六.溺死
──水底から見上げる空の色はどうだったのかと、問いかけようとして、結局。
その発言は唐突であった。
否、そもそも西萩昇汰という男の宣うことなど半数以上が唐突であるのが常なので、船江鶸は半ば呆れを交えながら「またか」と思う他に他意はない。それはいつも通りのことであって、何ら含みなど在りはしないのだった。
「船江はさあ、水の底から空の色を見上げたことってある?」
「はァ?」
思わず声が漏れた船江を、一体誰が責められようか。けれどこの場には残念ながら船江と西萩しか存在しない。つまるところ第三者がいないこの場では、船江の味方は存在しないのだ。目の前の西萩は実に不満そうに唇を尖らせる。何故そうもあらゆる言動が唐突なのか。そしてどうして周囲が当たり前にそれに対応できると思うのか。船江にはそれが甚だ疑問だが、きっとその問いに意味はあるまい。結局溜息を零しながら折れるのは船江の方である。
さておき、水の中から見上げた空の色ときた。見たことはある、筈だ。けれどそれは思い出そうとすると途端に記憶から零れ落ちて行ってしまう。乱反射する陽光が記憶をしろく抉り取りながら瞼の裏でリフレインする。そんな感覚がほんの少しだけ恐ろしくもあった。
「──記憶にないな」
どうにも思い出せそうもない、と判断したところで、ゆるりと船江は首を横に振った。それなりの長考であったと思うが、珍しく沈黙を守っていた西萩は「そっかぁ」という短い言葉でそれに応じた。
「見たことはある筈でしょ?」
「まあ。だがそんなに印象には残ってない」
どうも、今日の西萩は会話を続ける気分であったらしい。けれどその視線はいつの間にか窓の外に向けられているあたり、彼にとってこの話題はそう真剣な話でもないようだ。船江も別に男に眺められる趣味はないので気にはしない。そもそも、西萩が自由人なのは今更というやつだ。言って直る性質なら船江の苦労はだいぶ減っていたと思う。
「深い海の底から空の色を見上げた時ってさ、すごく綺麗な蒼が見えるらしいね。紺碧っていうんだっけ?そういう感じの」
淡々と、西萩の言葉は続く。見慣れたスーツのジャケットはやはり草臥れていて、そういえばあのスーツは一体いつから着用しているのだろうと船江はふと考えた。答えの出るはずの無い思考は巡る。海の底の空の色を語る西萩の、此方に向けられていない眼差しには今その色が見えているのだろうか。何処か薄暗い色をした黒い瞳の色が深くなったような、そんな錯覚に眩暈がする。こういう時の西萩昇汰は酷く不安定な不気味さを持っているような気がして、船江はあまり好きではない。
けれどそれを口に出すつもりは船江にはない。言ったところで西萩に自覚など在りはしないし、あの深淵そのもののような眼差しが此方に向けられるだけなのだからそれこそ一分の利もありはしない。船江は視線を手元の書類に移して意識を逸らした。落とし物の捜索依頼が記されたそれに、後で探しに行くかと現実逃避気味に想いを馳せる。若い小鬼が落したのだというそれは、どうやら蒼い石の首飾りらしい。ああ、もしや西萩の唐突な話はこの石の色の話から来たのだろうか。
「もう、聞いてるの船江」
「聞いてない。第一、深海から見上げた空の色なんて生きてる人間には見られないだろう」
いよいよ聞き流しているのに不快感を覚えたらしい。いつの間にか船江の目の前に来ていた西萩は、顔全体で"不満です"と訴えながら腕を組んで仁王立ちしているので、船江は肩を竦めて言葉に応じた。いい加減慣れてきたが、音もなく移動する西萩には少しだけ肝が冷える。尤も、それを訴えたところでどうしようもないのは知っているのだけれど。さておきいい加減動かねば、と船江は立ち上がった。持っていた書類は机の上に投げ出して伸びをする。座りっぱなしの身体はやはり筋肉が硬直していたらしい。ばぎり、という嫌な音に思わず顔を顰めた。
窓から零れ落ちる初夏の陽光はきらきらとしろい。船江の網膜を焼くようなそれは、記憶から零れ落ちていく水底の空の色に重なった。
「それもそうだ。まあ、プールとかから見上げた程度じゃ深さが足りなくてそんな色見れないらしいし」
「だったらその色の話を俺が聞いても仕方ないだろう。そんな事より仕事だ」
ため息を吐き出しながらジャケットを掴む。初夏の気温で羽織るには暑いが、無いのは無いので落ち着かないので仕方ない。じわりと滲む汗は、もうすぐ来るはずの夏を予言していた。
「ああ、鬼の首飾り探しだっけ。僕も探すかなあ」
「馬鹿言え」
お前にちゃんと視えるのか、と言おうとした口は閉ざされた。暴言が過ぎると思ったからでは決してないが、その言葉は正しくない。
船江の視線が西萩を捉える。「大丈夫だって」と笑うその顔は、向こう側の景色を透かしている。
「見付けたら船江を呼べばいいんでしょ?まあ、船江の動く手間が増えるけど仕方ないよね、僕触れないし」
ふわり、と。踊るように空を泳ぎながら笑う彼は、幽霊である。
「どんな間抜けをやらかして海になんか落ちたんだか知らんが、今のお前は浮遊霊でしかないんだから大人しくしてろ」
「酷い物言いだよねえ。僕だって傷付くことはあるんだけど」
──西萩昇汰は、既に死んでいる。何をどうしたのか(あるいはされたのか)、彼は海で溺れてあっさりと死んでしまった。死体は海の底から引きずり出されて埋葬されて久しいし、いるんだかいないんだかよく知らなかった彼の身内がそれなりに葬式もあげていた。船江は混乱したし、ほんの少しは悲しいと思ったのだけれど、呑気なこの男は魂だけでこの事務所にふらりとやってきたので、なんだか損をしたような心地がしている。
この男が幽霊としてこの事務所にやってくるようになってからそれなりの時間が経つけれども、思い出そうと思えば思い出せるものだ。葬式の様子も、本人確認のために引き合わせられた死体の姿も。そういえば、水底から引き上げられたあの死体は現実感がないほどに綺麗なものだったな、と船江はぼんやりと思い出す。眠っていると言われても信じられそうだったのが、ある意味では救いだろうか。
そこまで思い出して、船江はふと先程の会話を思い出した。深い海の底から見上げる空の色──生者には仰げぬその色を、もしかしてこの男は見たのだろうか。それを問いかけようと振り返って、けれどその視界が捉えた表情の前に、その問いは霧散してしまった。
景色を透かす半透明なその顔は、酷く曖昧な笑みを浮かべている。深淵を宿す眼差しのその向こう側にある事務所の窓から、初夏の青い空が覗いている。ああ、これは問うてはいけないことなのだな、という理解がすとんと胸の中に落ちた。それがどういう結末を齎すのかは知らないけれど。
──故に、船江鶸は言葉を飲み込んだ。何も無かったことにして、意識を仕事に切り替える。今まで通りを保ちたいなら、見ないふりというのも大事なことだ。
だから、彼は知らない。船江の背中に落とされた小さな呟きなんて、聞こえていない。
「船江はちゃんと、浅い所で空を見上げるといいよ」
海の底は綺麗だけれども、やっぱり人間のいるところではないのだから。
嗚呼君よ、安らかに死に給へ 猫宮噂 @rainy_lance
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