アリスの糸

酒田青

前編

 人間関係が作り出す糸は、その中心にいる人物を柔らかく受け止めるくらいに密に絡まりあっているのが一番いいと、ぼくは思う。縦糸があり、横糸があり、微妙な模様を作り出す凹凸がある。布になってしまうほど密に。それくらいがいい。けれどアリスはそう考えてはいない。

 アリスは綱渡りをしている。一本の糸を兎の穴にピンと張り、落ちまいと懸命にバランスを取りながら歩いている。そっと、揺れないように。揺れたらどうなるのだろう。落ちる? 自分の常識の通じない連中が住む穴の中の世界へ?

 わたしにしてみれば今いるこの世界はすでにおかしな世界。あんたの考えることだって理解不能。押しつけないで。放っておいて。

 アリスはそう答えるかもしれない。けれどぼくは放っておけないのだ。ぼくはアリスを愛してはいない。けれど、いつだって見つめている。

     *

 弓削ゆげアリスを中心にした輪は、他の輪に比べて異様な緊張感に包まれている。手にしたデッサンノートに弓削アリスを描きつける。それだけの作業に、友人のノートを覗いたりいたずら描きをしたりのおふざけなどする余裕もなく、ただたまに他人の目つきを盗み見ながらこの状況に戸惑っている者が大半だ。弓削アリスは美術教師に指名されると、動揺することもなく素早く輪の中心にある椅子に腰掛けた。美術のデッサンのモデル。ただそれだけだ。けれど弓削アリスはそれを奇妙なものに変えてしまういくつかの条件を備えているのだ。

 一つ、無口であること。彼女は授業中に教師に指されたときしか話さない。そのため、今年度彼女とまともに話したことのある人間は一人もいないのだ。

 二つ、悪い噂があること。彼女はとても性格が悪く、一年のときに手酷いいじめのリーダー役をやったことがあるらしい。

 三つ、美人であること。彼女は誰よりも色白で、雛人形のようなちんまりとした端正な顔立ちをしている。おまけに中学二年生にしては長身で、一六五センチメートルもある。一般的な同い年の少年ならば、彼女は近寄りがたい存在だろう。

 細かなものを除けば、その三つが彼女を悪目立ちさせている。彼女もそれを利用しているところがある。お陰で、一人になれるからだ。普通なら嫌がるモデルの役目をあっさり引き受けたのは、一人に慣れているからだろう。男子も女子も、ぼくがモデルを務めたときとは打って変わって大人しい。ぼくがふざけたポーズを取ったときは笑い声が絶えなかったのに。

 アリスは椅子にただ座っているだけだ。膨らんだ唇を軽く結び、ぼくを見ている。うぬぼれてはいないから、彼女がぼくをにらんでいることは知っている。ぼくは構わず彼女を丹念に眺める。鉛筆で紙を擦る。細かく陰影をつけ、彼女の整った顔立ちを特に丁寧に描く。彼女の強いまなざしも、できるだけ正確に表す。するとぼくのデッサンノートには彼女の生き写しが現れる。鋭い目。着崩していない夏のセーラー服。筋肉の形が見えないすんなりとした足。

「うわ、上手いね」

 隣の椅子に座っている田中鈴音がぼくのノートを覗き込む。ぼくは笑って、

「お前のも見せろよ」

 と無理やり鈴音のノートを奪い取った。そこには輪郭しかない、色の薄いアリスがいた。

 鈴音がぼくからノートを取り返そうと、笑いながら身を寄せてきた。アリスがぼくたちから目を逸らす。グループの他のメンバーは、ぼくたちに釣られておしゃべりを始めるようになった。いつの間にか美術室で一番騒いでいる。

「静かにしなさいね」

 ぎょろ目の女教師が、いやに優しい声でぼくらに声をかけた。ぼくらは言うことを聞かずに、互いのデッサン画の出来を見たり、それを冷やかしあったりしていた。しかしアリスがいきなり立ち上がると、ぼくらは黙った。

「モデル、必要ないんならやめるから」

 切れ長の目でにらまれてそんなことを言われると、ぼく以外の生徒は何も言えなくなってしまう。ぼくも皆に合わせて黙り、自分の椅子に座った。アリスも中央の椅子に座る。先程の騒ぎの名残であるむさ苦しい人いきれが辺りに漂っている。 

 まるで女王様だ。

 誰かがつぶやくのが聞こえてくる気がした。

     *

 美術の授業が終わり、鈴音がぼくに追いついてきた。彼女は丸顔でショートヘアの、明るい性格の女子だ。

「晃太のデッサンノート、あとで見せてね」

 鈴音は、満面の笑みで、弾むように話す。

「いいけどさあ、何に使うの?」

 ぼくは鈴音と同じリズムの話し方で答える。

「使うわけじゃないけど、晃太って絵が上手いじゃん。すっげー見たい」

「そういえばこの間、鈴音もモデル役でデッサンやったね。あれ見たいの?」

「違うって。ただ晃太の絵が上手いから見たいだけだってば」

 ぼくの友人たちが、にやにやと笑いながら鈴音を見ている。あとでぼくを冷やかすつもりで観察しているのだろう。鈴音のキーの高い声が、ぼくの鼓膜を突き刺して、ぼくに内心こう言わせる。

 この女、何てうざったいんだろう。

 にこにこ笑いながら、ぼくは鈴音と話している。そこをアリスが早足で歩いていき、見透かすような目でこちらを見て去っていく。アリスの細い足首が、ぼくの目に鮮明に残る。

 アリスは、ぼくの恋人ではない。ぼくは彼女を愛してさえいない。けれど罪の意識を感じるのは、こんなときだ。アリスの嫌いな鈴音と仲良く話しているとき。

 アリスの悪い噂は本当だ。アリスは去年、鈴音をいじめた。クラスのほぼ全員を扇動して、彼女を徹底的に否定したのだそうだ。無視されたし、持ち物を隠されたと彼女は言っていた。されることは単純だけれど、鈴音の心はぐちゃぐちゃになった。当時陰気な性格だった鈴音は、二学年に上がったのを機に、性格を変えた。積極的な、明るい少女。それになりきったのだ。

「でもね、晃太」

 鈴音はのちにぼくに言う。

「わたし、薬を飲んでるんだよ。自分を捻じ曲げるのって、辛いんだ」

 それでも、ぼくはアリスから目を離せない。アリスは何か他の人間とは違うものを秘めていて、それはとても興味深いし、何より彼女は美しいからだ。

     *

 アリスについて、ぼくは多くのことを知っている。

 一学期に行われた身体検査の結果は身長一六五・五センチメートルに体重四二キログラム。これは保健室で勝手にデータを見た。痩せ型のほっそりした体型だ。性格は嗜虐的で、それは未だに変わっていない。家族構成は両親とアリスの三人。アリスが反抗期に入ってからはほとんど話をしない。友人は、昔は大勢。今はたったの一人。この街の隅に暮らす伊藤末子という老婦人一人だ。アリスは末子と遊ぶことで世界と繋がっていると言ってもいい。

 人間関係を糸に例えてみよう。アリスの糸は今や末子という一本の糸のみ。これのみでアリスは現実世界にいるのだ。とても、危うい。ぼくは常々そのことを危惧している。

     *

 ぼくは美術部員だが、小さな中学校の美術部というものはとてもいい加減だったりする。特に女子が多数、男子が三人という状況では運動部のように一致団結しようもないし、教師がどうしようもなく気弱ときては舐めて遊ぶくらいしかしようがない。美術部はサボり部だと言われているし、実際サボっている。けれどぼくは結構真面目にデッサン画を描くし、遊ぶとしてもイラストを描いている。ぼくの絵はなかなか面白いと思う。ぼくの美術部仲間の男子たちの絵とは違い、少年漫画風ではない。 写実的でありつつも、衣装などが現代のものではないのだ。例えば飛脚の絵を描く。褌で隠れていない部分の尻を仕上げると、途端に仲間たちが大笑いして女子たちも寄ってくる。更にぼくは皆の前で平安貴族たちを写実画にしてみせる。教科書に載ったのっぺりとした肖像画を見ている彼らには、その違いが面白い。げらげらと笑う。このころには教師がやってきて、「皆さん、課題のポスター制作に戻るように」などと言う。友人たちは気にせずぼくの次の絵を待つ。ぼくは最後の絵を鉛筆で描く。丁寧に、服のしわも本物らしく。顔は、誰にしようか。

「ああ、不思議の国のアリス。上手いなあ」

 誰かが言って、少し妙な空気が流れる。

「弓削さんに似てるね」

 鈴音が言う。

     *

 ぼくの日常はアリスのことを考えることで過ぎていく。アリスは今日も一人だろうか。一人は楽だろうか。でも、楽であっても寂しくは、辛くはないだろうか。

     *

 アリスはたくさんの友人の糸に、鋏を入れた。それが、

「あんたたちみたいな馬鹿とはもうつき合ってられない」

 の一言である。馬鹿呼ばわりされた友人たちはあっという間にアリスから散った。残ったおせっかい焼きの友人も、邪険にされるたびに遠のき、一人でいることが多くなったアリスにまとわりつく寂しがり屋の少女たちも、アリスが思い切り「鬱陶しい」とはねつけているうちにいなくなった。今やアリスに話しかけようという者はいない。皆がアリスを恐れているのだ。

 ぼくは昨年度から彼女のことを知っていたが、彼女を目で追うようになったのは今年度からのことだ。一際美しいアリスが一人きりで座り、最初のホームルームでの自己紹介になると、目を吊り上げて「弓削アリスです」とだけはっきり言って着席するその姿にぼくは何故か強く惹きつけられた。何か、特別なものがある。彼女はすごい人間だ。そういう気がしてならなかった。だから隣の席にいた彼女のかつてのクラスメイトに、つまりは鈴音に、彼女のことを聞きだしたのだが。

 鈴音は嫌な思い出を封印したがっていた。それでもぼくはしつこく訊いた。そして出てきたのは「わたし、弓削さんにいじめられてたんだ」の一言。そこからは訊かずとも情報が流れ出してきた。アリスの元友人たちとの関係も明らかになってきたのだ。アリスは元友人たちから無視を受けたという。それでも動じなかった、というより端からアリスが彼女らを無視していたので、呼び出しをくらった。彼女は「お高くとまってる」だの「うざい」だのといういじめの常套句を受けても、鼻で笑ったらしい。

 わたしが同じことを受けたときはすごく辛かったのに。

 鈴音が言い足すと、ぼくは同情顔で続きを促す。

 一人になって、アリスは派手になった。化粧をするようになったのだ。

 援助交際とか、してるのかな。

 ぼくは鈴音の言葉を無視した。

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