四.転落死
※当話は奈須きのこ氏の小説『空の境界』俯瞰風景のパロディ作品になります。ご了承ください。
──貌の亡い屍は、どこか手折られた白百合に似て見えた。
ひらりひらり、ふわりふわり。風に靡くスーツと短い黒髪を気にする風もなく、男が空を飛んでいる。否、それは飛ぶというよりも泳ぐという言葉が近い。魚が水中でそうする様に、飽く迄も自然に、男は空を泳いでいる。その光景はあまりにも現実離れしていて、いっそうつくしくすらあった。
透き通る様にしろいその影。風に掻き消されそうなほどに儚いそれを、彼が泳ぐ空にいっとう近いビルの屋上から、船江鶸はただ見上げていた。
ひらひら、ふわふわ。風に逆らって、重力に逆らって、世界に逆らって、彼は空を舞っている。その表情は船江からは窺い知れない。けれどその顔がきっと、船江が知る彼のどの顔よりも人間じみているのだろうと船江は思う。ありとあらゆる呪縛から解放された歓喜を浮かべているのか、風の流れに押し流されまいと苦悶を浮かべているのか、それは分からないけれど。
「西萩」
船江の呼びかけに、空を泳ぐ男ははたと動きを止めた。きょとんとした顔のまま、船江を見下ろす彼はいつもの西萩昇汰のようでいて全く違う
「何してるの?そんなとこで」
心底疑問だ、とでも言わんばかりに首を傾げる姿はあまりにも幼い。身体だけ大人に近づいてしまった子供のようで、それはなんだか歪にも見えた。けれどそんな歪さすら、この異様な空間の中ではうつくしさに埋もれて霧散していく。夜空をぼんやりと切り取る三日月さえ、今は彼の泳ぐ空の飾りでしかないように。
夜空を泳ぐ間だけは、空という空間は彼の為の海なのだ。よくよく目を凝らせば、彼の周囲には同じように数人が空を泳いでいるように見える。そう見えるだけで、実際は流れのはやい川に流されるように、ただ所帯なく漂っているに過ぎない事を船江は知っている。それを、目の前にいるこの男に告げるつもりはないけれど。
「なんで地面に足を付けたふりをしているの?」
その時に襲った痛烈な感情は、言葉に表しきれないほどの歓喜であった。
──何故、忘れていたんだろう。俺は、あの空に飛び出していけるのに。翼なんてなくても、自由に飛べるはずだ。そう、風を切る感覚を憶えている。いこう、いこう、いかなくては!
ぐらり、という眩暈。心だけは今にも飛び出していこうとするのに、身体がどうしても重い。ジャケットの内ポケットの中にある
「うーん……?どうして?」
「それはそうだろ、西萩。人間は飛べないんだ。だから、俺は飛べない。逆に問うが、西萩」
──お前はどうして飛んでいるんだ?
船江のその問いに、しろく煙った彼の顔は間の抜けた驚愕に彩られた。虚を突かれた、という形容が正しいのかもしれない。ぱちくりと瞬きを繰り返すその顔はいつにもまして幼く見える。なんでそんなことを問うのかわからない、と言いたげに──けれども彼は素直に船江の問いに答えるために口を開く。ねえ、船江。ゆっくりと動く唇から滑り落ちた言葉は音もなく微かな月明りに解けていく。
「空を飛びたいと思ったことはあるかい、船江。僕はずっとそう思いながら世界を見下ろしてた。僕はさ、世界ってやつはそんなに好きじゃなくて、世界のほうも多分僕のことを好いてはいなかった。だからせめて世界を見下ろしてやろうとしてた。多分、船江みたいな人たちはそういうのを呪うって言うんでしょう?」
それは例えば公園の遊具から。或いは学校の校舎から、ショッピングモールの屋上から、ビルの上から。彼はずっと、世界を見下ろし続けていた。それは究極の客観。もしかしたら、船江の知る彼が何処か人間味に欠ける理由も其処に起因するのかもしれない。その答えはきっと、だれも持っていないだろうけど。
「そしたらさ、ある時から目がおかしくなったんだ。身体は地面に残っているのに、視界だけが空を飛んでる感覚。これで、何処までも行けるって思った。僕が好きになれる世界を探しに行けるかもしれないって、念願が叶ったんだって歓喜したよね」
だから身体を置いていったんだ。そう言って彼は子供のような笑みを浮かべる。成程、それは正しく呪いであった。幼子が愛されたいと願うような、幼気で悼ましく、小さくて強欲な
「だからさ、船江」彼の言葉は続く。「一緒に飛ぼうよ」差し伸べられたましろの手は、空への誘いだ。「一人じゃちょっと寂しいんだ」迷子の子供のようなそれに、だからこそ船江は応えられない。
「出来ない。西萩、人間は空を飛べないんだ。だから、俺はお前と一緒にはいけない」
──お前はわかってるだろう?
ましろの手を振り払うようにして、視線で彼を射抜く。霞んだ顔は凍り付いたように青ざめ、しろく煙る身体は色を取り戻していく。
「そう、だね。人間は、飛べないんだ」
目を見開いて、表情の一切を消し去った彼の身体は、その言葉とともに重力を思い出したように──地面に堕ちた。煙が風に解けるように消えていった残像を照らし出すように、東の空に光が滲む。ジャケットの中で痛いくらいに冷えていた呪符が体温に温むまで、船江はそこを動かなかった。
大通りを歩いていたのは気まぐれだ。船江鶸は人間が好きではないので、いつもならば人通りなんてほとんどないような場所を選ぶけれど、今日は何となくそこを歩きたくなったのだ。ふと、空を見上げる。青い空を横切る黒い影が見えて──船江の背後でぐしゃり、とあまり聞かない音がした。
誰かが「飛び降りだ」と喚く声に誘われるように振り返る。スーツ姿で不自然に首を捻じ曲げるようにして大地を朱に染める、貌のないその屍はなんだか手折られた百合の花にも似ている気がした。
どうして自殺なんか、という声に鼻を鳴らす。そうとも、自殺に理由なんてない。
「──今日は飛べなかったんだな」
知ってるはずの顔なしに、船江から投げかけられる言葉なんてそれくらいだ。
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