みゆき

蒙昧

みゆき

 男のように痩せていつも先の揃わないボブヘアのみゆきは、ぼくにとって、街頭のテレビジョンに映るコマーシャルの、今を彩る女優なんかより、よっぽど可愛かった。ミイラになってゆく老人がひしめく脇道の路地裏で、ぼくたちは出会い、一緒に二つのゴミ箱の中身を引っ張り出して、その中を寝床にし隣り合って暮らした。いつも薄汚れた古着をごみ捨て場から拾い集めて着ていた。みゆきは黒のロングスカートを好み、ぼくは同じ色のパンプスを履き潰していた。この汚穢のなかで暮らしながら、ぼくたちは幸福で、嫌悪する街の人々の誰よりも穢れなくピュアだった。ぼくたちはよく話しをして、一緒に路地裏を蠢くコキブリを観察し、数々の生物の悲惨な死に心を痛め、墓を作って手を合わせた。ぼくはたまに最低限の必要に駆られて、働きに出た。いつからか、手を繋ぐのさえかなり時間の掛かったぼくたちも、出掛けるときに、キスをする習慣が出来た。いってらっしゃい、ダーリン。そう言ってみゆきはとびきりの笑顔でぼくを送り出してくれた。だから、それまでぼくは怠惰の限りを尽くしてきたけれど、生活のための辛く苦しい忍耐を、幸福の空気を息継ぎにしてひたすら続けることができたのだと思う。

 しかし、日雇いで働きに出た初めての建築事務所で、酷い嫌がらせを受けて、踏み潰されて震える爪が割れ血まみれの左の親指を見ないように身を屈め、路地裏に帰ったある日、みゆきは置き手紙のようなものも一切無しに、どこかへ姿を消してしまった。その日、愛するみゆきのおかげで均衡を保ち、釣り合っていたぼくの心の構造物が、錆び付いた留め金が弾け飛び、派手に崩れ去る音が聞こえた。涙が止めどなく溢れた。ぼくの擦りきれてしまった傷は彼女の全身全霊の優しさがあってようやく癒えるのだった。それが今はない。何かあったのだろうか、すぐに帰ってくるのだろうか。そう希望にすがろうとしても空回りして、恐怖と絶望的な孤独に突き落とされ、ぼくはどうしようもなかった。涙で顔をぼろぼろに濡らしながら、狂ったようにビートルズを歌った。その日の夜の路地裏には、終始、寝苦しそうな老人の呻き声とビートルズのEight Days a Weekが響いていた。

 結局、突然居なくなったみゆきはその日から生きてぼくの前に姿を現すことはなかった。隣人に聞いて周ったが、確かな情報をもつ者はいなかった……


 それから二年以上が経っている。ぼくは今でも鮮明にみゆきのことを思い出す。みゆきが拾って喜んでいた少しだけ瓶の底に残った高級な香水とその香り。ここで暮らす人々は皆ほとんど風呂に入らないので色々な臭いがそのまま染み着いたままになっている。ぼくとみゆきは、たまに公園で水浴びをしたが、みゆきにはその香水の匂いがいつまでも仄かに薫っていた。黒のロングスカート、みゆきが気に入っていた洋服だ。いつか格好の洋服のごみ捨て場でみゆきが発見して、まれに見る運命的な出会いかもしれない、と言った。以降大切に履き続けた。居なくなった日、ぼくを送り出してくれた朝にも、みゆきはその黒のロングスカートを履いていた。裾が擦れて端からすぐに繊維や糸屑がはみ出してきたが、それでもみゆきは気にせず履き古した。

 ここら辺は二年のうちに大きく変わった。隣人はことごとくミイラになって、誰かに回収され消えていった。近くの路地裏で警察のホームレス退去命令が出た。その波はいずれこの地域にも押し寄せるだろう。ぼくは、少しもぱっとしない生活だ。働きに出ることを止めて、長く人と言葉を交わしていない気がする。何日もの間ずっとみゆきを思い出しながら、眠ってばかりいる。ふと思い立ったように、ロックンロールのシャウトをしてみるが、一瞬の強ばりのあとに全身で無気力になる。金がなく、食い物もない。排泄のときは近くの公園の公衆便所まで歩いていたが、もうそれも止めようかと思う。食うものが少なければ、出るものも少ないはずだ。それに、最近、公園にたむろしている危ない目をしたヤンキー連中にも、かかずらいたくなかった。クスリが入っておかしくなっていることは見ればすぐに分かった。しかし、間違いかもしれないが、彼らのなかでひときわ目立って狂気じみていて、カシラのような雰囲気を漂わせ、そこらじゅうにピアスを開け、金髪を逆立てたあの男が身に付けていた、ぼくが見たときよりもさらに年季の入って、黄ばんだ黒のロングスカート……じぶんの恐ろしい想像に、身震いした。どうしたら愛するみゆきは帰ってくるのだろう……不満はぼくに関する限りただの一つもなかった。彼女はどうだったのだろうか? ぼくへの愛は無かったのだろうか。幾度も考えすぎるくらいに考えたことだった。いつ如何なる時も胸に喚起される痛みは相も変わらず、ずきずきと痛む。あんなに隅々まで可愛らしいみゆきをぼくは失ってしまった……。もしくは、連れ去られてしまった……どこへ行ったのだろう? どこへ行けば会えるというのだろう? 眠りと鈍い血の巡りがぼくの心を脆くして、突発的な激情が漏れて噴き出してきそうな、そんな感じがあった。みゆきが口ずさんだ歌を、ぼくも歌おう。悲しくなるから、我慢を強いてきた、あの歌だ。みゆきの本当の名前をぼくは知らなかった。みゆきもぼくの本当の名前を知るはずがなかった。みゆきの名前は、中島みゆきから来ている。みゆきはにこにこしながら、しかし、どこか過去をにおわせる悲愴な面持ちで『ひとり上手』を歌った。だから、ぼくもこの歌を歌う。これは今までで初めて、そして最初で最後だとそう思って歌おう。なにしろ、口の筋力や全身の力がもう限界なのだ。あたう限りの最後の力を振り絞って……


 ──心が街角で泣いている


 ──ひとりはキライだとすねる


 ──ひとり上手と呼ばないで


 ──心だけ連れてゆかないで


 ──わたしを置いてゆかないで


 ──ひとりが好きなわけじゃないのよ

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みゆき 蒙昧 @tdj-yuma

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