後編
末子は時折具合が悪くなり、ぼくとアリスを追い返すようになった。アリスが看病を申し出て、たまに世話をしているようだ。それでも体調のいい日は積極的にぼくらを招いてアリスのファッションショーをやった。アリスが末子の若いころの着物を着て、ぼくに見せるのだ。アリスはぼくが初めてこの家に来たときと同様、着物が似合っていた。白い肌も、直線に似た体のラインも、相変わらず美しい。アリスはぼくを見るといつも不機嫌になるが、このショーの間だけは得意げな顔を見せていた。末子もたいそうご機嫌だ。
一段落つき、ぼくはじゃれついてくるぼうしと遊んでいた。ぼうしはぼくの動作を一つも見逃したりはしない。手を出すと何も言わなくても背筋をしゃんと伸ばしてお手をする。一方で、アリスと末子は二人でくすくすと笑いながら話をしていた。石油ストーブが赤々と燃えている。
「そうだったわ」
末子が突然大きな声を上げた。見ると、彼女は部屋の隅にあった畳んだ風呂敷をどかし、小さな細長い木箱を手に取った。蓋を開けて、アリスに差し出す。アリスは怪訝な顔をしていたが、それを見るとぱっと嬉しそうな顔をした。
「くれるの?」
「ええ」
見ると、それはアリスがほしがっていた末子の珊瑚のかんざしだった。ぼくも驚いて見ていると、末子はぼくとアリスの顔を交互に見て、
「やっぱりね、こういうものは早くあげておかないと」
と何か含んだような言い方をした。アリスが不安げな顔をする。
「どういうこと?」
末子はにっこり笑って、
「わたしももう七十六だからね。一番ほしがってた人にあげないとね」
「末子さんは長生きするよ」
「わからないわ」
「これ、返すよ」
「いいのよ。大事にしてくれれば。いつだって借りられるしね」
末子は微笑む。しわの多い顔を優しい形にして。アリスが黙っている。そこで座っていたはずのぼうしが、いきなり玄関へとつながる障子の引き戸をかりかりとかすった。
「外に出たいのかしら。晃太君、リードをつけて遊ばせてやって」
末子はそのままの表情でぼくに言った。アリスはまだうつむいている。ぼくはぼうしを連れて玄関を出た。肌寒い。花の枯れた、囲いのない庭に出て、ぼくは雨戸を閉じた縁側のほうに歩いていった。ぼうしははしゃぎながらあちこちを嗅いでいる。
ぼくは眺めている。末子の家の裏にある山を。
岩山で、木が生えているのは麓のあたりだけだ。岩の部分には、今にも外れそうな、大きな石がある。いつも考えていた。あの石が落ちたら、この家は潰れるだろう。アリスの糸は途切れ、アリスの心は死んでしまうだろう。
「末子さん」
ぼくはぼうしと一緒に中に戻り、暖かい部屋に入って二人の会話をとめた。アリスと末子は、ぼそぼそと何か話していたが、ぼくが声をかけると末子が顔を上げた。
「この家の上にある岩、大丈夫なんですか?」
アリスがぱっとぼくを見た。末子は、ああ、とつぶやいたがどうでもよさそうな態度だ。
「危なくないんですか? どうにかしたら死んじゃいますよ」
「黙れ」
アリスが叫んだ。立ち上がり、ぼくに掴みかかってくる。ぼくは仰天して、アリスに胸倉を掴まれた自分の姿を姿見に見た。
「死ぬとか言うなよ。本当になったらあんたのせいだから」
ぼくの体は強く突き飛ばされた。ぼくはバランスを崩し、障子にぶつかる。すごい音と痛みと共に、ぼくは障子を玄関へ続く廊下へと倒していた。ぼうしが咆える。アリスはすたすたと近づき、ぼくの胴体を蹴りつける。緑色の着物を着て髪を整えたアリスがぼくに暴力を振るう様は、今思えば滑稽だ。しかしぼくはそれどころではなく、痛みに耐えて立ち上がろうと必死だった。末子がアリスを抱きしめる。アリスは突然大人しくなる。それでもぼくを憎憎しげに眺めながら離れ、いつも着替えに使っている部屋へと消えた。末子がぼくを立ち上がらせる。ぼうしはなおも咆えている。
「ごめんなさいね。わたしのせいだわ」
末子はどこか具合の悪そうな顔色で、ぼくの体を点検した。アリスにみぞおちを踏まれたが、大したことはない。ただぼくは驚いていた。アリスの中に、こんなものがあるのかと。不安というものは、鈴音のような弱い人間が持つものだと思っていた。アリスの中に、巨大な不安、それも正気を失いそうなくらいの不安があることは、ぼくのアリスへのイメージを変え、そして失望させた。楽しみにしていたプレゼントの中身が、予想外のつまらないものだったような気分だ。
「わたしのせいね。わたしが老いぼれだから」
末子の声が、やけに遠くに聞こえる。
*
そろそろ、銀杏が散るころだろう。ぼくは教室でも部活でも、何不自由なく過ごしていた。鈴音と別れたことは、もちろん仲間内に伝わった。鈴音はいつの間にか新しい仲間を作り、そこに属していた。ぼくは鈴音より人に好かれていた。だからぼくはひどく非難されることなく、学校にいられた。
この二週間、ぼくは末子の家に行っていなかった。日曜日は友人と遊んでいた。それはそれで楽しく、ぼくが過ごしていたあの末子の家での日曜日は、一体何だったのだろうと考えもしたくらいだ。
アリスは相変わらず学校に通っている。ぼくをちらりと見ることもなく、相変わらず一人でいる。美しいと思うことはなくなった。その容姿は見慣れてしまったし、内面は平凡だ。ただ、ちくりと何かがぼくを刺す。アリスの後姿を見るたびに。その姿は鈴音に似ているのだ。
鈴音。彼女がぼくに残したものは少し苦い。ぼくらは二人で過ごした時間がとても短かった。確か、一月程度だ。彼女と別れたときの彼女の言葉は、重い。
授業が終わり、部活の時間になっても、ぼくと鈴音が話すことはない。ぼくは男子を中心としたグループで好き勝手に絵を描いて遊び、鈴音は静かに部活の課題に取り組んでいる。ぼくは鈴音に目が行く。彼女は自分を捻じ曲げるのは辛い、と言っていた。それはぼくにとって理解しがたいことで、一生わからないことかもしれない。でも、理解したい気持ちが、生まれ始めていた。
「鈴音、一緒に帰ろう」
ぼくは一人で帰ろうとする鈴音を捕まえ、何気ないように声をかけた。鈴音が目を見開く。
「話があるから」
鈴音は少し考える顔をして、小さくうなずいた。ぼくらはつき合っていたころのように、二人で下駄箱に行き、無言で外に出た。肌を刺す寒さだ。
「あのさ、鈴音。おれはいい加減な生き方をしてるから、鈴音の気持ちがわからないし、面白半分につき合ったりとか、しちゃうんだよ」
鈴音の表情は暗かった。きっと今、ぼくは鈴音を傷つけたのだろう。
「他人が一生懸命生きてるってことが、わかんないんだよ。おれは好きにやってもあまり非難されたりしないし、否定されることもない。だからどうしても理解できないんだ」
さくさくと、落ち葉を踏む。乾いたそれらは簡単に割れ、ぼくの耳にうるさく響く。
「でもさ、鈴音の話聞いて、初めて『失敗した』って思った。これはおれが一生後悔する失敗だって思った。ごめん、鈴音。おれ、お前のこと、すごく傷つけたよな」
鈴音は相変わらず下を向いたままだ。ぼくは段々焦りで心臓が大きく鼓動してきたのを感じる。
「薬飲むくらい傷つくことなんて、滅多にないよな。本当に鈴音は辛い思いをしたよな。おれ、別れるときまで深く考えてなかった。ごめん。本当に、ごめん」
「あのね、わたしはまだ晃太のこと好きなんだよ」
初めて鈴音が声を出した。小さな声だった。
「わたしのこと、どうでもいいって思ってること、知ってた。でも、好きなんだよ。弓削さんとのこと、詳しく聞いてくれたよね。あのときから」
ぼくはどう答えていいのか、迷う。ぼくは今、鈴音のことをどう思っているのだろう。
「弓削さんのこと、わたし恨んでる。わたしのこと、あんなに馬鹿にしたし、晃太のこと取ってるって思ってた。でも、弓削さんもさ、人間なんだよね。一人なのが寂しいから、同類のわたしを嫌うんだよね。それに弓削さんは、晃太のこと好きなんだ。だからわたしのことがますます嫌いになったんだ」
「何かされた?」
「されてないよ。ただ、感じるだけ」
鈴音はいつの間にか顔を上げていた。表情は変わっていないけれど。
「弓削さんはおれのこと、嫌いだよ」
「違うよ。だったら一緒に遊んだりしない」
「おれは勝手につきまとってるだけだよ」
「弓削さんに聞いてみなよ。それで二人がつき合っても、わたしは何も言わないから」
鈴音は別れ道で立ちどまると、無表情に手を振り、行ってしまった。
*
その翌週、ぼくは久しぶりに末子の家に行った。末子はぼくが途切れなく来ていたかのように、いつもの微笑を浮かべていた。アリスはむっつりと黙っている。ぼうしは大歓迎。アリスとぼくが倒した障子は、あのことなどなかったかのように元に戻っている。
「寒いね」
ぼくが声をかけると、アリスは手遊びをしながら自分のひざを見た。今日は洋服を着ている。赤いセーター。
「何で来なかったの」
すねた声。
「そりゃ、君がおれに暴力を振るったから」
アリスはぼくをにらむ。
「鈴音と何話してたの」
驚いた。ぼくと鈴音を見ていたのだ。
「色々」
「より戻すの」
「わからない。というか、戻りようがあるのかな」
「あるんじゃない? あんたたち、元々仲良かったんだから」
「鈴音に言われたんだけど、君はおれのこと好きなの?」
「はあ?」
アリスの顔が歪む。馬鹿じゃないのとその顔は言っている。やはりそうか。ぼく自身、それはわかっていた。
「冗談だよ、冗談」
「きつい冗談だよね」
軽く笑ってぼくは話題を変える。
「あのさ、君がたくさんの友達を捨てたのは何でなのか、教えてくれる?」
「は?」
「君は最初から一人だったの? 友達なんて、皆上辺だけだったの?」
「意味わかんない」
「鈴音が薬飲んでること、知ってる?」
アリスは黙り、瞳と唇を震わせた。末子は困ったようにぼくらを見ている。
「鈴音をいじめて、そのせいで鈴音が傷ついたこと、知ってるよね。薬を飲むことで鈴音は君につけられた傷を埋めてる。君はそれを知って、糸、じゃなかった、友人関係を切ったんだよね。君は、今も鈴音のことで苦しんでるんだ」
アリスは唇を震わせながら、泣いていた。涙の筋がいくつもいくつもできる。末子がアリスのほうに近寄る。
「一人になることで、楽になろうとしてるんだ。もうあんな残酷な仲間も、過去の自分も、切り捨ててしまいたいんだ。そうだろ? それって、ずるくない? おれはそう思うけど」
アリスが泣きじゃくる。さっきの強気な彼女はどこかへ行ってしまった。末子にすがりついて、泣いている。やめなさい、と末子。
「晃太君は知らないんだろうけどね、アリスちゃんは小学生のころから」
「やめて、末子さん。言わないで」
アリスがとめようとする。ぼくは驚いて末子を見る。末子はとても厳しい顔をしている。
「いいえ、言うわ。アリスちゃんは小学校のころから薬を飲んでるのよ。お家の事情で傷ついてね。苛立って鈴音ちゃんをいじめて、同じ状況にさせてしまったことを、未だに悔いてるのよ。どうしてそれを掘り返して、アリスちゃんを傷つけるの」
今度はぼくが黙る番だった。アリスが泣いている。末子がぼくをにらんでいる。
「アリスちゃんは、あなたが鈴音ちゃんを大事にしてないことを心配してたのに。つき合ってるのに、ここに入り浸ってもいいのかって、いつも言ってたのに。冷たくて残酷な人間はあなたでしょう。どうしてそんなことを言うの」
ぼうしがぼくの横で伏せて、ぼくをじっと見ている。ぼうしはぼくを心配しているのだ。しかし、心配を受ける権利はぼくにないだろう。ぼくは傷つけた。たくさんの人を。記憶をさかのぼっていく。ぼくは他人に傷をつけて生きてきた。気弱なクラスメイトをからかったし、家族に暴言を吐いた。それでも人に好かれてきたから、気にしたことがなかった。ぼくは、他人の人生を歪めて生きてきた。
「ごめん」
末子の家を飛び出す。ぼうしは今日ばかりは送り出してくれない。自転車を走らせると、川にたどり着いた。ぼくはそれから数時間、寒空の下で凍りかけた川を眺めていた。
*
ぐるぐる回る。アリスと鈴音と末子。ぼくの周りを回る彼女たち。夜空の星の動きを早回しにしたように回る。アリスに対して、ぼくは勝手に希望を抱き、失望した。鈴音に対し、内心無視していたくせに今では味方気取りだ。末子に対し、何の感情も抱いていなかったけれど、この状況。回る。めまいがするほどに。
川面が揺れている。凍ってなどいないのだろう。
*
無人の美術室で、ぼくはデッサンノートを開いた。そこには弓削アリスの顔をした不思議の国のアリスがいたし、椅子に腰かけたアリスがいたし、鈴音もいた。鈴音はアリスと同じ姿勢で描かれていた。こんなところでも似てるんだ。ぼくはそう考え、苦笑した。誰かがぼくの後ろを通る。
「あ、鈴音」
鈴音は立ち止まると、緊張した面持ちでぼくを見た。ぼくはわざとへらへらと笑う。
「何だよ。弓削さん、おれのこと全然好きじゃないみたいじゃん。恥かいたよ」
「そう」
「ねえ、またおれの彼女にならない?」
鈴音は目を見開く。ぼくの提案は唐突すぎるようだ。
*
あのとき以来、ぼくはアリスに対するこの強い関心の正体を考えていた。アリスは相変わらず一人でいる。末子が亡くなったから、本当の一人なのだろうと、以前のぼくなら考えるだろう。
末子は冷え込む十二月のある日、心臓発作で亡くなった。葬儀にはたくさんの人が来た。一人きりで生きてきたという末子の人生を考えると信じられないくらいに。多くは彼女のかつての弟子だった。そして、近所の人々。他にも多岐にわたる知人たち。彼らは末子を慕っていた。人間関係は目に見えるものだけではないと言った、末子を思い出す。情の深い末子。彼女は知らず知らずのうちに人に感謝されていた。
ぼくは糸についての考えに、「見えない糸」を加えることにした。そして、もう一つの糸の存在に気づいた。
*
アリスは綱渡りをしている。自分という糸の上で、バランスを取っている。それを支えているのは切ったはずの、あるいはなかったはずの見えない糸だ。アリスは危うい思いをしても、どこかしらの糸に受け止められ、助けられている。
「弓削さん、おれたち、友達になろうか」
末子の初七日で鉢合わせしたアリスに、ぼくはそう声をかけた。アリスは仏頂面だが、アリスが引き取ることになったぼうしが、ぼくに向かって尻尾を振る。
ぼくもアリスの糸の一つに加わりたいと思っている。
《了》
アリスの糸 酒田青 @camel826
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