中編

 ぼくは化粧をしたアリスの行き先を知っている。だからぼくは土曜になると友人たちと遊ぶが、日曜はアリスを追いかけることに決めている。末子の家は、こうやって突きとめたのだ。

 時間はさかのぼる。アリスをつけ回すことに決めたまだかなり涼しい五月のこと、ぼくはまずアリスの自宅を見つけ、次に末子の家を発見した。

 アリスの家は、よくある裕福ないい家のようだった。両親とも、アリスによく似て背が高かった。感じのいい人たちだが、何日も観察を続けているうちにアリスが彼らを無視していることがわかった。反抗期、だろうか。いや、これも糸を切る作業の一つなのだろう。親すら自分から切り離したがっているのだ。

 末子の家は、アリスの家から自転車を走らせて十分くらいのところにあった。山の麓にある、小さな木造の家。ずいぶん古いようだった。庭には様々な鮮やかな花が植えてある。縁側がこちらに向いている。そこは開け放たれていて、中の様子がよく見える。古そうな姿見が一つあるきりの畳部屋。アリスは老婦人に派手な着物を着つけてもらったようだ。山吹色に赤い薔薇の大きな柄が描かれていて、雛人形のような顔をしたアリスにはよく似合っていた。ぼくは自転車に乗ったままぼんやりと彼女たちの華やいだ様子を眺めていた。

「何してんの?」

 アリスの苛立った声が降ってきた。ぼくは隠れることもせずそうしていたのだから当然だ。

「あ、弓削さん? おれ同じクラスの山田晃太」

「知らない」

 自己紹介しても無視されることは承知の上だった。ぼくは構わずアリスに話しかけ続けた。

「弓削さん、すごく似合うね、着物。前からここで着つけてもらってるの? ここ、着つけ教室?」

「うるさい」

「違うのよ。これは遊んでるだけ」

 老婦人、つまりは末子がにこにこ笑いながら顔を出した。ずいぶん上品な人だ。地味な着物を身に纏っているのだが、少しも不自然なところがない。

「昔は着つけや日舞を教えたりしていたのよ。今はアリスちゃんがお遊びで着つけごっこにつき合ってくれてるだけ」

 アリスちゃんの同級生? 上がっていただきましょう。

 末子に逆らえないらしいアリスは、渋い顔をしながらも従ってぼくを迎え入れた。ぼくとしては好機だ。アリスをつくづくと眺めることができる。

 アリスは本当に、着物がよく似合っていた。殊に派手な柄がよく似合う。化粧をしているのはわかっていたが、その化粧も手馴れている。マスカラと赤いグロス。これらの化粧品の名前はアリスにしつこく訊いたら教えてもらった。白い顔によく映えていて、余計に人形じみている。長い髪は横で丸くまとめられ、赤いつるりとした珊瑚のかんざしが挿してある。珊瑚のかんざしについては、末子が「わたしの宝物なのよ」と説明してくれた。

 いつまでもアリスを眺めているぼくに、彼女は愛想を尽かして向こうを向いた。すると暗緑色の帯の結び目が見えた。リボン結びに見えるが、末子に訊くと全く結び方は違っていて、文庫結びと言うのだという。巻いた帯の上にリボンが乗っている感じだ。褒めるとアリスは珍しく気をよくしたらしい顔をした。仏頂面を少し和らげただけのことだが。

「アリスちゃんは本当に好きよね、文庫結び」

 末子が自らの柔らかそうな白髪を撫でながら微笑んだ。

「他にも色々な結び方があるのよ。これはね、お太鼓結び。帯の基本形よ。帯の柄がよく見えていいのよ」

 末子は自分の藍色の帯の後ろを見せた。テレビなどで見る、きちんとした着物につき物の形だった。

 他にも色々な結び方があって。

 末子は色々な帯の結び方を説明した。ぼくは得意の笑顔でそれを聞き流した。アリスの帯の結び目がかわいらしいからぼくは興味を示したのだ。帯の結び方自体に関心があるわけではない。アリスはそれを察知したのだろう。ぼくに向き直って言い放った。

「帰れ」

 ぼくはたじろいだ。末子はおっとりした性格なのか、あらどうして、などとアリスに尋ねている。

「こいつ、学校でもわたしのこといつも見てるんだよ。すごく気持ち悪い」

 アリスの言葉に、何だ、気づいていたのかと驚く。アリスは他人に興味を示さないように見えて、実は意識を向けているのだろう。

 末子は少し怒るような顔になった。

「アリスちゃん。人のことを『気持ち悪い』なんて言っちゃ駄目でしょ」

 アリスが困惑した顔になる。

「でも」

「女の子なんだから柔らかい言葉を遣いなさい。ね?」

「それって柔らかい言葉ならこいつをけなしてもいいってこと?」

 アリスがくすりと笑う。末子はころころと笑い、

「そういう意味じゃないのよ。そういうのは控えめにね」

 などと言う。控えめにね、か。何だ。ぼくは結局そういう扱いか。けれどここに居座る糸口が見えてきたので、ぼくは「ひどいなあ」などと笑って済ませた。末子はほほほと声を上げたが、アリスはこちらを見もしない。次の話題に移ろうとしている。

「末子さん。わたし、このかんざしほしいなあ」

 アリスが珊瑚のかんざしを撫でた。真っ赤な、血が固まったようなかんざし。ぼくならご免だが、アリスは魅力を感じているらしい。困った顔をした末子にすがって、再度頼み込む。

「末子さん。わたし大事にするから、これ頂戴」

「駄目よ」

 不満顔のアリス。末子は立ち上がり、

「それはわたしの父に買ってもらった大事なものなのよ」

 とつぶやき、襖の奥の部屋に入ってしまった。ぼくはアリスに近づき、

「ちょっと図々しいよ、弓削さん」

 とささやいた。アリスは鬱陶しそうに体を離す。それでもぼくは構わず近寄る。

「珊瑚って高いんだよ。十万とか、二十万とかするんじゃない?」

「近寄んないでよ」

「値段の問題じゃないのよ」

 声がして、末子が姿を現した。何かを持っている。ぼくは元の位置に戻り、アリスはぼくから離れた場所に移動して腰を下ろした。

「あのねえ、これならあげてもいいわ」

 末子が上機嫌な声を出す。手にした布を開くと、そこには古めかしい形の木櫛があった。梅の絵が彫られている。アリスが嬉しそうに声を上げる。

「これ、どうしたの?」

「注文して、買ったのよ」

「わたしのために?」

「そうよ」

「すごい」

 アリスはその櫛を手に取り、ためつすがめつ眺めた。色の濃い木櫛だ。やけにつやつやしているし、アリスはこの通り喜んでいるし、きっと上等な櫛なのだろう。

「柘植の櫛はね、この椿油をこまめに塗ることが大事なの」

 末子は黄色い液体の入った小さめの壜を畳の上に置いた。

「じゃないと、乾いて反ってしまうのよ。手入れ、できる?」

「うん」

 アリスが笑った。とても嬉しそうに。その表情はクラス中から妙な目で見られている仏頂面のアリスとは全く違った。アリスは末子にだけ、この表情を見せるのだろう。

 末子がぼくのために説明をしてくれた。

「椿油を吸い込んだ柘植の櫛で髪を梳くと、つやつやになるのよ。アリスちゃんは若い人にしては珍しくこういうものに興味があるから嬉しいわ。あなたは」

 話の途中で襖の向こうが騒がしくなっていた。これは、犬の鳴き声だ。とても甲高い。

「ぼうしが騒いでるわ」

 末子は立ち上がり、襖を開けた。飛び出してきたのは白い毛玉だ。ぼくに体当たりをしたかと思うと、激しくじゃれついてきた。ぼくは何とか対応しようとするが、犬の動きがあまりにも俊敏で追いつかない。犬はどうやら、ぼくになついているらしい。やたらに尻尾を振り、ぼくの顔を舐めたがる。

「ぼうし、わたしには懐かないのに」

 アリスの不満げな声が聞こえる。熱烈な歓迎を受けているぼくには、アリスの様子を確認しようがない。「ぼうし」という名のこのミニチュアプードルは、次第に落ち着いてぼくの横にお座りした。

 お昼寝の時間が過ぎたのね、と末子。櫛を手にしたままぼくをにらんでいるアリス。ぼうしはやがて伏せてくつろぎ始めたが、彼がぼくの横でそうするのはこの後の日曜日の恒例となる。

     *

 七月のことだった。暑い盛りだ。このころともなれば、ぼくがアリスの遊び場に入り浸っていることは、周囲に完全に広まっていた。ぼくの友人たちはしつこく、交互に、どういうわけなのかを訊きにやってくる。

「お前らつき合ってんの?」

「いや」

「おまえ、弓削のこと好きなの?」

「違うよ」

 ぼくはへらへらと笑いながら答える。アリスは離れた席で、ぼんやりと窓の外を眺めている。

「晃太」

 深刻な声が、近づいてきた。

「弓削さんとつき合ってるの?」

 鈴音だ。ぼくは内心ため息をつきながら笑顔を返す。

「違うって言ってんのに、皆信じてくんねーんだよな」

 鈴音は唇をぎゅっと結び、手遊びをしながらぼくに質問を降りかける。

「弓削さんと、どこで遊んでるの?」

「それは噂の通り」

「どうして弓削さんと遊ぶの?」

「何か興味があってさ」

「弓削さんのこと、好きなの?」

 ぽろぽろと、涙が落ちた。鈴音はうつむいて手で顔を拭く。周囲が少しざわつく。ぼくは、面倒だな、と思い始める。

 そのとき丁度よく、チャイムが鳴った。

     *

 ぼくはこのころ、アリスと糸のことを考え始めていた。アリスはたくさんの糸を持っていた。ぼくよりもたくさんの、様々な糸だ。彼女は何がきっかけか知らないが、それを一気にばちんと切った。気持ちがいいくらいに、あっさりと。面倒な絡みつく糸は徹底的に鋏を入れて切り離した。残したのは末子だけ。末子の糸だけだ。

     *

 その月の日曜日、ぼくは末子にアリスの糸の話をした。末子はうなずき、「そう」と言った。アリスが末子の家に来る前のことだ。

「わたしはね」

 末子はぽつりとつぶやく。

「結婚もせず、友人もなく、七十五年生きてきたけどね、そんな風に糸の例えを考えたことはなかったわ。晃太君は哲学家なのね。でもね。目に見えるものだけじゃないのよ、人間関係は。アリスちゃんにはたくさんの友達がいたって言うけど、ちょっと離れただけでいじめ始めるような人たちは、果たしてその『糸』に当てはまるかしら。もしかしてアリスちゃんは」

「こんにちは」

 ぼくの隣のぼうしが、はっと立ち上がり、また伏せる。アリスが来たのだ。

 末子の話の続きはこうなのかもしれない。

 もしかしてアリスちゃんは、最初から糸なんて持ってなかったのかもしれない。

     *

 夏休みに入っても、ぼくは日曜日になると末子の家に通った。アリスはそのたびに嫌な顔をする。末子も特に歓迎はしていない。女の子同士のおままごとのような遊びをするには、ぼくは少し邪魔なのかもしれない。歓迎してくれるのはぼうしだけだ。ぼうしはぼくを見ると激しく尾を振り、まとわりついてくる。

「晃太君は、夏休み、何してる?」

 末子が訊いてきた。アリスはよく冷えた水羊羹をぱくぱくと口に運んでいる。

「友達と釣りやったり、そうだな、川に飛び込んだり」

 ぼくが答えると、末子は男の子らしいわね、と微笑む。

「今度、友達皆で花火大会に行くつもりですよ」

「アリスちゃんも?」

「どうしてわたしが」

 アリスは相変わらず無表情に水羊羹をつついている。

「その友達の中に、鈴音がいるんでしょ。よくあいつと仲良くできるよね」

 アリスの嘲るような目を見て、ぼくはどきりとした。アリスは鈴音を嫌っている。それは知っていた。態度の端々に出ていたから。しかしこうもはっきりと態度に出されるのは初めてだった。

「あいつ、すっげー暗かったんだよ。弓削さん、弓削さんってしつこいからシカトしたけど」

 末子が深刻な顔でアリスを見つめている。

「今、無理して明るい振りしてるけど、こっちは見えてるんだよね、あいつの本当の顔。つまんない奴だよね。あいつって本当の友達いるのかな」

「弓削さんはさ、いるの? 本当の友達」

 気づけば何となく訊いていた。しかし声は重く響き、焦ったところで取り返しはつかなかった。アリスはぼくを横目でちらりと見て、

「帰れ」

 とつぶやいた。ぼくはどっと汗をかいた。立ち上がり、玄関に向かう。靴を履いていると、末子がぼうしと一緒に追いかけてきた。ぼくと末子は対峙し、末子のほうが先に口を開いた。

「アリスちゃんもね、晃太君なんかと花火大会に行くのかなって、浴衣縫ってたの。違ったのね。どうして誘わなかったの?」

 だって、ぼくはアリスを愛してはいないから。真っ先にその言葉が頭に浮かんだが、それだけではないような気がした。しかし口をついて出てきたのは、末子を傷つける言葉だった。

「弓削さんはぼくにとってただの鑑賞物なんですよ。見るための美しい美術品なんです」

 それを聞くと、末子は一瞬呆然として、「そう」とつぶやき、また戻っていった。ぼうしだけが、家から出て行くぼくを見送っていた。

     *

 花火大会はあっという間に過ぎた。仲のいい友人でまとまったぼくらは、夕方から集まって花火を見、人ごみに揉まれ、たこ焼きを食べ、交際を申し込んだりされたりし、いつの間にかぼくは恋人がいる身になっていた。すなわちぼくは鈴音を恋人として持つことになったのだ。ぼくの心情は簡単だ。そろそろ恋人を持っても悪くはないと考えたのだ。そこに花火があり、鈴音が居合わせた。ぼくらの関係が成立するのは簡単だった。

 鈴音は恥ずかしそうに地面を見ている。ぼくは花火の終わった空を眺めている。

「自転車、後ろ乗りなよ。近くまで送ってあげるから」

 ぼくは自転車にまたがり、鈴音を振り返る。鈴音は浴衣だ。金魚柄の浴衣。ふと、アリスを思い出す。アリスならばもっと上等の浴衣を着られただろう。末子が用意していたのだから。それにアリスの着る着物に比べ、鈴音の浴衣は何て子供っぽく、惨めなのだろう。

「ありがと」

 自転車の後ろに鈴音が横座りに座る。ぼくは自転車を漕ぎ出した。生ぬるい風が、ぼくらの汗を乾かす。花火大会の迎えの車のために、道路は大混雑だ。

「自転車でよかったよ。すげー混んでる」

「うん」

 鈴音の声がこわばっている。ぼくはひどく冷静だ。恋人か。そんなに必要だっただろうか。考えながら、ぼくは鈴音の手がぼくのTシャツを掴むのに気づく。鈴音は、ぼくのことが好きらしい。しかしぼくは鈴音のことをそこまで好いてはいない。それでいいのだろうか? そう思っては打ち消す。どうでもいいじゃないか。

 渋滞した車のライトがぴかぴかと光る夜闇の中を、ぼくは走る。どうでもいいものを後ろに乗せて。

     *

 鈴音に、弓削さんとはもう遊んでないんだと思ってた、と言われた。二学期の初めのことだ。ぼくは、そこまでする意味はあるの? と答えた。鈴音は泣いた。中庭は静かで、かえって居心地が悪かった。

 ぼくは花火大会が終わったあとも、日曜日になると末子の家に行った。相変わらずの対応で、アリスは不機嫌、末子は表向き親切だがどうでもよさそうな様子、ぼうしだけがぼくを大歓迎してくれた。

 鈴音が中庭で泣く前の日曜日は、アリスから珍しく声をかけられた。

「よかったね、もてて」

 にやにや笑っている。どうやらぼくと鈴音の様子を学校で見て、ぴんと来たらしい。

「鈴音ねえ。どこがよかったの?」

「まあ、素直なところかな?」

 ぼくが笑顔で答えると、アリスはけらけら笑った。

「嘘。どうでもいいんでしょ、つき合うとかさ、彼女とかさ、一番めんどくさそうじゃん」

 はは、とぼくはちょっと笑い、黙った。アリスも黙る。そこに末子が現れた。顔色が青い。アリスは敏感に気づき、「どうしたの?」と尋ねる。末子は笑って答えた。

「心臓が悪くてね。でも大したことはないの。治まるから」

「心臓? いつから?」

 アリスの顔まで青くなる。末子はへたりと座り、

「子供のときからね。一時期治まってたんだけど、今年に入ってからたまに辛くてね。ごめんね。今日は二人とも帰ってくれる? 寝たいの」

「いいよ。もちろん。末子さん、大丈夫だよね」

 末子の体にそっと触れ、必死の形相でそう訊くアリスを見ると、彼女の最後の一本の糸は絶対に切り離してはならないものだと思った。そうしないと、彼女はどこかに、そう、ぼくの知らないどこかに落ちてしまうかもしれない。

「大丈夫。ただ、今日は帰ってね。どきどきしてたまらないの」

 鈴音の泣き声を聞きながら、アリスの糸について考える。彼女が綱渡りから落ちないように願う。落ちても這い登って元に戻れるかなんて、経験の浅いぼくにはわからないのだから。

     *

 鈴音の態度は日々鬱陶しいものになっていく。アリスを見ているぼくの視界を遮るくらいならいい。しかし人目のつく廊下で泣かれるのは我慢できない。彼女には忍耐と言うものがない。そんなにぼくの行動が気に食わないなら、ぼくを切り捨ててしまえばいいのに。

 校庭の銀杏が黄色く染まっている。美術部の活動が終わったあとに、ぼくと鈴音は共に下校した。このとき、鈴音は珍しく無口だった。いつもならこちらが辟易するほどに話すのに。

「詳しく話してほしいんだ」

 いきなり溜まっていたらしい言葉を開放した鈴音は、こちらをじっと見ていた。

「どうして弓削さんを見るの?」

「あー、聞きたい?」

「わたし、晃太の彼女だよ。聞きたいに決まってるよ」

 ぼくは少々疲れた気分で鈴音を見た。背の低い彼女は、ぼくの目の下でぼくをにらんでいる。

「弓削さんはね、おれにとって特別なんだ。何というか、興味深い。彼女がどうして一人なのか、あんなに他人に冷たいのか、一人だけを大切にしているのか、気になって仕方がないんだ」

「弓削さんが大切にしてるのって」

「ああ、末子さんっていうおばあさんだよ。そこは誤解しないでほしい」

「誤解」

「うん」

 鈴音は少し黙った。そしてこうつぶやいた。

「好きじゃないんだよね、弓削さんのこと」

「うん」

 ぼくはあっさりと答える。

「わたしのことも好きじゃないんでしょ?」

 ぼくは黙る。

「晃太は忘れてる。わたしが弓削さんにいじめられたこと。それか、どうでもいいんだよね。わたしのこと、別に好きじゃないけどつき合ってみただけなんだよね」

 鈴音の目は乾いている。

「でもね、晃太」

 虚ろな目でぼくを見た鈴音は、ぼくがどきりとするものを持っていた。

「わたし、薬を飲んでるんだよ。自分を捻じ曲げるのって、辛いんだ」

「薬?」

「心を落ち着かせる薬。そうでもしないと、弓削さんや皆に全てを否定されたってこと、自分の中で誤魔化しきれない」

「鈴音」

「別れよっか。もう潮時だもん」

 鈴音はかすかに笑い、ぼくから逃げた。ぼくは呆然とそれを見守る。鈴音の走る姿は、何故かアリスと重なった。

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