最後の国見
輿を降りて
甘樫丘からは
正方形の新益京の中央には、三一〇〇尺(約九二〇メートル)四方の藤原宮がある。藤原宮から東に向けて青龍大路、正面から真南に朱雀大路、西に白虎大路、北に玄武大路が伸びる。朱雀大路の両側には、大官大寺と本薬師寺が宮の守りとして建立されていた。皇族、大和朝廷以来の氏族には、新益京に土地が割り当てられ、それぞれに趣向を凝らして大きな屋敷を建てていた。官人や調役、兵役で上京してきている人々の家も多く作られている。宮の北には官製の市が開かれ多くの人で賑わっている。新益京の人口は四万人を誇り、多くの人で賑わう町は、国家の繁栄を示している。
藤原宮は、十七尺(約五メートル)の外堀と白壁の塀で俗世から隔絶され超然としている。威容を誇る藤原宮は国家の権威を表している。塀には合計十二の門が設けられ、それぞれの門には、大伴門、佐伯門などの氏族の名前が冠されていた。藤原宮の中央には、白壁、朱色の柱、瑠璃色の瓦でできた大極殿が建てられている。大極殿の北側には天皇の住居である内裏が、南側には儀式や政務を行う朝堂院が配置されている。二官八省からなる官僚組織は、朝堂院の十二棟の朝堂で政務を行う。
「藤原宮を中心に、氏上の屋敷や民の家々が増えてきました。市は毎回、かなりの賑わいになってきています」
「
讃良は大きく深呼吸をした。
心地よい空気が体を満たしてゆく。
今日の国見に際して、柿本朝臣がうれしそうな顔で教えてくれた歌です。新益京の地は元は田畑や荒れ地でした。今、甘樫丘から一望できる風景は王都にふさわしい大きさと内容を持っています。沼地を都にしたという感覚は、上の者から下の者まで共有しているのでしょう。
讃良の背後に、
綺羅、星のごとく居並ぶとは、大臣たちのことを言うのでしょう。阿倍右大臣以下がいなかったら、国を創るという大事業を成し遂げることができませんでした。忠臣たちは、私が死んでも珂瑠をもり立てていってくれるでしょう。
「私に尽くし、共に国を創ってきた忠臣たちに感謝したい」
「国を創るという事業は、指導者の確固たる信念が必要です。太上天皇様が、我々を導く見識、皆が納得できる目標を示されたからです。臣下だけでは国を創るための、どの事業も中断したでしょう」
阿倍御主人たちは一斉に立て膝になり頭を下げた。
「柿本殿が太上天皇様に歌を献じたいと申し上げています」
不比等の薦めに、人麻呂が前に出る。
「やすみしし わが大君 高照らす 日の
あらたへの 藤井が原に
大和の 青香具山は 日の
名ぐはし 吉野の山は かげともの 大御門ゆ 雲居にぞ 遠くありける
高知るや 天の
水こそは 常にあらめ
(わが大王様は、荒地のひろがる藤井の原に、宮を建てられた。
埴安の堤に立ってご覧になれば、
天香具山は藤原宮の東に、青々と茂っている。
畝傍山は藤原宮の西に、めでたい山として座っている。
耳成山は藤原宮の背面に、神々しく立っている。
名も美しい吉野の山は、藤原宮のはるか南にそびえている。
藤原宮は陽の光を遮ってしまうほど雄大ですばらしい。
御井の清水が絶えることないように、藤原宮は永遠に続きます)
人麻呂は反歌ですと続けた。
「藤原の 大宮仕え 生まれつぐや 乙女がともは 羨しきかも」
(藤原宮につかえるために生まれ継いでくる少女達は、なんと羨ましいことよ)
讃良に従ってきた人々は全員が立ち上がり拍手する。
突然の大きな音に驚いたツグミが、群れをなして空に舞った。
柿本朝臣は、見事に藤原宮を歌い上げてくれました。藤原宮。倭三山。吉野の聖山。目に見えるすべて、日本国と皇室、千年の繁栄を詠んだ見事な歌です。
大臣はじめ、群臣、百官、舎人や采女に至るまで、新益宮を作ると同時に、
群臣、百官、日本の
藤原不比等が進み出てきた。
「律令と都の完成を見て、国創りが完了したことを実感できます。ちょうど百年前、
讃良の事績は大きい。
国郡里を定め、
「女が創った国とは言い過ぎでしょう」
「隋国は儒教の影響で、雌鶏が鳴けば国が滅びると言い、女は政に関わることができませんが、我が国は、大王様と
「我が国の主神は、天照大神様にございます。藤原殿の言うとおり、我が国は女帝が創り賜いし国にございます」
二人の言葉がお世辞だと分かっていても心地よい。
若い頃は世辞など言わなかった藤原朝臣も、年をとって丸くなったのでしょう。
年をとったといえば……。
私の手のしわは深く、顔には潤いがなくなって久しい。髪は硬くなり、白髪も目立つようになってきた。歩くことにも疲れる。
「この二、三年で私よりも若い
志斐がゆっくりと一歩前に出て、真っ白の頭を下げた。
「
讃良の「大丈夫ですか」という問いに、志斐は微笑んで答える。
「いなといへど
志斐は大粒の涙をこぼした。
「いなといへど 語れ語れと
私は、皇女様、草壁皇子様、珂瑠皇子様の三代にお仕えできて幸せにございました」
深く頭を下げる志斐に、讃良は自ら杖を下賜した。
「太上天皇様が政を退かれるのならば、私もご一緒いたします」
柿本朝臣……。
「私は歌詠みとして世間から持ち上げられておりますが、出自は落ち目にあった柿本であります。太上天皇様に拾っていただかなければ、単なる歌が好きな舎人として一生を終わったことでしょう。太上天皇様には感謝の言葉もありません。いつまでもお仕えしたいのですが、近頃は目がかすみ耳が遠くなりました。ご迷惑をかける前に身を引きたいと存じます。余生で、歌集をまとめることをお許しください」
柿本朝臣はこの前の美濃国への巡幸にもついてこられなかった。私が年をとって体の自由がきかなくなったことを感じるように、同年代の柿本朝臣も老いを実感しているのでしょう。
讃良は純白の紙に、新しい筆と硯を添えて人麻呂に下賜した。
「歌集ができたら私の元にも届けてください」
人麻呂は「畏まりました」と返事した。
不比等に見つめられているのに気づいた。
律儀な藤原朝臣のことだから、私や柿本朝臣、志斐が身を引くと言い出せば、隠居すると言い出すことだろう。藤原朝臣は私たちよりも十以上若く、脂の乗った年頃だ。まだ隠居する年ではない。
「藤原朝臣は、珂瑠の参議として政を助けてやってください」
不比等は跪き、「畏まりました」と答えた。
「藤原宮は、千年続く日本国の都です」
讃良の宣言は空に浮かぶ白い雲を超えて上った。
大宝二年(七〇二年)十二月二十二日、
「民に負担を掛けるな」という遺言により、讃良は大海人天皇(天武天皇)が眠る
おことわり
本編は史実を元にした創作です。
「天皇」「皇后」の称号、「日本」の国号は、天武、持統朝より用いられるようになったという学説に従い、壬申の乱以前は「
天智、天武、持統などの
白鳳の女帝-日本草創- しきしま @end62
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