五.変質

 ──結局死んだのはどちらだったのだろうか、という問いに答える術はもうない。


 西。暴力的なまでに唐突に訪れた突然の別れだというのに、棺の中の男の顔はいつも通り気の抜けたそれであることが妙に腹立たしい。思わず振り上げた拳は、殴ろうとしたそいつの棺の渕の上で力が抜けてしまい空を切る。「ばかじゃねえの」という声は自分でも驚くほど消え入りそうだった。

 とは言え仕事が待っていてくれるはずもない。足取りは重いが、それでも俺は事務所へ戻るしかないのだ。

 諸々の手続きはスムーズに進んだ。元々二人だけの事務所なので、所長の座はそのまま俺に引き継がれることとなったし、他にもめるようなところもない。こうしてあっさりと世界から西萩昇汰が消えていくのは、妙に恐ろしいような心地がする。

 結局『西萩相談事務所』の名前を変える気にはなれずにそのままにしてあるのはまあ、特筆するほどのことではないのだろう。地味に多かった西萩の私物が取り払われて空っぽの事務所の中で、思い出すように珈琲を啜る。あいつは酸味の利いた豆が苦手だったな、と思いながらいつも西萩が使っていたインスタントの豆をカップに移した。事務所を満たす暖かで香ばしい香りの向こうに「これは所長ぼく用の机だよ」と笑う西萩の幻影を見た気がした。勿論、そこには誰もいないのはわかっているのだけれども。

 自覚するとますます一人きりの事務所は寒々しい。そう寒い時期でもないはずなのに妙に冷えるような心地がして、その日は駅前のカレーうどんを食べに行った。


 西萩の死から少し経つ。相変わらず依頼はまばらだがそれはそれなりに忙しい。そんな変わらない日々の中で、俺にも多少の変化があるらしい。

 一人で回すから疲れているのだろうか、もしくは気が抜けてしまっているのだろうか。無気力になっているといっても差し支えないだろう。部屋の掃除が億劫になってきた。そろそろ掃除をしなくてはと思い始めたころ、そういえば西萩の部屋も汚かったと思い出す。あの凪いだ水面のような男は、こんな風に汚れた部屋で何を考えて一日を過ごしていたのだろう。口許に手をやりながら考えるも、少ししてからふと気づく。わかるわけがないのだ。答えは永遠に失われてしまったのだから。無駄な労力を使ってしまった。それに気づくと、やはり部屋の掃除をする気力は削がれてしまって戻らない。

 またある日のこと。無意識にジャケットを探る掌に硬い触感。ポケットの中には安いライターとポーチのような形の灰皿が入っていた。買った記憶が曖昧なのだが、安っぽい100円ライターの蛍光グリーンの入れ物は、西萩が使っていたものによく似ている。そう思うとなんだか捨てるのが勿体ないような気がして、結局それを未だにゴミ箱には入れられずに、今では時折手慰みに弄ぶようになった。

 そういえば酸味のあるものを口にしなくなった。久々に気まぐれで買ったオレンジジュースに口が痛くなって、結局飲めずに捨ててしまったのは記憶に新しい。出先でふと喫煙所の位置を確認してしまうようになったのも最近だろうか。案外、地図を見るのも面白い。




「船江さん、最近よく笑うようになりましたよね」


 仕事の依頼を頼んでいた情報屋の言葉にキョトンとした。そうだろうか、と考えてから、いや自分ではそういう自覚はできないよなと思いなおす。此方の思考回路に彼女は気付くはずもなく「人当たりがよくなったっていうか、尖ったナイフが丸くなったっていうか?あ、でもそんな船江さんも悪くはないですよ!ギャップ出てきましたね!」とにこにこと笑う。それは遠回しに俺の人相が悪いと皮肉っているのだろうかと苦笑する。


のいうことは相変わらずよくわからないな」


 その言葉に明日香はきょとんとしてから、さあと顔面から血の気を引いて見せた。はて、自分は何かおかしなことを言ったかと考えてから気付く。ああそうか、そう言えばそうだ。俺は彼女をそう呼んだことはなかったかもしれない。


「ふなえ、さん?」

「……今日はもう帰ろうか」


 にっこりとほほ笑んでその場を立ち去る。何か言いたげなその視線を無視してきた道を戻る。夕暮れの道は徐々に人通りが増えていくが、灯りが多くて歩きやすいのがいい。

 そんな思考回路に苦笑。自分はずいぶん西萩昇汰という人間の背中を追いかけてしまっていたらしい。面影を追いかけていたはずが重なっているのは笑っていいことなのかはわからないけれど、不思議とそれが悪いことだとは思わなかった。

 船江鶸が西萩昇汰の面影を追いかけ続ける限り、西萩昇汰という存在が此処にいたという証明は続くのだ。なら、改める気にならなくてもいいだろう。

 目についたコンビニの自動ドアを潜る。目についたのは一番安い煙草で、それを指さして「これください」と店員に言えばあっさりとそれは手に入った。

 火をつけて、めいっぱいに息を吸い込む。西萩昇汰のくゆらせた紫煙の匂いに目を細めて、ゆっくりと息を吐き出した。


 ──さて、仕事が待っていてくれるはずもない。足取りは妙に軽いが、それでもは事務所へ戻るしかないのだから。

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