後編

 白蛇の夢は、その後の日々へ移る。やしろと巫女を手に入れ、人の敬して遠ざく神から崇め祀られる神へと変わった日々を。



 約束通り、泉の前には大きな本殿が建てられた。神社の体裁に必要なもののほとんどを排除した代わりに村人が力を注いだ本殿は注文通り、身の丈数間を越える蛇が這いまわるのに不自由しない程度の広さを備えており、巫女となった娘が毎日掃き清めた。供物は結局七日に一度の頻度で村人が運んでくるようになった。命を繋ぐために食物を摂る必要のない蛇神はそれらに手を付けず、結果としてそのほぼ全ては娘の食物となる。

 本殿の隅で寝起きし、供物として村人の持参した干し肉や米を食べ、本殿や泉の周辺を掃き清め、時折訪れる村人の願いと蛇の仲介をする。それが巫女としての娘の日常となってから、また年月は過ぎた。


「お前は何故、二度も私に喰われたがった」


 ある日、泉から首だけ覗かせて蛇はそう問うたことがある。娘はその問いに、物憂げに目を伏せて。幾たびか瞬いて、答えた。


「私は、あの日。旅の途中に盗賊に襲われ、父様ととさま母様かかさまを相次いで失ったとき。母様の次に、私も殺されるものと思っておりました。蛇神様に救われてさえ、己の命は最早無きものと思い込んでいたのです。全てに絶望していた私は、両親のもとへ行けるなら喰われるのも悪くない。そう、投げやりになっておりました」


 そこで一旦言葉が切られると同時、娘が顔を上げる。


「蛇神様は、本来ならあの日終わっていた筈の私に、生をくださいました。麓の村まで送り届け、全ての身寄りを失った私が再び人と共に生きられるよう取り計らってくださりました。感謝こそすれ、逃げようとする道理は何処にございましょう。己のことしか考えていなかった昔はいざ知らず。今の私へ、蛇神様が求めるならば。私は喜んでこの身を捧げましょう」

 娘の言葉が蛇の胸中に齎したのは、神代の昔から生きてきた蛇にとってすらも初めての感覚だった。むず痒いような、けれどもどこか身に馴染んだもののような感触。心を撫でまわすみちのそれから、娘から逃げるかのようにして、蛇神はまた清水の中へ潜っていった。

 それからまた、日々は過ぎてゆく。


「蛇神様、村から三日ほど雨を降らせて欲しいとのことです」

「泉の周囲に散っていた落ち葉を掃き清めておきました、次は何をいたしましょう」

「村の者が訪ねてきました。病気の治癒を祈願したいとのことです。蛇神様、何ぞとお力をお貸し願えませんか?」

「村からの供物です。今年は蛇神様のお陰で豊作、長く患っていた長老の病も癒えた、その感謝の奉納品だと」


 娘は、巫女として甲斐甲斐しく仕えた。村人の願いを娘が蛇に取り次ぎ、蛇がそれを叶えれば村人は礼の品を奉納する。そんな日々の中で、ようやく。蛇は娘の齎す未知の感触の正体に気が付いた。


(思い返せば、初めて出逢ったときから。あの者は、私を『祟る神』ではなく『祀る神』として扱っていた)


 以前の村人のように、神威を恐れて近づかないのではない。恐れ敬い、そのうえで代償を携えて神に願った。


(母様の、墓を造りとうございます)(村の実りと民を、護ってください)


蛇の脳裏を、娘の言葉が駆け巡る。彼女は最初から、自分の命すらも捧げる覚悟で蛇へ取引を持ち掛けていた。妖魔の如く恐れられてきた蛇に、神として接する。それは、蛇にとって初めての感触であった。


(つくづく、珍妙な人間よ。私が簡単に人を喰らうことを知ってなお、私にがんをかけるとは)


 村人の誂えた本殿の中、蛇はくつくつと笑う。娘と共に生きるようになってから既に数年。いつしか、蛇の頭の中からは娘を食べるという考えは失せ、代わりに知れば知るほど面白くなる人間をもっと知りたいという思いが占めていた。

(人間というものは、底なし沼のようなものよ。触れれば触れるほど解らなくなってゆく。全く、興をひかれる生き物だ。もっと長い間、傍にいたいと思わせるに十分なほどには)


 四季が山中を巡り巡った回数が両の指を超えてなお、娘は巫女として仕え始めた時より全く姿を変えていない。

 神に近づきすぎたものは、それ自体もまた神に似た性質を帯びる。蛇と娘の場合、それは不老という形で現れた。脱皮を繰り返す蛇のように、巫女である限りいつまでも娘はその若さと美しさを保ち続ける。

 やしろの中でうっそりと蛇は笑う。倦むほどに過ごしてきた年月を、共に重ねる相手のことを想って。長く生き過ぎたものに特有の、変わらぬ日常への根拠のない盲信をもって。



 蛇の見る夢は、ゆっくりと色を変える。幾百年の後、やがて悪夢へと豹変する日へ向けて。



 下界から隔絶された山の中とは反対に、世の中は変わっていった。遠い地で将軍が立ち、倒れ、また新しい者が跡を継ぎ、ついには継ぐ場所もなくなる。そうしてどんどんと血生臭くなっていく世相は、やがて蛇と娘のもとへもまた及んだ。


「だ、れか。誰か、いないか」


 その男が現れたのは、村人が山を二つほど越えた先で大きな争いがあったと報せを持ってきた翌日。凹んだ兜と、自身の血と返り血に汚れた鎧。手傷を負っているのか、片足を引きずりながら這う這うの体で、一人の落ち武者が泉の神社に辿り着いたのはある秋の日の夕方のことだった。


「何者であろうがこの神域に穢れを持ち込むことは罷りならん。さっさとね」


 血の穢れを嫌い、男を追い出そうとする蛇を止めたのもまた娘だった。


「蛇神様、この方は心身ともに深く傷ついております。このまま追い出してしまえば、山の夜は越せぬでしょう。上手く村へと落ち延びたとしても、落ち武者を匿った集落は撫で斬りの決まり。保護を受けることはかないません。お言葉もごもっともですが、どうか私に免じて、せめて一宿一飯でも彼に提供する許可を下さいませんか」

「ならん」

「お願いいたします、この通りでございます!」


 深々と頭を下げる娘に、とうとう蛇は折れた。共に時間を過ごす様になって数百年。気付けば蛇は、ある程度までは娘の願いを聞き届けるようになっていた。娘が病人の看病のため村に降りたいと言えば、日が落ちるまでに戻ることを条件に許す。もともと蛇への供物はほぼ全て娘に与えていたのだが、それに加えて娘の衣服や身の回りの物なども天候の加護の代償として村人に要求する。ここ数十年の間蛇神の関心はもっぱら、あまり多くを望まない娘の顔に喜色が浮かぶ瞬間を見つけることに向けられていた。


「……本殿の軒下までだ。明日の日の出にはここを去れ。本殿の裏手よりも泉に近づけば喰う」


 言い置いて背を向ければ、ありがとうございますと娘の弾んだ声がした。

 落ち武者の男は約束を守った。娘に傷の手当てを受け、食事を振る舞われるなかも本殿には軒下より立ち入らず、泉に近づくこともなかった。軒下で眠り、蛇と娘に何度も礼を言いながら夜明けとともに鳥居を出た。


「行ってしまいましたね。山の下では、血で血を洗う争いに満ちた世となっていると聞きます。彼が生き延びられると良いのですが」

「ふん、この泉より湧き出る川の流れ以外のことは私の知ったことではない。今回の件は特別だ、またあのようなものが迷い込んできたとして次があると思うな」

「存じております。此度は私の我儘わがままを聞き入れてくださり、本当に有り難うございました」


 それで、終わったはずだった。少なくとも、蛇とその巫女にとっては。


 男が泉を去って、三日後の早朝。本殿の中にとぐろを巻く蛇に向かい、鳥居の周辺を掃き清めていた筈の娘が息せいて走り寄ってきた。本殿の扉を閉め、押し殺した声で告げる。

「蛇神様、大変です。先程ちらりと見えたのですが、刀を下げた鎧武者が数人こちらへ向かっています」

「……不届き者か」


 賊ならば喰うとばかりに牙を剥きだした蛇に、慌てて娘は宥めるように続ける。


「分かりません。ひとまず、私が応対します。……あの様子では近くに陣を張ったと伝わる、とある武将の手下の兵でしょう。蛇神様が姿を現したり、彼らに危害を加えるようなことがあれば本隊が押し寄せてきます。どうか、本殿の中にいらっしゃってください」


 必死の懇願に、不承不承蛇神は頷く。そうこうしている間に近づいてきた男たちの声に、では、と言いおいて娘は本堂から滑り出た。

 娘が出る時に細く開かれ、またすぐ閉ざされた扉の隙間から話し声が漏れ聞こえる。


「……お前が……匿った……」

「聞くところに……齢を経ぬ……」

「殿が…………来い」

「……承知いたしました、ですがまずはこの神社の……」


 数人の男達の声に引き続き、娘の声がして幾ばくか。再び扉が一瞬開かれ、飛び込むように娘が入ってきた。


「何と言われた?」

「はい、その……」


 娘の言うところによれば、こうであった。

 先日神社を訪れた落ち武者は、今本殿を取り囲んでいる兵たちと敵対していた軍の将であったらしい。彼は山を下りたところで捕らえられたが、殺される直前に怪我の手当ての後を不審に思った兵に詰問され、山奥の神社にて巫女に手当てを受けたことを吐いたという。蛇達の住まう山やその麓の村は決して賑わっていると言えるようなものではなかったが、泉の蛇と老いぬ巫女の伝説は付近の村々には有名であった。結果、軍を率いる武将が興味を持ったことで、巫女を連れてこいとの命を受けた兵たちが神社に派遣されたのだという。


「やはり、不届き者であったか」


 神に仕える巫女を連れ去るなど、不敬中の不敬。やはり今すぐ八つ裂きにしてやるか、と赤い眼を滾らせた蛇に、娘はまたも縋り付く。


「心配には及びません! 彼らは大人しく従えば手荒な真似はしないと言いました。断れば、麓の村にも累が及ぶでしょう。妖魔として、蛇神様のこの神社に討手がかかることもあり得ます。ですから、どうか。ここは私に、行かせてください」

「……忘れたのか、お前が目の前で両親を山賊に殺された日のことを。人間がどれだけ残虐になれるのかなど、とうの昔に見ているはずだろう」


 お前が無事に帰るという保証はないのだぞ、と続けようとして。蛇はそこで言葉を切った。

 娘の射干玉の瞳、その上に張った薄い膜。泪に潤んでなお、その眼光は臆すことなく蛇を見上げていた。


「忘れたことなどございません。数百年が経とうと、父母を喪った痛みは今もこの胸にございます。……正直に申し上げて、人間への恐れは村で過ごした十年間も消えることはありません。村の皆様は大変良くしてくださいました。なのに、それでも裏切られる恐怖におびえずにいられない自分が嫌で嫌で、それ故に人の世界から抜けて蛇神様にこの身を捧げたという面も否定はできません」


 その上で、と続ける。

「もう、人に怯えることはしとうないのです! 怯えて縮こまって、あの日のようにただ愛するものが殺されるのを黙って見ていたくはない!」


 一気に思いの丈を吐き出したからか、か細い肩が荒い息に合わせて上下する。呼吸を宥めるように、深く息を吸って、吐いた後。膝を折り、板張りの床に三つ指をついて娘は言った。


「すぐに戻ります。ですから、どうか。私に、彼の者たちの言葉に応じる許可を下さい」

 ぽとり、と床に丸い染みが落ちる。長い長い時の中、初めて己の前で流された滴を前に、止める言葉を蛇は持たなかった。


 紅葉に染まる山の日が暮れ、漆黒の帳が下りる。東の空が紅に染まっても、娘が帰ってくることはなかった。

 娘が男達に連れられて山を下り、丸一日が経過したとき。どうしようもない胸騒ぎに襲われた蛇は、山を下りた。

 己が化身ともいえる川の流れに入り、凄まじい速度で滑り降りる。平地に出て一里ほど、川沿いに張られた陣幕が蛇の視界に入った。微かに、陣幕の内から娘の気配を感じる。

 人目が無いのを確認した蛇は川から上がり、人の姿に変化する。周囲の空気が揺らいだ次の瞬間には、全身に禍々しい純白を宿らせた男がそこに立っていた。瞼の下、鮮血の紅が見開かれる。そのまま陣幕を無造作に捲りあげ、蛇は内側へ足を踏み入れた。

 ぷん、と酒の匂いに包まれる。澄んだ神酒とは比べ物にならない、猥雑な酔う為にある俗世の酒。陣内の兵士は朝日も既に高いというのにぐうぐうと寝こけている。起きていたとしても、蛇を見咎めるほどの判断力は残っていないように見えた。よく見れば、兵の数が少ないようにも見て取れる。酔いの醒めない目で座り込む兵士を適当に蹴り飛ばし、赤い眼を光らせて問い詰める。


「娘はどこだ」


 常人なら自ら心臓を止めているような、氷点下の声音。一気に酔いが醒める程度で済んだのは、たらふく兵士が飲んでいた酒によるものであろう。震える手が、一か所を指すように伸ばされる。指先の示すものを追って蛇が振り返った先、そこには。『それ』が転がっていた。



 悪夢が、蛇へ牙を剥く。



 白の水干は、赤に染まっていた。水干だけではない。袴も、肌も、全身の至る所が血と泥に塗れている。極めつけは、その胸。抜き身の大太刀が一振り、左胸を貫通して生えていた。

 違う、ちがう。こんなものが、彼女であるわけがない。こんな、汚れて冷え切った肉塊が、長い時間を共にした彼女であるわけがない。心のどこかでそう思いつつも、蛇は半ば呆然と『それ』のもとへ近づいてゆく足を止めることができなかった。そっと地面に膝をつき、『それ』を抱き寄せる。


「……んー、ああ、その女か」


 屈んだまま蛇が振り返れば、一際立派な身なりをした鎧武者と供のものらしき兵士二人が立っていた。様子から察するに、この男がこの陣のぬしたる武将なのだろう。やはり酔っているらしく、蛇の容姿の異質さに気付かぬままべらべらと喋り出す。


「落ち武者を匿ったのが伝説の蛇巫女だというから連れて来てみれば、未だ年端もゆかぬ小娘ではないか。宴の肴にと酌をさせたが、早く社へ帰りたいと申すばかりで興が醒めたわ」

「ええ、折角殿が妾に迎えようと仰っていたというのに無粋なことで。いくら美しゅうても、所詮は田舎女といったところでしょうか」

「しかし、老いることのない蛇巫女というならば傷を負っても癒えるのでは、とは。殿も、なかなか味なことを考えなさる」

「なんの、落ち武者を匿った罪人の分際で儂の申し出を断った罰よ。ついついやり過ぎて殺してもうた、苦しむ姿はなかなか酒の肴にはなったがな」


 鎧武者と、それにおもねる兵士の声は最早蛇の耳には入っていなかった。返してもらうぞと呟いて。変わり果てた娘の胸から、太刀を引き抜く。左手に娘を抱え直して、蛇は大太刀の刃を右手で掴む。力を籠めれば、陶器の器を割るがごとく鋼は粉々に砕けた。右手を振り、刃の破片を振り落とす。そのまま両手で娘を抱え直し、武将たちに踵を向けて歩き出した。


「おい、何を勝手に」


 詰め寄った兵士が、次の瞬間白目を剥いてくずおれる。足元に転がった骸を踏み越え、蛇は漸く騒然とし始めた陣を後にした。

 帰りの道は、本来の蛇の姿へと戻らなかった。かつてのように娘の身体を尾に巻き付けようとして、壊してしまわない保証は今の蛇にはできなかった。


(大丈夫です、心配しないでください)


 娘の言葉が、山へと歩く蛇の脳裏をよぎる。蛇には傷を癒す力は有れど、黄泉から呼び戻す力はない。最早聞くことのない声だけが、頭を巡る。


(あの日のようにただ愛するものが殺されるのを黙って見ていたくはない)


 なぜ自分はあの時、兵士全員を喰い殺してでも止めなかったのだろう。蛇の自問に、答えはない。ただただ腕の中の物言わぬ重みだけだけがある。


 そうして辿り着いた麓の村では、火の手が上がっていた。

 村人は既に逃げたのか、姿は見えない。逃げ遅れたらしき何人かの死体が、ぱっくりと開いた傷口を空へ向けて倒れていた。空いた家々へあがりこみ、米や衣服を強奪する兵士を指揮していた騎馬武者が着けていたのはあの陣に掲げられていたのと同じ紋。

 燃え盛る村の横、山へと向かう蛇には目もくれず略奪は続けられる。或いは、欲に目が眩み本当に視界に入っていなかったのか。

 ああ、やけに本陣に兵が少ないと思えばこういうことか。蛇の胸中に湧いた思いは、ただそれだけだった。

 やしろへ辿り着いた蛇は、娘だったものを清水へと沈めた。自身は蛇の姿へ戻り、泉の周囲にとぐろを巻く。

 村を襲った隊が本陣へ戻れば、すぐにでもこの神社へ軍勢が押し寄せるだろう。そこまで考えて、蛇は自嘲した。

 何を恐れることがあるのか。巫女は殺され、彼女の願いと無関係に守るべき村は破壊された。失うものなどなにもない、否、むしろある方がおかしかったのか。もう村の守護神として振る舞う必要はない、ならば。


 その後、三日三晩。蛇は山の周囲に大雨を降らせた。ぬかるんだ泥は移動を阻み、増水した川は渡ろうと試みる者を飲み込み、武将とその軍勢を陣地に釘付けにする。

 そして、四日目の早朝。蛇の司る流れは濁流となり、全てを呑み込んだ。尾のひと振りは軍勢を薙ぎ払い、うねる胴は犠牲者を捉えては押し潰す。荒れ狂う流れから飛び出した蛇の牙に八つ裂きにされる最期の瞬間まで、武将は己が招いた神の怒りに気付くことはなかった。


 蛇の夢は、色を失う。色を付けていた彼女の存在と共に。


 それ以来、蛇は荒ぶる神と化した。山奥の水源を去り、川の中流へと棲み処を移した後は気紛れに再び洪水やひでりを引き起こすようになった。秋の嵐が来れば氾濫して暴れ、近づく者すべてを喰らい貪る。その都度新たな堤防が築かれ、それを突き崩しては荒れ狂った。

 時代と共に堤防も高く堅くなり、徐々に蛇の猛威も鳴りを潜めていった。そして、それ以上に。巫女のいる穏やかな日々に慣れきっていた蛇は、暴れるのに疲れていた。

 ある年、蛇の棲む川にて水運業を営み、財を成した家が水神を祀る小さな社を建てたのを機に。蛇はその神社に棲みつくことを決めた。かつてのように崇められ恐れられずともよく、ただ安らぐ場所を求めて。


 それから、時が経った。時代が下るにつれ信仰は薄くなり、神の住む次元と人の暮らす次元は増々離れていった。蛇を視ることのできる人間も大幅に減っていき、蛇も祭事の日以外は眠るようになった。

 そして。

 そして。


 夢見る蛇は、最後に思い出す。そういえば。確か、あの娘の名前は。


「おーい。……眠っていますか?」

 浅いところを漂っていた蛇の意識は、投げかけられた声に反応して浮上した。赤い瞳をゆるりと開けば、視界の先にはこちらを覗き込む、懐かしい顔。

 あの悪夢から更に四百年以上が過ぎてなお、時折混同してしまいそうになる。彼女と、今目の前にいる娘は別人だ。そう、別人なのだ。その魂や前世がどうあれ。

 そう、ここは新しい棲み処と決めた神社の背後に広がる鎮守の森で、眼前の娘は『視える』人間で。

「今日のお供えです。近くのスーパーで買ってきました、特売品なのは勘弁してください」

 八年前、この娘に初めて出逢った時のことを蛇はよく覚えている。祭りの晩、数少ない異界の扉が開く日に迷い込んできたこの娘は、千年も昔に泉の前で出会った彼女と同じ匂いがした。

「……ちぐさ、といったな」

「はい、そうですが何か?」

「……遅い。『すぐに戻ります』と言い置きながら、五百年もかかるとは何事か」

 何ですか、藪から棒にと眉を顰める表情も声色も、かつての彼女とは程遠い。それでも、確かに同じ魂の色を持つ娘。

「ふ、ただの戯言だ。気にするな」

 ちろちろと揶揄うように舌を出しながらも、蛇は思いを馳せる。次に見る夢が、悪夢でないことを祈って。

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白蛇夢譚 百舌鳥 @Usurai0000

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