「です」は一語か。形容動詞「綺麗だ」が丁寧語になって「綺麗です」になり、そこに終助詞が付属していると考えた方が自然だ。「綺麗」という名詞は存在しないだろうし。納得。終助詞の「ね」は終止形接続なのだね。「そうだね」「ちがいますね」みんな終止形接続だ。高校のころは古文嫌いで有名な僕であったが、文法を深く学んだことで一気に古文が好きになっていったのはどうしてだろう。

 と、無理やり考えていても僕の頭の中の品詞の分類表の隣には燦然と輝く飯島しおりが屹立している。眩しいからやめてくれ、ほんとに。

 これは、確認するべきなのか? どういう意図でその言葉を言ったのか。

 それでもし普通に情景描写をしただけだったら? そんなにかっこ悪いことはない。

「月が綺麗ですねって、どういう意味?」

「いや、月が綺麗だからそう言っただけですよ」

「あ、そうだよね」

「まさか先輩、漱石の逸話のことだと思ってました?」

「ばか、そんなわけないじゃん」

「なんで私が先輩に愛を伝えなきゃいけないんですか。太宰が芥川賞取るよりあり得ない」

なんて会話が展開されることが目に見えてるっていうか頭の中に非常に忠実に想起されてくる。

「考えてもみてください。どうして私が先輩のことを好きにならなきゃいけないんですか。国文学専攻の博士課程に進もうとしている男ですよ? 将来性のかけらもない。甲斐性も感じられない。先輩の修士論文の質じゃ博士論文にとりかかり始めるのに六年はかかっちゃう。それから非常勤講師、専任講師を続けて運良く地方の大学の准教授にすべりこんで、やっと都内の大学に戻ってきたら四十過ぎ。いや、これって究極の希望的観測ですけどね。そんな男の人に惹かれると思います? 私のことナメてますか?」

 やめろ! 僕が普段抱いている不安を脳内で勝手に飯島しおりに言わせるな! 余計に凹む!

 そうだ。上記の理由によって、彼女が僕のことを好きになるなんてあり得ないんだ。もしかしたら、彼女は人一倍満月のことを愛しているかもしれないじゃないか。竹取物語を読んで以来満月が恋しくて仕方ないとか、道長のことを調べているうちに望月が頭から離れなくなったとか。彼女のキャラクターだったらそれも一つあり得ることだ。 

 日本には、言霊という概念が存在するが、こういう場面に遭遇すると言葉の力というものをまざまざと感じさせられる。彼女の言った「月が綺麗ですね」という言葉は、いまのところどんな意図で発話されたものなのかは僕にはわからない。ただ月が綺麗なだけだったか、それとも漱石の逸話を引っ張ってきたのかはわからないが、おそらく、彼女の中には彼女なりの論理があるはずだ。しかし、僕は今彼女の中の論理とはまったく関係のないところで推測を立てている。

 バルトの「作者の死」以来、テクストと作者が切り離されて考える立場が登場している。発信者の意図ではなく、情報の受信者が意味を想像し、創造する手法。その手法によって時には文学研究において輝かしい成果をあげるときもあるが、一方、今回の僕のように彼女の意図とはまったく関係ない、自分で創造した意味によって自分自身をがんじがらめにしてしまうこともある。だからこそ、言葉というものは有用でありながら、猛毒でもある。

 言葉自体には意味はない。送信者、受信者それぞれの欲望の中に意味はある。

 うわ、なんか急に真面目なことを考え始めたぞ、僕。そうでもないと間が持たないんだよ。ていうかなんて飯島しおりはなんにも喋らないの? やっぱり愛してるの? 僕のこと愛してる? だったらそう言ってよ、奥ゆかしいったらありゃしない!

 しかし、ここまで考えてみると「どんな意図で言ったの?」なんて聞くのは最高に野暮ったい。短編小説でそんな質問をしたら読者に唾を吐きかけられてもおかしくない。情緒の欠片もないし、余韻もへったくれもなければ、知性の匂いもしない。彼女がそれ以上を語らないのであれば、僕だって何かを語る資格はない。彼女は月が綺麗だから月が綺麗だと言ったまでだ。それでいいじゃないか。いいのか? いいんだよ。本当に? 追求してもどのみち怪我するのは僕だからいいんだよ。へたれ。誰がへたれだ。へたれだったら大学の墓場と呼ばれる文学部の博士課程なんかに進学しないわ。誰が大学の墓場だ。余計なお世話だ。

 気がつけば最寄りの駅に到着した。結局僕ら二人は最初の飯島しおりの発言を最後に言葉を交わすことはなかった。気まずかったけど、その気まずさを味わうだけの余裕は僕にはなかった。ここまでは一緒だが、乗る電車はお互い反対方向だ。

「あ、電車来ちゃう。私、行きますね」

 飯島しおりが慌てた素振りで上着のポケットから定期券を取り出す。僕はその言葉にすら反応できなかった。

 彼女は小走りになって改札口を抜ける。背中が遠のいていく。結局、真意を聞くには及ばなかった。でも、これでよかったんだと思う。また明日会うときには全てを忘れて普通に話ができることだろう。このどきどきが消えてしまうのを少し残念に思うけど、日常生活に回帰するためには仕方がないことだ。

 と、改札を抜けたところで飯島しおりは立ち止まり、こちらに振り返った。

「漱石先生も、あんな月を想像していたかもしれませんね」

 わずかに笑みを浮かべながら、飯島しおりはそう言った。

 また前に向き直り、走り始める。

 足が止まる。

 止まった足が、記号の海に現れる解釈の渦へと再び引きずり込まれる。

 頭の中の彼女が肥大化していく。

 漱石先生を、想定して、言っていた? 

 つまり、それは、どういうこと?

 漱石先生、助けてください。

 僕を、解釈の渦から救ってください。

 自分ではこの海を泳ぎきることはできません。

 溺れてしまいます。助けてください…。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女に「月が綺麗ですね」と言われたときの心情を三十字以内で説明しなさい(句読点等は一字に数える) 神楽坂 @izumi_kagurazaka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ