白蛇夢譚
百舌鳥
前編
昼下がりの天日は、あまねく地の上に降りそそぐ。情と欲の渦巻く人界の上にも、静謐に沈む山深き奥地にも、人界と次元を異にする神域にも。
平らかに柔らかく、等しく温かいひかりを受けて。鎮守の森の奥深く、白蛇は夢を見る。
太古の昔、神代の時のこと。山の最奥に湧いた清水と、人の信仰と畏敬。其れらと卵より生まれ落ちた白蛇の依代が結びつき、神たる白蛇は生まれた。森羅万象を司る八百万神がうちの一柱。森閑の奥に湧き出る水源に宿る、水脈と天候を支配せし神として。
泉はやがて清流になり、清流はやがて川となる。水の流れが人の営みと結びつくようになるにつれて、蛇も時折山から人里へ降りるようになった。
蛇は気紛れだった。ある年は数週間も雨を降らせて暴れ、ある年は反対に人里より水の気を断った。行為に確たる理由はない。ただ思いつくまま神に通ずる力を振るう、残酷なまでの気紛れ。
人の脚で一刻ほど登った先の、山奥の泉には白蛇が宿る。近寄れば喰い殺される、機嫌を損なえば村ごと干上がるか濁流に押し流されるかのふたつにひとつ。蛇の棲む山の麓の村ではそう語られていた。自然と蛇の主に住まう泉へは、人の足は遠のいていく。安穏を乱されることなく、聞き届ける願いもない。蛇はその状態が気に入っていた。
時に慈雨を降らせ、時に
山に吹く風に乗り、生臭い鉄の匂いが蛇の鼻孔を突いた。不快な異臭に、ずるりと蛇が清水から這い出せば、同じく風の運んできた争う声。野卑を滲ませた野太い声が数人分、泉の方向へ獲物を追い立ててくる。しばしの後、縺れるように走る大小ふたつの人影が蛇の視界に入ってきた。蘭傘に垂れ衣、上流階級の旅の装いに身を包んだ女と、もうひとり娘らしき童女。五つ六つばかりの少女を庇うように駆ける彼女の背後、手に手に抜き身の刃を携えた男達が姿を露わす。麓の村では禁足地となっている泉へ近づいたということは、女も男達もこの土地の者ではないのだろう。さしずめ旅路を襲われた貴族の母娘と、離れた地から虎視眈々と二人を付け狙ってきた山賊の一味といったところか。見れば、男たちの振りかざす刃には既に真新しい血糊がべったりとこびりついている。間近に香る
男達の背後、泉よりずるりと這い出した蛇に気付かぬまま、三人の山賊達は母娘に追いつき取り囲む。囲まれてなお幼い娘を庇うようにうずくまる母親に、男達はしばらく怒声を浴びせて、そして。中央に立っていた男が、業を煮やしたのか獲物を大上段に振りかぶる。
蛇の鼻先に血飛沫が飛んだ、その瞬間。蛇の怒りは一線を超えた。
くずおれた母親の姿に、少女の蒼白な顔が恐怖で染まる。未だ温もりを残す骸に縋り付く少女へ、笑いながら伸ばされた盗賊の手は中空で止まった。
「貴様等。
白い鱗に覆われた鎌首をもたげ、真紅の目を爛々と輝かせた大蛇。大木の幹ほどもある胴をうねらせ、怒りに牙を剥き出しにする蛇の姿はまさに人にとっての絶望そのものだった。
「ひっ、ひぃい!」
三人のうち一人が、情けない悲鳴と共に武器を放り捨てて駆け出す。一歩遅れて、残り二人も続いた。
「逃がさぬ」
地の上を白い烈風が駆け抜けたと、同時。遅れて駆け出した二人が見たものは、目にも止まらぬ速さで伸ばされた胴と、真っ先に駆け出した仲間の宙に浮いた下半身。地上から二間ばかりの位置にある白蛇の頭が、不届き者の上半身を飲み込んでいた。手を出す暇もなく蛇の喉奥へ消えた仲間を見て、逃げられないと覚悟したのか。女を斬った方の男が、未だ血に塗れた刀を構える。
死ね化物、とでも言おうとしたのか。尾の一撃で獲物を吹き飛ばされ、頭から丸吞みされた男の言葉は中途半端に途切れた。二人目を腹に収めた蛇はそこで、意味を為さぬ声を漏らしつつへたり込む三人目を
「生きたいか」
山賊を始末したことで、蛇の留飲は下がっている。このまま見逃してやっても良いかと思いつつじろりと視線を向けて問えば、しばしの逡巡の後。少女は細い首をふるふると横に振った。
「では、喰われたいのか」
蛇にとって意外なことに。少女はこくりと頷いた。蛇の前から逃走するどころか、一人では山道も降りられないであろう少女を、蛇はじっと見下ろす。山賊を睨み殺した蛇眼を、少女は怯えることもなく見つめ返す。揺らいだところのないそれは、確かに死を受け入れた人間の目立った。
山賊達より以前にも蛇の怒りを買い、死にたくないと喚き散らしては蛇に呑まれていった者はあったが、自ら喰われたいと望む者は初めてだった。母親の亡骸に寄り添い、途方に暮れているようにも見える少女を眺めるうちに。ふと蛇の心に浮かんだ考えがあった。
「貴様、年は幾つだ」
「……六つ」
「ならば、
特段深い考えがあった訳でもない。今のこの小さい躰よりは成長した後の方が美味そうだと感じたからか。はたまた、自ら死を願うこの少女に興味を抱いたからなのか。蛇自身でさえ、天候を左右するときと同じいつもの気紛れだろうと思っていた。
「わかりました。……ひとつ、願いがございます」
願い。久しく聞くことのなかった単語に、ぴくりと蛇の食指が動く。
「申してみよ」
「
ふむ、と蛇は考える。人の匂いが近くにあるというのは異質だが、精々数年で土へ還る亡骸を埋めたいというならば構わないだろう。それに。人の願いを聞き届けるという、久しく蛇の中に眠っていた神としての一面が擽られたのもあった。
「……良いだろう」
短く告げ、尾を持ち上げて大地に打ち付ける。数回繰り返せば、柔らかな土はすぐに抉れた。現れた穴へ、少女が引きずるようにして運んできた母親の骸を安置し、尾で掻き寄せた土を被せる。最後は少女の手で土饅頭の形に整えられた。簡素な墓の前に少女はしばらく佇んだ後。別れを告げるかのように、蛇の方へ向き直った。
来い、と蛇が呼びかければ大人しく付き従う。泉から流れ出る清流に沿ってしばし山を下り、川幅が若干広くなったところで蛇は少女を尾に巻き取った。抵抗一つない体をしっかりと絡め、蛇の司る水の流れに身を躍らせて一気に山を下る。尾を水の上に出していため、少女が溺れることはない。常人が二本の脚で下るよりも遥かに早く、川沿いに広がる麓の村へ到達した。
少女を開放し、岸へ放り出す。続いて岸へと上がりながら。蛇は人の姿へと化ける。
その肢体を包む色は、鱗と同じく白。髪に、肌に、衣に。人の手では決して作り出せぬ、人ならざる者にしか許されぬ純白を纏う、人の男によく似た形をしたモノがそこにいた。全身を包む白のなか、ただ一つ異彩を放つのは、瞳の真紅。血潮よりもなお鮮やかに赤い紅い緋い眼が、周囲を
時刻は黄昏時。畔の上、畑作業を終え帰路に向かう村民らしき男が一人、
「おい」
男へ声を掛ければ、大きく肩が跳ねる。声が届いていることを確認して、蛇は一方的に告げた。
「山の蛇から、言伝だ。この村で、この娘を十年育てろ。その十年の間は、
分かったかと念を押せば男はがくがくと首肯する。行け、と呟きながら少女の背を男の方へ押しやって。蛇は姿を戻しながら、再度川に身を投じた。
十年後に、まだ自分が覚えていれば喰いに来てやろう。川を遡り、山へと帰りながら蛇はそう考える。どうせ、一度人里へ帰してやった人間が再び戻ってくることなどないだろうと思いながら。
眠る白蛇は夢を見る。その日から、丁度十年が経過した日のことを。
泉へと近づいてくる、十数人の足音。それは半ば眠りながら、水中に
(何事か)
ざばり、と頭を水から出す。音からの予想通り、泉から十数歩ほど離れたところに十人ほどの村人らしき男達が固まっていた。泉より鎌首をもたげた蛇に、小さく悲鳴が上がる。ふと人垣が割れ、中から歩み出る人影があった。
「お前は……」
年月は容易く人間の顔貌を変えるが、匂いは変わらない。様変わりした容貌と、記憶と重なる匂いに蛇が驚愕の声を上げたと同時。
「お久しゅうございます。贄として、十年前の約束を果たしに参りました」
あの日の面影を残した笑顔で、美しく成長した少女は微笑んだ。
その場で彼女を喰うのを
「お召し上がりにならないのですか?」
やわく微笑みながら、自分を殺さないのかと問いかける娘。一瞬返答に詰まった蛇が返したのは、ひどく曖昧な言葉だった。
「そのうちに喰ってやる。今は気が乗らぬだけだ」
「おや、それはそれは……。それならば、お願いします」
言葉の後半は背後で恐る恐る様子を窺う村人達へ向けて。見れば、男達は皆手に手に釘や金槌などの工具を持参していた。少女の言葉を機に、予め切り出して運んできたらしい木材を泉のもとへ曳いてくる。
「彼らは、何用だ?」
「私がお頼みいたしました。蛇神様を祀る、社を建てて頂くよう」
社、と鸚鵡返しに蛇が呟く。
「十年前に蛇神様の仰せられたとおり、村の方々は身寄りのない私を守り育ててくれました。蛇神様も、約束通り旱や水害からお守りくださいました。これは、私と村の方々からの、感謝の証。蛇神様が、十年の間村を守ってくださったことに対しての」
「……よく言う」
苦々し気に蛇は言う。己を神として祀り上げるということが意味するものは、すなわち。
「私に、村の守り神になれということか」
「直截に申し上げれば、そうなるでしょう」
隠しも取り繕いもせずに、少女は蛇を見つめる。彼女自身が十年前に見たように、神の機嫌を損ねれば命はないという状況で。
「無論、見返りもなしにとは申しません。社を建てた暁には毎月、村より供物を奉納いたします。お望みとあらば、毎日でも。ですから、どうか。神として、村の実りと民を、護ってくださいますよう」
まず初めに。私が、この命を以てお頼み申し上げます――。
少女は深く深く頭を下げる。首を、躰を、命を差し出す様に。尾の一振りでかき消えてしまいそうな、少女のか細い躰を見下ろして。蛇は口を開いた。
「ならば。こちらからも条件がある。貴様ら人間がそれを呑めば、村の守護を考えてやってもよい」
「本当ですか?」
「ああ、神の名に懸けて誓おう」
「して、その条件とは」
「まず初めに、社は本殿と鳥居のみで良い。石畳も手水舎も、余計なものは誂えずとも構わん。その代わり、本殿は広く造れ。少なくとも、私の躰がとぐろを巻ける程度には」
「承知いたしました。村の者には私から伝えておきましょう。他には」
二つ目を口にする前に、蛇はぐいと首を伸ばした。鼻先を少女の顔の前へ、触れんばかりに近づける。至近距離で赤い両眼に見据えられた少女は、それでも怯まずに見つめ返した。
(十年前と同じ。強い目だ)
そう独りごちながら、蛇は二つ目の要求を告げる。
「社が完成した暁には、貴様は私の巫女となれ。私に仕え、私の社を守り、やがては当初の約束通り私の糧となれ」
十年前に少女を助けたのは単なる気紛れ。その、はずだった。気紛れを越え、はっきりと蛇を行動へと動かしたのは知りたいという一つの感情。せっかく人里に放してやったというのに、むざむざと自分から喰われにきたこの人間へ再び沸き起こった好奇心。あまつさえ彼女が命と引き換えの要求を携えてきたことで、蛇の欲求は頂点に達した。知りたい。娘が何を考え、想い、行動するのかの全てをもっと知りたい。ならば、ずっと彼女を傍に置いてしまえばよいではないか。高々人間一人の心を知り尽くす程度、造作もない。傍に置いてしまえばじきに全て知れる。幸い、かみにとって時間は倦むほどある。彼女の心を知って、知って、知り尽くしたその時は。今度こそ、喰ってしまえばよい。
神たる故の純粋さと残酷さ、二面を宿す真紅が少女の瞳を覗き込む。その色に恐れをなした瞬間、命取りになる捕食者の眼に捉われてなお。
「はい、喜んでお受けしましょう」
生贄の少女は、莞爾と微笑んで運命を受け入れた。
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